2010年10月30日土曜日

労働することと創造すること

今から10年も前の話、最初の留学(3か月の短期だったけど帰国したあとさらに長期留学を予定していたので自分の中では連続している)を始めようとしたとき、自分は日本と言う国を飛び出したこともなかった。留学へ向かう飛行機は、自分にとって初めての外国行きの飛行機だった。

日本を飛び立つ前の日の晩、今は奥さんになっている当時の彼女と当座最後の食事をトンカツ屋で食べていたとき(←彼女との当座最後の食事をトンカツ屋で取るな、とかは言わないこと)、ふいに、自分の中で味わったことのない感覚に襲われた。

ヨーロッパは好きだったけど自分にとって海外に行くなんてドコか他人事だったのに、今自分は留学に向かおうとしている。誰に命令されたわけでもなかったのに(直の先輩方がみんな留学していたので当然とは思っていても)、自分でいろいろ手配して今飛び立つところまで来ている。何もなかったところから何かが生まれようとしている。そうか、これが仕事なんだな。自分は、いわゆる会社で働いたこともなければ、今自分がしたこと(留学の手配)は金銭的利益や儲けを生むような行為でも、何か目に見える作品や知識を生み出したわけでもないけど、でも何にもないところから、そのままの状態では生まれなかったような何かを自分で作り上げたんだな、ずっと学生・院生を続けていて、自分は働いたことのない人間だとずっと後ろめたい気持ちを持っていたけど、生みだそうとという意思と行為がない状態を続けていたままでは生まれなかった、でもそういう意志と行為を持つことでどこかから生まれた何かを生み出すことを人は労働というのだな、と初めて実感した。「仕事として研究しているんだ」というようなセリフは吐いたことはあっても、肌感覚として、自分が何をしているのかを、それにどういう意味があるのかを知るためにはどうすればいいのかを分かっていなかった。

日本最後のトンカツを前にして、いま書いたようなことを一瞬で知覚した。ちなみに、僕はトンカツが大好物である。で、そのようなことを彼女(奥さん)に話してみた。彼女はやさしく、うんうんとうなずいてくれた。

なんでそんなことを思い出したのかというと、今こちらで研究員として過ごしているうちに、こちらの人間が研究という知的活動にどのような意味を見出しているかについて、あの時トンカツ屋で知覚したことと似たような認識を抱いているからではないか、と感じたからである。
自分の周りにドイツ人が多いからか、Fellowや院生の人が教授に接するときはかなり慎重に接している。OnとOffがはっきりしているので、コーヒーで休憩しているときに研究の話をいきなり話すのはためらわれるところもある。つまり、研究することで生まれる新しい認識を非常に尊重しているからなのではないか、と。研究とは、物事への新しい認識を生む作業であって、それはどの領域でもはっきりしている。理系と人文社会科学系の違いは、その「新しさ」の意味的違いにすぎない。理系は、これまで分かっていなかったこの世の世界の仕組みを明らかにすることで、その「新しさ」は知識として共有できる。これは分かりやすい「新しさ」である。
これに対して人文社会科学における「新しさ」とは誰もしなかった認識、説明や物事の把握の仕方にあり、これは必ずしも「知識」とは限らない。それは「理解」へのこれまでとは異なった説明であり形容であり注釈であり、論理的に拡張され、それまでにはなかった認識を生む限りにおいて、「新しい」。

そう考えると、働くとは、仕事をするとは、何か新しいものを生み出す作業に他ならない。労働することとは創造することで、僕は自分がどういう新しいものを生み出そうとしているのかを、もう少し注意深く認識していこうと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿

QLOOKアクセス解析