2011年3月26日土曜日

戦争によって時代が区切られるのだとしたら、今まさに一つの戦争が始まり、そして終わりを告げようとしている

震災発生以来、ろくすっぽ研究が手につかず、ヨーロッパという地に居てああでもないこうでもない、と毎日悩み続けております。以下の文章は、現段階での自分の所感です。あまりまとまりはありません。こういう職業についている人間が書くものにしては(それが故に?)抽象的すぎるかも知れません。

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日本の状況はネットでしか把握できず、UstreamでのNHK配信も終了となった今、肌感覚として今日本が震災と原発危機にどう対処しようとしているのかは、断片的にしか分からなくなってきている。
(以後、「震災」と言った場合は基本的に地震と特に津波被害のことを指し、原発危機は福島第一に由来するすべての問題を指しこととします)

たとえば、今の原発危機、この状況がしばらく続きそうだが、その被害がいかばかりのものになるのかについて、けりがつけばまた人々は普通の生活に戻ることになると考えている人が多いのか、そうでないと考えている人が多いのか、どっちが大勢を占めているのかがよく分からない。「専門家」と呼ばれている人ですら、「最悪の結末」の程度が違う。もっとも、原発をめぐる現段階は、僕が第一報-すなわち福島第一の一号機から四号機までの冷却システムがすべて破壊された-を聞いたときに想像した最悪の事態である。すなわち、原発から放射能が漏れて周りの住民が避難を強いられ、放射能によって農作物・水が汚染され、日本に放射能汚染というレッテルが張られ、そして程度によっては原発の半径何キロかはしばらくの間-それが数週間であれ、数か月であれ、そして数年もしくは数十年であれ-立ち入り禁止区域となるのではないか、という事態である。最後については、きっと専門家であっても意見が異なることになり、最終的には「政治判断」が下されるだろうが、それ以外については、残念ながら、現実のものになってしまった。

もちろん、震災の被害にあった人達、原発危機によって避難を余儀なくされた人が、そんな先のことを考えている余裕がないことはわかる。でも、ある程度の「外野」の人間であれば、そのようなことをを考える段階にきていることは分かっているはずだ。

海外にいるからかもしれないが、今の僕には、今の日本の状況は、いわゆる有事そのものに映る。要するに戦争状態に極めて近いように映る。大量の死者、死を覚悟して国家に殉じる作業の存在、大衆レベルでの一般生活の制限、すべての国民が抱く「次は自分に降ってくる」という感覚。そのような状況が日常に現出する戦争状態は、それを経験することで社会に極めて多くのストレスを与え、それゆえに多くの人間に劇的な心情の変化をもたらし、そして国家を運営する業務への根本的な疑いを投げかける。だから、戦争によって、多くの国家は社会的政治的な転換を経験し、それはその国家の歴史にはっきりとした転換点を作り出す。

第二次大戦後の日本は、戦後復興と高度経済成長を成し遂げた後、内側に豊かな社会を作り上げたものの、国家的目標を失ったかのように、日本がどのような国家として生きるのかという目標をずっと立てれないでいたと思う。第二次大戦後の日本には冷戦の終了も戦後史の画期とならず、ずるずると戦後の世界を続けていた。それは文化的爛熟期ではあったとは思うが、政治的システムは機能マヒに陥り、社会的には閉塞状況に陥った。そんなことは誰でも知っている。でも、多くの人がなんとかしようとしていた問題は、解決されないままだった。

この3.11の大震災とそれに続く福島原発危機によって、戦後日本が歩んできた道は、ガラガラと音を立てて崩れ落ち、これまで考えていた、今から進もうとする道はがれきに覆われている。僕は終末論者でもないし、不安を煽りたい訳でもない。僕が言いたいことは、これから進もうとする道が進めなくなったことで、予想もしない形で、日本は新しい道を模索しなければならなくなったのではないか、ということである。このような形で日本が変わらなければならない瀬戸際に立たされたのは、とても悲しいことではなかろうか。


今回の地震は、千年に一度の規模だと言う。千年に一度の津波を想定外と言いたい気持ちは分からなくはないし、その規模の災害に備えることはおよそ財政的コストからして非現実的かもしれない。でも、日本の歴史はすでに二千年以上の時を刻んでいる。今から千年前と言えば、だいたい平安時代だろうか。平安時代から長い時間かけて、日本は今の姿へと歩んでいった。千年に一度の災害に耐えられない設備を作り、そしてその設備に被害が及んだ時、日本の狭からぬ地方に深刻な災害をもたらすのであれば、その設備を作った時点で、極論すれば、日本の歴史はあと千年でおしまいになることを意味するようなものではないか。

日本の原発政策は変わっていかざるを得ないだろうが、それでも原発に電気を依存せざるを得ないのであれば、たとえ統制が取れなくっても周りに与える被害が最小限になるようなレベルに抑えなければらないだろう。そうでなくとも、これまで原発の議論は結論ありきだった。結論ありきでは議論は成立しない。この話題で健全な議論が成立するか、まずはそこが問われてるのだと思う。

今回の震災によって「何か」が終わりを告げた、ということはすでに多くの人が指摘している。震災で苦しんでいる人、今放射能の恐怖と戦っている人にとって、そんな歴史的視座の問題は、さしあたりどうでもいいかも知れないし、実際どうでもいい話なことも自覚している。

しかし、たとえそうであっても、この大震災は戦争の様であり、そして過去の戦争と同様、この国の形を変えるものである。ただし、震災はたとえどれだけ被害が甚大であっても、敵が不在という意味ではやはり戦争とは違う。終わりもはっきりしない。敢えて言えば、原発の冷温収束の実現がそれに当たるだろう。それがいつになるのか目途が立っていないという意味で、今はまだ戦争が終わっていない段階である。終わっていない段階で何が言えると言うのだろうか。

しかし、自らの専門分野のマージナルな知識が、戦争が終了する前にこそ、戦争後のことを考えなければならないことを私に囁いている。ジャン・モネがアルジェで戦後ヨーロッパ秩序を構想したように、この危機が収束に向かっていることをうかがわせているときにこそ、次の時代には前の時代のどこを修正し、一体何をしなければならないかを描きださなければならない。

特に原発危機に際し、政治に何が出来て何が出来ないのか、政治とはどのような現象で何が問題となるのかは、ある意味非常にはっきり人々の前に映し出されたのではないかと思う。はっきりと映し出されたと書いたが、自分自身それを明確に言語化するところまでは行っていない。しかし、重要なのは、たぶん、これからは従来の政治学的な立場-現実の政治をどう行うかについて政治学はあまり立ち入りませんよ-ではまずいことであろう。日本における政治学界の片隅に生息している研究者として、この事態が投げかけているのは、無力感である以上に挫折感でもある。東大総長は今こそ「知」が問われるときだと書き、それはその通りだと思うが、知のあり方も変わらざるを得ないかも知れない。実学とかそういう意味ではなく、社会に役立つ「知」とは何かを考えていかなければならない。

もうひとつ、今回の危機でさらけ出されたのは、日本が独力でこの危機を解決できなかったことである。それは恥ずかしいことではない。それよりも、結局日本が頼ることが出来たのがアメリカだけだったという事実の方が重要である。中国も韓国も救援隊が駆けつけてくれたが、原発危機や復興などの連帯は不可能だった。ヨーロッパは距離もあったが日欧とも救援隊以上の連携を考えていなかったように思う。僕は、このような日本の国際社会から孤立はとっても不幸なことであり、自分の首を絞めかねないように感じる。


取りとめもなく書いてみたが、日本に流れていたゆっくりとした、しかし淀んだ時間が、今一斉に濁流となって、日本の歴史というか社会全体を変えていっている様を、今私はヨーロッパから見ている。同時に、その変わっていく先がいい方向へと向かわせる義務が、日本人である自分には課せられているのだという責任感を強く感じる。たぶんそれは、海外にいる日本人が多く感じていることではないだろか。

2011年3月18日金曜日

ルーヴァン・ラ・ヌーヴ大学付属史料館利用記

仕事は手につかないが、気分転換を兼ねて通常のエントリーをアップさせてみよう。

先日、ブリュッセル郊外のルーヴァン・ラ・ヌーブ大学(UCL)の付属大学史料館に行ってきました。同大学の現代ヨーロッパ史研究所(CEHEC)の付属史料館の閲覧がこの大学史料館に委託されているからです。

CEHECはベルギーにおけるヨーロッパ統合史研究の中核的存在で、その中心にはMichel Dumoulin教授がいます。CEHECには、ベルギーの有力政治家や諸団体が私文書を提供しており、CEHECが文書を整理し公開しております。CEHECに収録されている有名文書としては、Paul-Henri Spaak、Paul van Zeeland、Pierre Wigny(分類中と記載も現地に行くと読んでいる人がいた)など。

■閲覧手続き
CEHECのページに記載されている通り、まずCEHEC長のDumoulin教授に閲覧許可願いの手紙を送付。閲覧申請用紙は、CEHECサイトからダウンロード。閲覧したい文書を番号まで記入。カタログはサイトにすべてPDFに載っています。手紙は、ほどなくして、教授の許可サイン付きで戻ってきます。
許可の手紙が返送されてきてから現地に行きます。自分の場合は、返送まで一週間程度でした。日本からだともう少し余裕を見た方がいいでしょう。史料の閲覧は、上記のとおり、UCLの大学史料館の閲覧室で行います。ここには特に事前の連絡は要りません。手紙を見せると、その場で史料を持ってきてくれます。

■閲覧室に関するPratical Information
・開室時間 月~金 9:00~17:00(うち、12:30~14:00までは昼休みということだが、朝からいた分には特に何も言われなかった。たぶん、新規の受付不可の時間と解すべきか)
・場所 D-103 (地下一階), Place Montesquieu 3, B-1348 Louvain-la-Neuve
・UCLまでのアクセス:ブリュッセルからUniversite Louvain-la-Neuve駅まで行き(1時間から1時間20分)、そこからモンテスキュー広場まで約5分程度。同広場三番の建物の玄関に入り、左手にある階段を下りたところの部屋です。大学内の施設なので、身分証等の提示は求められず。ただし、上記にあるように、Dumoulin教授による許可の手紙を提示しないと史料を見せてくれません。
・その他詳しい情報は、ここのページを参照のこと。

■複写
デジカメ可。特に制限なし。

■その他
・辺り一帯は大学およびショッピングゾーンなので、大学食堂やお店が多く昼食をとる分には困らない。
・ブリュッセル圏内からルーヴァン・ラ・ヌーヴ大学駅に行くのは、南駅→中央駅→北駅→シューマン駅→ルクセンブルグ駅→以下郊外の順番。電車の本数は、途中乗り継ぎと直通を合わせると大体一時間に二本くらいある。
・ベルギー外務省に行った翌日に訪問したので、そのあまりにオープンさに驚いた。同じベルギーとは思えない。
・ルーヴァン・ラ・ヌーヴはフラマン圏あるフランス語圏の浮き地みたいなものなので、徹底的にオランダ表示がない。建物もすべて人工的に作られ、日本にある郊外団地(東京だと光が丘とか)の雰囲気に非常に近いように思った。

2011年3月13日日曜日

ヨーロッパから見て

イタリアに帰ってきて、日本のニュースはトップ扱いだけど、街はいたって平穏なので、実にやるせないです。
研究は手につかず、ほとんど一日中ニュースを追い続ける。地震発生から72時間が迫っているけど、今日本が直面しているのはそれぞれ異なるベクトルの六つらいの五つくらいの問題を同時にクリアすることが求められているように見える。

第一に、生き埋め等になっている人の救助。絶望的だがやるしかあるまい。一刻を争う。

第二に、孤立している人達への救援。これも一刻を争う。

第三に、東北・北関東における避難している人々への支援。これは一刻を争うものではないが規模が大量。

第四に、原発問題の解決。現在IAEAの事故レベルだと4だが、対応を誤るとそれが5にも6にもなるのではないか。そうしたら、日本、特に北関東はさらに壊滅的な打撃を受け、国際的にも深い爪痕を残す。だから各国はものすごい関心を寄せている。これは、すでに起こってしまった出来ごとに対する措置ではなく、これから起きることを最低限に封じめる措置である。福島第一三号機への措置に対するニュースが随分ないが、まだ峠は越したという発表はない、これが発表されない限り、エマージェンシー状態は続くことになる。

第四に、疲弊する社会を上手に回していく措置。

第五に、復興への道筋をつけること。さらに、従来から懸念されている東海・首都圏直下型地震に対する備えをどう見直すか、ということ。


外にいると、今おそらく日本を覆っている不安感というものが皮膚感覚として感じることが出来ない。自分が日本人と分かるとこちらの人も大変心配してくれるが、しかし所詮遠い海の向こうの話である。私と離れれば、サッカーとか日常の話題に戻っていく。だから、とてももどかしい。

英米の新聞で日本を励ましという記事を見るが、フランス系は次のように報じていた。自分が読んだのは、三大新聞のLe Monde(高級紙)、Figaro(保守・右派系)、Liberation(左派系)だけだが、どの新聞も、今回の地震の規模にかかわらず首都圏の被害が大変少なく、パニックが起きなかったのは、ずっと日本が地震対策を取り続けていた成果であることを強調している。日本人は地震の時何をすればよいのかが頭に叩き込まれている。これはすごいことだ、と。
しかし、Figaroには次のようなことが書いてあった。世界に類を見ない耐震社会を作り上げた日本人は、確かにそのようなシステムを作り上げる能力にたけている。しかし、その場その場で判断しなければならない状況では並み以下の能力しか発揮できない。神戸大震災に対する対応は悲惨だったのだから、と。

日本人だからがんばれるさ!、とも、日本人だから無理、と言うつもりはない。しかし、困難は乗り越えられなければならない。それは希望的観測ではなく義務であると思う。
そして、それは誰かに言う言葉ではなく、自分自身に刻む言葉である。

だからこそ、自分にできることが何なのかをずーと考えています。自分も、ある分野の専門家のはずなのに、何の役も立てそうにないのが恥ずかしい、と。と言っても、当座できるのは募金ぐらいしかないんですね。

2011年3月12日土曜日

ブリュッセルで待機中

早めにイタリアに戻ろうとしたが、チケットが変更不可能だったものらしく、今はまだブリュッセル。
ホテルのチェックアウトの時、受付の人が、自分が日本人だということで非常に心配してくれた。特に、原発の問題は人類的な問題だから、と。

その後、郵便局で前々から出そうと思っていた日本あて郵送物を出していたら、後ろで待っていたアラブ系?の若い男が、日本から来たのか、幸運を祈る、と言ってくれる。
駅のキオスクに行くと、フランス、ドイツ、オランダ語の新聞、すべて日本の地震のニュースが一面を飾っている。

2011年3月11日金曜日

今地震の情報を知る

今ブリュッセルで、朝にちょっとネットを見たときに地震が起きたとニュースがあったが、数日前もそうだったたなくらいで、すぐに出かけ、こちらで午後4時くらいまで仕事したあと、遅い昼ご飯を取るために入ったファーストフードのお店で初めて地震がとんでもない規模だったことを知る。
ブリュッセルから一時間かかるところのアーカイブに来ていたので、気が気がしないままホテルに戻り、フランス語・ドイツ語の衛星ニュースを見る。
津波の映像が繰り返し流されており、大変ショックを受ける。
あの津波に飲み込まれる家々の中には人がまだいたのだろうか。
美しい田畑が泥の津波に飲み込まれる映像はこの世のものとは思えない。

まだ被害の全体像が見えていないが、最小限に祈ることを願っています。

2011年3月10日木曜日

ベルギー外務省アーカイブ

本日ブリュッセルのベルギー外務省アーカイブ(MAEB)に行ってきました。

■概略
・ベルギー外務省は、旧植民地に関する史料(Archives africaines)とそれ以外の一般的対外政策に関する史料(Archives diplomatiques)の二つを保有している。閲覧室は、ブリュッセルの地下鉄Porte Namurから降りて数分の、王宮前広場にも近い外務省本局建物内の一画にある。

■開室時間
月~金: 9:00~16:00
デジカメは使用禁止。コピーは史料を指定し掛りの人にやってもらう形式。A4サイズだと、一枚25サンチーム。
外務省内にあるため、建物の中に入るためには身分証必要で荷物検査あり。建物内の移動は掛りの人が付き添う。

■特徴(感想)
さて、ベルギー外務省アーカイブの特徴は、他の外務省アーカイブと比べると閲覧のハードルが(相対的に)高い点にあると思う。
・まず、事前にMAEBに連絡する必要があるが、その際に、自分の研究テーマと読みたい史料を十分具体的に提示する必要がある。その連絡を受けてMAEBのアーキビストが関連史料を調べ、訪問日に合わせて史料が用意できる、という返事を受け取って初めて閲覧が可能となる。
・なので、ベルギーに関連する史料をMAEBで閲覧しようとするなら、訪問の3か月前にはコンタクトを取り始める必要があるだろう。もっとも、MAEBを利用した文献やこれまでの話を聞く限りは、1950年代までの史料はそろっているが、60年代の史料が開示されているかどうかはかなり不確かで、そのような開示資料を使って書かれている先行研究が存在しているからと言って、別の人も閲覧できるとは限らないようである(これは西独期の有力政治家の私文書でも同じことが言える)。

・通常アーカイブにはカタログがあり、利用者はカタログに目を通すことで自分に関連する史料をピックアップすることになるが、MAEBに関しては、利用者はカタログを参照することができない。カタログはアーキビストのみが参照できるらしい(たまたま話したベルギー人の利用者談)。

・自分は、あるテーマについて5年くらいの幅の史料を読みたいとメールしたところ、返事が来て、そのテーマはすでに多くの研究があり関連する史料集も出版されてますが訪問をお待ちしております、という内容だったので予約が取れたとばっかり思ったのだが、返事の趣旨は、テーマが十分に限定されていないのでもっと先行研究を参考にして内容を限定するか文書の番号を具体的に提示せよ、ということだった。閲覧室にまで行ってアーキビストの人と話をしても、どうもいったいどうやって史料を閲覧・注文したらよいのか分からず、何回か質問したら、どうもそういうことだったらしい。

・言い訳がましいが、自分の中では非常に限定的なトピックについて調べられてたらよいが、できれば史料の全体的な所蔵状態を知りたかったので、あえてやや広いテーマを提示したのだが、どうもそれがよくなかったらしい。

・訪問の一番最後、最後に確認したいことがあってアーキビストを待っている間に、利用者がお昼を食べるのに利用するキッチン部屋があり、そこにたまたまいた閲覧室利用者にこのアーカイブの利用の仕方を聞きたくて話しかけてみた。彼曰く、MAEBは非常に閉鎖的で、どの史料を誰に見せるかはアーキビストの判断で決まっており、粘り強く交渉する必要があるそうだ。特に、今の主任アーキビストは史料開示にあまり積極的ではないらしく、その人が定年を迎える3・4年後以降は状況は変わるかも知れないが、今のところはあまり改善は見込めない、と。僕が、カタログを見せてくれないが、カタログを読まなければ史料をどう整理していてどのような史料が存在しているかが分からないのではないか、それを知ることが研究の第一歩なんだけど、と言うと、それはみんなが苦労していることで自分も1年半通ってようやく分かり始めた、と。

・結論として、ようやく手続きの踏み方が理解できたので一カ月後に再挑戦することに。

・すくなくとも、今日対応した掛りの人(受付から閲覧室まで利用者を誘導する掛り)がそのポストにいる限り、上記に記したアーカイブからのメールはプリントアウトして持って行った方がよい。自分は、メールのやり取りで来てもよいと言われたと言ったところ、文面を見せろと言われ、ネットにつながないと無理と答えると激昂されてしまい、アーキビストに内線を通して確認しなおして入れてもらった。最後に退出する際、次回はメールの文面をプリントアウトしてくるように念押しされる。
■以下余談
・話しかけたベルギー人院生の人はなかなかいい人で、次のようなことを話してくれた。1960年代までベルギーの外交官はワロン(フランス語圏)出身者で占められ、フラマン(オランダ語圏)出身者は少数派だった。しかし、この時代までのフラマンのエリートは実はフランス語を母語としている人がほとんどだったので、言語が問題になることは少なかったし、第二次大戦以前は基本的に良家の子弟が外交官になっていたので、ベルギー外交はフランス語の世界だった。しかし、第二次大戦以降外交官のリクルートが試験による選抜制に移行し、その試験においてフランス語とオランダ語の両方の十分な知識が求められ始め、そして第二次大戦以前に入庁した古参のワロン外交官が退官し始める80年代以降、今やベルギーの外交官はフラマンが優勢をしめ、ワロニー(ワロン人)は少数派に転落したそうだ。なぜなら、フラマンはかなりまじめにフランス語を覚えるが、ワロニーはオランダ語を苦手にする人が多く、試験でいい点を取れないからだ、と。
・実は自分がお昼をその部屋で食べていたとき、ワロニー院生らしき二人組のアーカイブ利用者が雑談しており、その内容は、如何にオランダ語を勉強することがつまらなく、かついやなことであるか、という内容だった。ブリュッセル圏であれば、確か8歳から10歳くらいから、お互いの言語を勉強し始めるはず(ワロニーならオランダ語を、フラマンならフランス語を)で、学校で10年間くらい言語を勉強する。しかし、多くのワロニーはオランダ語がしゃべれない。しゃべる必要もないし、その機会もないからである。これは、日本人が英語を学校で10年間ちかく勉強してもしゃべれないのはなぜか、という日本ではおなじみの日本人に対する英語論の問題と全くと言っていいくらい鏡映しの状況である。
・その院生も言っていたが、ワロニーがオランダ語を習得しても、実際にメリットになることは少ないという。オランダ語は、オランダとフランドル地方でしか使われない言語だが、フランス語はフランスをはじめ多くの国家・地域で使用される。フラマン人がフランスを習得すれば、ベルギー国内だけでなく外交の世界ではいまだ相それなりの重みを持つ国際機関の場でも活用できるのに、ワロニーがオランダ語を習得しても、試験に受かりさえすれば、もうしゃべる機会はそれこそオランダか、フランス語が出来ないフラマン人相手との会話しかない。
・ただ、MAEBの体質は、このフラマン・ワロンの話とは全く別のことだと、その院生の談であった。なんというか、ベルギーは奥が深い。知れば知るほどラビリンスの様である。

2011年3月2日水曜日

Karl-Marx BuchhandlungとKarl-Marx Allee

ベルリンへの滞在はこれで三回目で、一回目は2002年の7月に一ヶ月間旧西独地域の住宅地にあるアパートを借りて3週間過ごした。夕方まで外務省アーカイブに通い、週二回夜6時から9時までゲーテインスティテュートの夜間コースを受講してドイツ語を勉強した。体力的には結構大変で、3週間居た割にはあまり街を探索する元気がなかったのが残念。

今回も3日間の滞在なので特に街を探索する時間はないのだが、せっかくだから、アーカイブが終わってから、昔見て感銘を受けた映画『善き人のためのソナタ』のラストシーンに出てくる本屋が現実にあるなら行ってみたいと思った。

エンディング(ネタばれ)

それで、YouTubeにアップされているラストシーンを見ると(著作権的にOKなんだろうか?)、Karl-Marx Buchhandlungと書店の名前が見える。映画のためだけに装飾を付けたとも思えないで、この店名で検索してみると、実際に行ってみました、というブログも出てくる。住所も出てきたので、早速行ってみた。

住所はKarl-Marx Alleeの78番地で、地図で見るとAlexanderplatzから歩いて行けそうな感じなので、アーカイブからとことこ歩いてみた。すると、このKark-Marx Alleeというのはなかなかの大通りで、78番地には遥かかなたで着きそうにない。それどころか、しばらく行くと、なんというか随分仰々しいファサードを構えたシンメトリーな建物群に行きあたった。なんだろうなあ、と思っているとマルクス像と、その近くに英語と独語による案内板があった。



それによると、このKarl-Marx Alleeというのはヨーロッパで最大級の建築モニュメントで、地下鉄にして三駅分の大通りを挟むアパートおよびその地上階部分の装飾が旧東独時代で建築されたのだと言う。Wikipediaのドイツ語版には結構詳しい説明があり、この映画だけでなく『グッバイ!レーニン』にも登場した、東独のプロパガンダと芸術を担った重要で有名な歴史的場なだとか。うーん、全然知らなかった…。

Karl-Marx Alleeの建築モニュメントの始点。この先、延々同じような建物が続く。
もうちょっときちんとした写真を取ればよかった…

たぶん、Alexanderplatzから30分くらい歩いて、ようやく78番地に到着。確かに映画と同じKarl-Marx Buchhandlungの文字が。しかし、ガラス越しに見える本棚に本がない。人はいるみたいだが、どう見ても本屋としてはつぶれて、その後に別の何かがオフィスとして使用しているようだった。

この本屋のところにも案内板があり、それによると2008年に本屋は閉店になったとのこと。しかし、この本屋の設計と通り全体における配置はこのKarl-Marx Alleeを設計した建築家にとっても大きな意味をもつものだったそうで、本屋の後にはベルリン建築協会が入っている。

今のKarl-Marx Buchhandlung

それにしても、映画では、主人公は郵便配達の途中でこの書店の前を通りがかり、一回通り過ぎたポスターの前に戻ってくるが、この動きは、現地に行くと実は不自然なことがわかる。なぜなら、この建物を少し横から取ると次のような感じだからである。


いまだに旧東ベルリンだった場所には、その時代を過ごした染みが残っていて、そのような歴史的な場所にあふれたベルリンはたまらなく刺激的である。

ただ、丸一日アーカイブワークした後、さらに随分歩き回ったので、体力的にはかなりつらかった…。
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