2011年6月21日火曜日

『複数のヨーロッパ』自共著に対する自省的書評

先日、共著『複数のヨーロッパ』(北海道大出版会)が刊行されました。日本時間の6月21日18:00より東京はKO大学で書評会が開かれますが、在欧のため私は当然出席できません。統合史関係の自分が参加した書物の書評会はこれまで何度か開かれておりますが、いろいろな理由に阻まれ、私は一度も参加したことがありません。今回は、書評会の前に自分なりの(自分が参加したものではありますが)自省的書評を掲載して、当該書評会への間接参加を果たせればと思い、当該書評会が始まる前に、急ぎ三時間程度で書いてみました。かなり荒い文章になっていることはご容赦ください。
最後に、書評会を組織していただいた諸先生方、評者として参加される先生方に深くお礼申しあげます。

------- 以下本文 ---------------

このたび刊行された『複数のヨーロッパ』(以下、本書)について、論文を著した一人として、しかし「複数のヨーロッパ」というコンセプトに関わる企画にはタッチしてなかったヨーロッパ統合史を専攻する人間として、何か今後の研究に資する役立つべきものについて考えたい。

本書の狙いについては編者の二人によるまえがきにあるように、これまでの統合史の単線的理解を時空間的に拡張することにある。それは統合史を超えて広くヨーロッパ史そのものの語り方にまで議論の射程が及ぶとても重要な論点である。評者は、その重要性について決して否定するものではないし、すぐ後で書くように、決して自分の書いた論稿がそのような趣旨に沿っていなかったことを悔しく思い、出来ればそのような方向性に沿った実証論文を将来執筆してみたいと思う(ただし思っているだけで具体的計画はない)。
本書における純粋な意味でのこの企画の趣旨に沿った論稿は第二章から第四章までの、宮下、板橋、黒田論文であり、この三つの論稿が合わさって提示されていることにこそ、本書の意義があると考えられる。評者が記した第五章は、確かに邦語論文ではこれまでなかったテーマかもしれないが、同テーマでのヨーロッパ各国における研究蓄積を考えるとそれほどオリジナリティがあるとは思えない。第五章の拙論文の執筆動機として、ヨーロッパにおける共通農業政策の成立をめぐる歴史研究の絶望的なまでの分厚さとその分厚さがほとんど日本に紹介(理解)されていない現状を鑑みて、基本的な学術的オリジナリティを放棄して、横を縦にするつもりで執筆したことは正直に告白しなければならない(そのために、拙論文には先行研究批判はなく、先行研究のまとめであることをそれとなく記してある)。
ただし、横を縦にして読者が面白く読めるかといえばそれはまた別問題である。また、横の文献がMilwardGriffithsの論稿を除けば仏・独・オランダ語文献であることも、日本における理解を困難にしている遠因であろう(語学的な問題は原始的な問題だが、ヨーロッパ人においても程度の差はあれ同じ問題はあるので、やはり無視できる問題ではないと思う)。また、農業統合の歴史から何を読みとるのか、何を興味深く感じるかについても、各国の読者で態度は異なる。そのため実証的なオリジナリティは放棄しつつも、日本の読者にとって興味深いと思われる点に焦点を絞る記述を心がけることにした(具体的には、統合の出発点としてのシューマン宣言の一種の脱神話化や、農業統合の議論の中に、EECにおいて実現する統合手法の萌芽が既に見受けられること、等。こういうことは、例えば前者のような話は英語で専門的に書こうとすればある意味当たり前の話になっているので、書いても意味のないことになるが、よくも悪くも日本語ではまだ意味のあることと思われる)。

さて、筆者が本書の書評として何か言うべきことがあるとするならば、以下の二つである。第一には、ヨーロッパという地域の地域性とグローバル性の相克、言い換えるならば、ヨーロッパ統合史と一方でナショナルな政治史との接合、他方でグローバルな歴史との接続をどのように達成すべきか(もしくは達成すべきではないのか)という問題である。
本書における統合史の開放が空間的に達成されることは、統合史がどのようにグローバルな国際関係史(などというものがあると仮定したうえでの話だが)とどのように接合されるのだろうか。これは、実際に第一章のレビューの中で取り上げられており、取り分け鈴木論文のテーマと関わりあう。この点を見れば、統合史に多くのまだフロンティアが残されていることは疑いがなかろう。例えば植民地の議論にしても、イギリス加盟後のECが、アフリカとコモンウェルスという二重の歴史的(負の)遺産に対峙しようとしたのか、共同体の中東政策はどのように変遷したのか(そしてそれは中東のグローバルな位置づけとどのように連動しているのか)【なお、このテーマはAurelie Gfellerが部分的に着手している】、ヘルシンキ宣言後のECが東欧の反政府運動をどのように考え、関係を結んだのか(あるいは結ばなかったのか)【このテーマはVarsori弟子系統の人が部分的に着手の様子】等、興味深いトピックは多い。本書に参加された方々は、おそらくこのような領域のフロンティアを切り拓いていくであろうし、これから大学院に進むような後進の方々も、この領域に参入することが一番期待されよう。
さて、ナショナルな政治史と統合史との接続という問題はどうであろうか。実はこの問いをめぐる状況は日欧で捻じれていると評者は感じる。日本での政治学におけるヨーロッパ研究の出発点はナショナルな政治史研究であり、ある種の衰退という言説は存在していても、にもかかわらず日本では正統な研究というポジションを有している。そのため、ある意味、ナショナルな政治史の素養のある人間が統合史に研究領域を<拡張>する、というイメージを持ちがちである。しかしヨーロッパにおいては、統合史はナショナルな政治史研究とは独立した国際関係史のポジションを既に有しており(統合史研究者の多くが既に存在していた国際関係史研究から出てきていることは既に遠藤編統合史通史篇(下記参照)で指摘されているとおり)、その意味で統合史研究とナショナルな政治史研究はある意味断絶している。他方で、ヨーロッパにおけるナショナルな政治史研究は古典的な政治制度・政治社会史から新しい政治史と呼ばれる研究潮流に進みつつある(古典的な政治史研究がもはや成立しにくくなっている状況は昨年度の日本政治学会における網谷ペーパーに詳しい。なおこの「新しい政治史」研究は日本の学界マップに当てはめれば社会史・文化史的研究に近いように感じる)。その一方で、本書第一章に紹介があるように、ケルブレのような「ヨーロッパ社会史」研究は、ヨーロッパにおけるナショナルとヨーロピアンな次元の交錯を示唆しており、言うまでもない「ヨーロッパ化」という政治学的概念の登場と合わせて、ナショナルな政治社会空間はせまくなっている。
評者には、このような研究動向は、ヨーロッパ統合史とナショナルな政治史との融合の可能性(とその限界)を逆に示唆しているように思われる。ナショナルな政治空間の狭窄化にも関わらず強固に残る国の骨格もまたある。60年代から進行する大衆社会化とそのヨーロッパ的共通性と80年代中盤から本格化するヨーロッパ統合との進展は、どのようにシンクロしていくのか。ナショナルな政治言説におけるヨーロッパ統合の力学はどのように浸透していくのか。古典的な外交史がヨーロッパ統合史という名前で新しい国際関係史研究として復活したように、古典的な政治史がヨーロッパ統合による国内政治構造への浸透と限界という観点から新しい政治史として復活する可能性はないのだろうか。このような観点は、ヨーロッパ統合の今後を問うものではなく、ヨーロッパが20世紀に何を達成したのかを問うものである。統合史のフロンティアは、統合史だけのフロンティアではないかもしれないからだ。

第二には、統合という新規な現象をどのように分析すべきであるか、というアプローチ上の問題である。これは第一章の「アプローチ上の開放」に相当する論点であるが、第一章とは少し異なる形で述べてみたい。
当たり前であるが、ヨーロッパ統合は実現してから未だ50年から60年程度の短い歴史しかない。既に多くの人が指摘しているが、統合はその原初から社会科学者・ジャーナリストが観察してきた。事実関係からみれば、多くの出来事は、ジャーナリズムを通じて、また統合に関するものならば、例えばAgence EuropeEurope Bulletin Quotidienを通じて日々報道されてきた。
では同時代的な観察と歴史研究はどう違うのだろうか。それにはいくつもの回答が寄せられようが(一口に歴史研究といっても中世史や近世史と現代史では大きく異なるのでここでは現代史という前提にたつ)、一つの考えとして、歴史研究にはその議論の広がりを既に知っており、そこから逆算して、当時の議論を検討することができる。これは、現在の視点から過去を扱うことではなく、むしろ逆である。当時の観点から見れば、結局成り立たなかったものも、現実的な可能性を帯びたものの一つだった。統合史においては構想を扱う議論が多い。その理由は、構想がたとえ今日の目から見れば非現実的であってもそれがその当時においてどれくらいの現実的重みを持っていたかは一義的に判断できるものではない。
歴史研究(もしくは歴史的アプローチ)とは変化を扱うものではないし、起源(のみ)を扱うものでもない。歴史とは、ある時代において問題となるその問題を取り巻くコンテクストの要素を確定する作業であると、私見では思う。同時代的観察と歴史研究との違いは、そのコンテクストをどこにとるか、という点にある。すぐれた同時代的観察とは、その観察そのものの中に歴史的な視座があり、観察対象がどのような歴史的コンテクストに位置づけられるかを意識的・無意識的に行っているものである。第一章で触れているアプローチ上の開放とは、このコンテクストをどうとるかという問題について、複数のコンテクストの競合や融合を図ることにあるのではないかと感じている。

統合史研究を進める中で感じるときに史料を読みながら疑問に思う点は、「Relance」という存在である。Relanceの時、制度と達成物が劇的に変化する。正確に言えば、それまでは合意できなかったことが合意されたので劇的に状況が変わるのである。評者は、それがRelance=再発進という用語ではうまく捉えられないと感じる。むろん、Relanceとは同時代的に使われた用語であり、そこには多分に理想主義的統合論がある。ここで言いたいのは、何故劇的な合意が生まれるのかは、実は史料から見てもよくわからない点が多い、ということである。おそらく多くの場合、それには冷戦的な状況の変化は、モネやその他政治的リーダーシップの活躍を議論することになろう。他方で、RelanceなきRelanceもある。60年代や70年代後半から80年代前半がそれである。思うに、評者が感じる最後の、そして最高に難攻不落なフロンティアは、愚直なまでに正面から挑む問題-すなわち、なぜ、どうやって統合は誕生し、そしてどのようなロジックに基づいて進展(あるいは時には退化)していったのか、にあるのではないだろうか。

最後に、本書は様々な意味において、遠藤乾編『ヨーロッパ統合史』(名大出版会:いわゆる統合史通史篇)の学術的基盤を受けて執筆されたものである。だから、ヨーロッパ統合の歴史についてよく知らない人が本書をいきなり読んでもややちんぷんかんぷんである可能性はある(特に第一章:第一章はある学問分野の研究動向の展開を実際の研究文献を示しながら記した論稿なので、歴史研究そのもの関心のない人が読むと辛くなるが、この章がいかに労作であるであるかはなかなかその筋の人が読まないと分からないかもしれない)。その意味で、本書を読んでよくわからない点があったら、上記通史篇を一読するだけでも大いに効果はあるのではなかろうか。
「あとがき」にもあるように、ここ近年のヨーロッパ統合史にかぎらずヨーロッパ国際関係史の日本における研究状況は大変活発化している。それが「ピーク」であるかどうかは分からない。これが「ピーク」にならないように、私自身も微力は尽くしたいが、私だけでは到底心もとないので、是非本書を手に取った人の多くがヨーロッパの国際関係史・統合史に魅力を抱いてくれて、そしてヨーロッパのマルチな世界に参入されることを願って筆を擱きたい。

2011年4月24日日曜日

フクシマ、もうひとつのチェルノブイリ

フクシマ、もうひとつのチェルノブイリ



チェルノブイリ事故からちょうど四半世紀が過ぎたこの年に福島第一の事故が突然、しかし予想された形で起こったことに何か関係があるのかと考えるのであれば、間違いなく迷信的である。しかし、近代の産業史における事故の中で最も深刻であるこの二つの事故とその帰結について見通しを示すことには、間違いなく意味がある。

3月11日以降、チェルノブイリとフクシマの二つの事故が似通っているため、技術的もしくは社会的な議論がわき起こっている。しかし、次のように断言することははばかられている:我々は新しいチェルノブイリの出現を目撃している、と。日本の事故が、それまでチェルノブイリが唯一の例だった放射能事故レベルで最も高いレベル7に引き上げられたことで、この二つの惨事を同一の量りの上に置くことになった。それでも、このような事件を受け止めそして考えるためには、歴史的、文化的な参照が必要である。

私はウクライナとベラルーシの汚染地域に何度も足を運んだ経験があるが、そこから分かったことは、チェルノブイリの被害者は、自分達が被った不幸を言い表すためには、どんな基準も、イメージも、そして言葉も持ち合わせていないということだった。チェルノブイリによってそれまでなかったタイプの惨事が始まった。国家も技術者も住民も、文字通り逆境に立ち向かうことすらできないでいる。フクシマの場合はそのようなことはないだろう。「チェルノブイリの戦い」は八百万の住民が数世紀にもわたって影響が続く、公的汚染地域に住む場所でで今も続いている。

だが、フクシマを理解するために、またこの事故がかくも長期にわたって社会に与える影響が途方もなく複雑であることを考えるためにも(今この事故に対処している人々が注力を注いでいる実務的で衛生面的な側面を超えて)、チェルノブイリの惨事から教訓を引き出さなければならない。やらなければならないことは、チェルノブイリの世界に入ることであり、それがそれはフクシマはもちろんのことだが、それ以外の核に関するありうる危険に関し、我々を導いてくれるだろう。


「惨事(カタストロフィー)」とは、古代ギリシャ語で「倒壊」「急変」という意味だが、すべての惨事は、内容と方向の両面においてその定義に問題を引き起こす。いま日本で起こっている惨事に相当するものは、1755年にリスボンを襲った地震(これも津波と火災を引き起こしている)である。この地震の中の地震によってヨーロッパは哲学的に近代に突入することになった。

「神によって望まれた最良の世界」という観念がライプニッツによって退けられたことで、我々は「責任」というものに対峙することとなった。…チェルノブイリとフクシマの災害によって、運命が神の手にゆだねられている以上人々が技術に全面的な信頼をおくであろうこの最良の世界を、人々は捨て去らなければならないと持ちかけられているのだろうか?


というのも、フクシマとともに崩れ去った世界はソ連モデルではなく、西洋的でリベラルなモデルであり、最高レベルの建築技術と管理技術に守られた格納容器を備えていた原発のモデルなのである。

チェルノブイリとフクシマを理解することとは、核や生物化学が先見あるものと見做していた我々の技術計画が今や崩壊したことを認めることである。チェルノブイリについては、その惨事が原子力ロビーの圧力によってなかったものとして隠されてしまうことも、汚染地域にいる住民の叫びも封じ込めることも出来たかもしれない。しかし、フクシマについてはそうはいかないだろう。というのも、過去三十年間、我々は日本を範例として扱ってきた。そういう風に判断するからこそ、フクシマの事件は我々に親近感を持たせることになるからだ。

チェルノブイリは偶然の産物ではなく、ある意味必然的な結果だったことをよく思い起こしてほしい。百万近くの人間がその後始末をするために駆り出されたが、無駄足に終わった。それどころかソ連の崩壊を早め、現実的な公衆衛生面の全体像すらつかむことができないでいるのである。…だからこそ、我々はチェルノブイリの遺産を見出して、その根幹を要約しなければならないのだ。チェルノブイリから受け継いだものとは、これまでかつてなかった遺産であり、アレントの言うところの「過去と未来とのギャップ」を開放するものなのである。

チェルノブイリを記憶しているもの、チェルノブイリで記憶されているもので言えば、フクシマで繰り広げられていること、取り分け事故に対する対処というものは「デジャヴュ」なのではないか。我々はもう次のような風景をチェルノブイリで見てきたのだ。ある建物が(日本の場合は確かにその程度は比較的ましなものだったとはいえ)爆発したこと、放射能を人々の生きしこの世界に漏らさないために石棺のようなものを作り上げようとすること、「清算人(リキダトゥール)が事故を起こした怪物を必死で手なずけようとすること、暴走する炉心を冷却しようとヘリコプターが絶望的ながらも空中を旋回していること。間違ってはいけない。フクシマによって新しい歴史が幕を開けたのではない。もうチェルノブイリにおいて、すべて始まっていたのである。そう、だから、チェルノブイリによって始まった歴史【事故を起こしてから今日までに起こっていること】は、フクシマにとって未来への記憶となるものを、我々に教えてくれるのである。

【では、具体的にチェルノブイリの教訓とはなにか。】第一に、チェルノブイリの生存者を見て思うことは、放射能汚染が引き起こされた後に彼らが「通常生活に戻る」ということは、全く不可能であることである。汚染は、風や雨が吹くままに降るままに、人が生活するのに適さない放射能区域を新たに描き出す。そういった地域を、ロシアの映像作家アンドレイ・タルコフスキーの映画「ストーカー」が描き出している。新しい工業汚染にあった自然は、前からあった豊かな自然の姿と同じである。だがちょっとでも足を踏み入れれば、すぐに死に至る、あのような姿なのだ。

では、もうどこに行くこともできず、避難場所も見つけられなかった時、いったいどうすればいいのだろうか。チェルノブイリの第二の教訓はこれに関わる。これは、フクシマにいる将来汚染地域になるかもしれない地域に住んでいる人々が学ばなければならないことである。それは、汚染が続く地域に住み続けなければならないという状況から逃れる手段が全くなくなってしまった時、現実を否定することだけが、程度の差はあるが比較的平静に将来に対峙することが可能となることである。

ベラルーシの物理学者ネステレンコ(Vassili Nesterenko)は、事故から十年後経過した時、汚染区域の住民の被曝量が、普通で有れば下がって行っていくはずなのに、再び上昇に転じていることを発見した。これが意味することは、事故が起こっている最中のストレスに対処した後-これはフクシマで再び見出されるだろうが-普通の状態に戻りたいという思いが、現実を受け入れることを出来なくさせ、人々は事故以前のような生活に戻ろうとしたことである。【以って回った言い回しだが、汚染の強い地域に足を踏み入れたり、被曝量を出来るだけ少なくするように気をつけるのではなく何もなかったかのように振る舞うので被曝量が増える、ということを意味しているのだろうか】

チェルノブイリとこれからのフクシマは、これまで人類が経験したこともなかった新しいタイプの惨事である。それは長期間続くのと同時に、生き物の命を破壊しながら広がっていく。この惨事によって生き物の命は条件づけられる。それゆえ、社会的な命、身体的な命、そしてまだ生まれてもいない人々を含む幾世代の命はすでに核によって植民地化されている存在であり、この惨事に条件づけられているのである。

津波は、ヘブライ語で言うところ人類史上の最悪の惨事【第二次大戦中のユダヤ人虐殺である】を意味するようになった「ショアー」に匹敵する惨事と我々の目には映っているが、フクシマについては、フクシマの後にフクシマはないであろうし、フクシマはフクシマしかないであろう。この二つの意味はいずれ同じになる。この意味で、いま始まったばかりのこの惨事は、広島や長崎とまったく同じところに置かれたのである。すべては、近代戦争における「例外状況」と繋がっている。すなわち、通常の法制度が棚上げされ、犯罪を犯してなくとも人々に死を命令することを可能とする状況である。

チェルノブイリもフクシマも、原子力発電の導入は、社会全体の福利を増すために産業的には「当たり前のこと」をおこなしたものであり、少なくとも、そのような社会全体に役立つという物言いが、原子力を推進する際の正当化として使われていた。だからこそ、チェルノブイリとフクシマの事故は、我々の社会が一体何を選ぼうとしているのか、我々は技術をどうのようにして使おうとしているのか、我々はエネルギーとして何をどう使おうとしているのか、一言で言えば、我々は自分たちの社会をどのようなモデルに従いながら作り上げようとしているのか、そういった選択に再び問いを突き付けているのだ。災害が起きるたび、国民総生産と経済成長が増すというテーゼがある。その命題自体非常に問題をはらむものだが、原子力災害の場合、そのような経済的幸運は起こり得ない。汚染された地域は、それが農地であれ、養殖用の地域であれ、最悪にも都市区であれ、その価値はゼロになり、ある期間はあらゆる使用が禁止されることになるからだ。

だがこのような強制は、共産主義体制であれ自由主義であれ、経済的に到底認めうるものではない。だからこそ、原子力には保険をかけることができないのであり、いざというときは社会全体がその代償を払うことになるのである。まただからこそ、チェルノブイリの避難地域の「リハビリテーション」は、汚染はされている地域において新たに農業や漁業を開始するために立ち入り禁止区域を移動させていくこと以外にはできないのである。そしてだからこそ、フクシマの汚染地域から恒常的な避難がなされることはないのであろう。

Frédérick Lemarchand; "Fukushima, l'autre Tchernobyl", Le Monde, le 18 Avril 2011.
原文はこちら

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以下以上の文章は、4月18日付のフランスを代表する高級紙Le Mondeに載ったFrederick Lemarchand執筆の長文論稿の私訳です。訳は、読みやすさを優先するために、やや意訳的に訳した箇所もあります。また、少し省略したところもあります。【】内の文章は、私による補足・説明です。著作権的に問題ある場合は削除します。また、たぶんフランス語の理解能力ゆえに誤訳していることもあると思います。もしお気づきの点がございましたら、指摘していただければ、と思います。

筆者のFrederick Lemarchand氏はカーン大学准教授で、リスクに関する複合領域研究センターの責任者の一人だそうです。なお、フランスメディアニュースというサイトに、同論稿の抄訳が載っています。この抄訳は、この発行の次の日にはアップされていますから、プロの通訳の方の力量を思い知りました。私は、4月21日の木曜日に、大学の図書館でこの記事を知り、コピーを取って、毎日少しづつ訳していきましたが、その後同サイトを知り、訳出については同サイトの訳文を参考にしたところもあります。

なおフランスメディアニュースは、連日、フランスの各紙に載った日本の震災関連記事を翻訳してアップしています。大体一日一本程度ですが、それでも、大変な労力です。翻訳はプロの通訳の方によるボランティアだそうです。このサイトの運営にあたって翻訳の労を取られている方々に尊敬の意を表します。フランスにおける震災報道はどのようなものがあるのかについて興味がある方は、定期的にチェックされるといいと思います。

今回、この記事を訳したのは、この記事の内容に感銘を受けたから、というよりも、おそらくいま震災を受けて日本に居住する日本人研究者では言えないような踏み込んだ言い方をしているからであり、それは事情をよく知らない海外メディアの影響を受けた過剰な物言いだからではなく、この人が言いたいことは、フクシマの汚染度はチェルノブイリの程度は行っていないとしても、それでもチェルノブイリの被害者が受けた仕打ちと同じことがフクシマにおいても起こるのではないか、そのような仕打ちを受ける人間がフクシマでも(チェルノブイリと同じ規模ではないとしても)出現するのではないか、だからこそフクシマは第二のチェルノブイリなのである、といものではないか。だとするならば、いったいどんな未来がフクシマに待っているのかについてある程度「頭の体操」に役立つのではないか、と考えたからです(ですから、この論稿におけるいくつかの内容と表現については、それが本当なのかどうかすぐには首肯できない個所もありますが、それはそれでいいと思っています)。

既に、「計画的避難」と言う名の下に、チェルノブイリで起こった強制移住と似たような問題が日本でも起こっており、彼らの命運がどうなるのかは、誰も(科学者・官僚・政府を含めて)、分かっていないのではないかと思います。ツイッターではかなり無責任にこの計画的避難について書いてしまいましたが、飯館村における議論とその実態を諸メディアで知るにつれ、「計画的避難」を農村で行うことの現実的重みと、そこで生まれた利害対立の解消の実質的不可能さをひしひしと感じました。しかし、Lemarchand氏が書いてあることに引きつけるなら、そのような悲劇ですら、チェルノブイリでは既に起こったことなのです。

自分は歴史を研究するものとして、講義の場で常々、歴史を学ぶ意義とは、過去に起こったことを知ることで、未来に対して自分がこれからどうのように行動するかという指針を知ることである、と言ってきました。このような言い方自体は、大変抽象的であり、学生からの反応も良くありませんでした。

しかし、この論稿を読めば、歴史の意義はある意味一目瞭然であります。フクシマの未来は、チェルノブイリの過去であるかも知れない。そうならないかもしれない。でも、手を打ち間違えると、そうなる可能性もある。そのような事態になった時、過去を学ぶことは、そのような過去を自らの未来にしないための手段となるでしょう。ただし、筆者のLemarchard氏自身は、そのような対処すらチェルノブイリの被害者は奪われていると言っていますが…。しかし、過去を学ぶことが絶望を知ることであってはいけません。そうしないための知恵こそが求められると、私には感じられるのです。

彼のこの論稿はある意味、非常に悲観的であろうと思います。しかし、それは煽りではない。煽りではなく、本当の意味で産業史史上最悪の惨事となったチェルノブイリの悲劇のその程度と意味を、きちんと認識すべきだ、と言っているのです。フクシマがチェルノブイリ程でなくて安心、というのではなく、このフクシマの規模をはるかに上回るチェルノブイリとは本当の所一体何だったのか、そしてフクシマをチェルノブイリにしてはいけない為の現実的方策とはいったい何が考えられるのか、それが問題になっているのだと思うのです。

しかし、時間は待ってくれない。日本は確実に試練にさらされているでしょう。それは、解決が難しい問いが突如出現したこと、これまでの日本における「解決法」とは建前的には受けた被害をチャラにすることだったのにそれが現実的に無理であること、という二つの状況が出現しており、それをこれから短い時間の中で乗り越えなければならないからでしょう。でも、本当に乗り越えられるのだろうか?

日本を一つに、がんばれ日本、というスローガンが出されています。実質的にこのスローガンの中身は空っぽだったと思いますが、今次のような中身が登場しているのではないかと思っているのです。今必要な事を抽象的に言うと、今日本には自らの過失もないのにこれまで自分のものだったモノ(土地・家族・故郷等)が奪われ、その代替は現実的にあり得ない人々が出現していること、そして大半の国民は幸いにしてそのような喪失がなかったこと、だからこそ、そのような喪失を受けなかったものは、受けた者の側に立ち(精神的に、ですよ)、そのような人が実際に目の前に現れた時に、その喪失を丁寧に扱うことなのではないか、ということではないかと思うのです。

喪失しなかったものが喪失してしまったものと同じ立場に立てること、それを可能とするのは、ある意味まさに「ナショナル」な枠組みなのではないか。ナショナルな感情は、これまでは対外的な排他性と結びつきながら議論されてきましたし、実際そのような側面がここ最近は強いと言われてきました。しかし、震災を期に、対内的な結束という意味でのナショナリズムの契機が出てきたのではないかと思うのです。私は、そのような思いを、一見非常に普遍主義的な議論を展開しているこの論稿を読みながら強く思いました。

2011年4月16日土曜日

20世紀はまだ終わっていない

ツイッターを利用し始めるとブログの更新が減るというのは本当だった。震災の際、家族友人の安否確認にツイッターが非常に有効だった、という話を聞いて、それまでツイッターはちょっと、と思っていたが思い切ってアカウントを作って時々呟き始めた。すると、タダでさえブログに書くことはあまりないのに(EUIには最近戻れないのでEUIがらみのことも書けない)、ツイッターで言いたいことが大体いえるので、ブログに書くことも無くなってしまう。
ツイッターの方は身元を名乗っているし、そっちのプロフィールにはこのブログのURLを入れているのもあって、ツイッター経由でこのブログへのアクセスも増えた。ちなみに、ツイッターのアカウントは、この一見謎な投稿者名がヒントになっている。


ところで、基本的にずっと原発がらみが非常に気になるのだが、原子力発電について急激な反原発の動きが出てきているという。放射能の恐怖に子供を抱える母親がそう思うのは理解できる。しかいよく分からないのは、これまでさんざん安全だと言い続けていたのにこのざまは何だ、という反発である。ネット経由の情報しか基本的に手に入らないが、どうもそういう感情が感じられる。ようするに、騙された、ということだ。

しかし、どうもこういう議論には違和感があった。どうしてだろう、とずっと思っていたが、ふと思い出した。自分はまだ冷戦期を生きていた経験があり、小学生だった1970年代後半から80年代前半の新冷戦時代、世界は米ソ間の全面核戦争の幻影におびえていた。

自分は大学で若い学生に教えていて、そういう幻影が今から30年前位にあったと言っても、ピンとこない人が多いことも分かる。しかし、やはり、冷戦期において、核戦争と放射能の恐怖というのは常に肌感覚としてあった。中性子爆弾によって建物を破壊せず人間だけを死亡させる戦争のSF的映像とかをテレビで見て、放射能が人を破壊する兵器となる、という感覚は幼いころに植え付けられた。

しかし、冷戦が終わり、そのような核戦争の幻影に我々が怯えることはなくなった。と同時に、核戦争の勃発によってまき散らされる放射能の恐怖も、我々は忘れはじめた。時代の変遷ゆえに我々は自ら忘れてしまったのか、それとも忘れるように仕向けられたのかは分からない。たぶん、仕向けられたかもしれないが、我々は自ら進んで忘れていったのではないかと思う。

冷戦は終わり、それは一つの時代の幕引きを意味していた。しかし、それによって終わらなかったものもあった。私たちは、冷戦によって無くなったと思っていたものの突如の復活を見ているかのようである。その意味で、まだ20世紀は終わっていない。
(この文章は未完です)

2011年4月5日火曜日

一年が経った

在外研究に伴い、フランスに渡って一年が過ぎた。家族を伴っての東京からフランスへの引っ越しは、本当に大変だった。家族連れで在外研究をしている人がみなあれだけ大変な思いをしているのか分からないが、とにかく寿命が2年くらいは縮む思いをした。あれだけ大変な思いをして渡ったフランスと家族を残して、フィレンツェに渡ったのはその半年後。そのアレンジメントでも、本当に大変な思いをした。
折り返し点を迎え、そろそろ帰国のことも頭に入れなければならなくなり始めた。家探しを始め、また一からのスタートである。自分自身、東京に居を構えるなど、どこか悪い冗談なような気がずっとしていたが、その感覚は今も続く。

今この時期に、在外研究で日本人がヨーロッパのことを研究することの意味を反芻しつつ、有益な研究成果を残そうと日々努力しつつ、その一方で、家族を持つ者として、家族に向き合いながら日々を死後している。

つくづく、今の自分の日常を成り立たせている構造と言うのは非常に脆くて、その脆さを自覚しながら仕事を進めていかなければならないのだな、と実感している。と同時に、自分自身がその脆さをカバーできる知恵を持たなければならないのだな、とも実感している。

2011年4月2日土曜日

ドイツ外務省史料館(Politisches Archiv des Auswartiges Amts)利用感想

ドイツ外務省政治史料館(PAAA)

住所 Kurstraße 33, 10117 Berlin
開室時間 月~木 8:30~16:30、金 8:30~15:00
サイトはこちら

■事前問い合わせ
・HPでは書面による閲覧申し込み(テーマ、研究の対象年代○○年-××年、訪問期間を添えること)を3週間前(出来れば1か月前)にするように推奨している。たとえ3週間前を過ぎたとしても、訪問することを決めた時点で連絡することが必要である。10年前は駐独日本大使館の推薦状が必要だったが、いつの間にか不要になった模様。
・訪問の事前申し込みは、席の関係上も推奨されている。閲覧室はそれなりに大きいが、一人あたりのスペースがかなり大きいため、席数には限界がある。
・隣国にいることをいいことに、自分は一週間前にメールを出した。返事はOKだったが、次からは4週間前には連絡頂戴ね、と返事が来た。

■PAAAに所蔵されている史料
PAAAに所蔵されている史料は、大きく分けて四つの種類がある。第一に第二次大戦前、第二に
第二次大戦後のドイツ連邦共和国(旧西独およびその後の統一ドイツ)の外務省史料、第三に旧東独の外務省史料、第三に私文書(Nachlass)である。カタログは閲覧室に完備。ネットでは見れない。70年代以降はまだ整理中の史料が多く、受付の人に頼まないとカタログは見れない。

■注文数
一日20までの模様。注文は、閲覧室内のPCから行うが、ドイツ語が不自由は私には、受付の女性が紙に書いていいから、と言ってくれた。


机の上には史料をいくつでも持って行ってよい。

■閲覧室へのアクセス
・閲覧室は、地下鉄2番線のSpittelmarktとHausvogteiplatzの中間あたりあるが、若干Spittelmarktの方が近い。
・上記の住所の扉をあけると受付があるので、アーカイブ閲覧室の利用者だと告げると、身分証(パスポート)と交換にバッジ(立派なプラスティック製)をもらう。初日は、大抵訪問者リストらしきものと名前を照合しているので、はやり、訪問期日をきちんと指定して乗り込むのがよい。なお正規の職員は、このバッジを扉にかざすと鍵が開くようになっているが、閲覧室利用者のにはその機能はない。その代わり、受付の人が開けてくれる。
・入口から閲覧室へは、エレベータを一回乗り継ぐ必要がある。まず入ったところにあるエレベーターの二階(ヨーロッパ式)まで行って降て右側の廊下を進む(Lesesaalはあちら、の表示あり)。廊下を行った先にあるエレベーターに乗って、今度は4階(ヨーロッパ式)に。降りたら目の前が閲覧室前。
・ロッカーは、鍵が閲覧室の中の受付前においてあるので、まず中に入って、鍵を自分で取りに行く。


■史料の分類法(西独期のみ)
・史料は、基本的に担当課毎に大項目として分類されている。他方で、ドイツ外務省の機構は時期を追って改編されており、機構改編の系譜と、それぞれの課・局がどのような政策を担当していたかを把握することが、史料探しの第一歩となる。
・いまだよく分かっていないのだが、PAAAには通常の史料群と機密史料群とに分けられている様子である。公刊される西独外交文書AAPDに収録されているのは、通常、機密解除された機密史料群である。VS-Aktenと呼ばれるこの機密史料群のカタログは、たぶん内部の人間にしか公開されていないのだろう。閲覧室にあるカタログは通常史料群のもの(もちろん、これらの史料の中にも機密(Geheim)と記載されている史料はある)。
・VS-Aktenの中からAAPDに収録するために機密開示された文書を集めたのがB150。B150はカタログも閲覧室で見れる。AAPDも結構膨大だが、B150のカタログを見ると、AAPDに収録されなかった史料は収録された史料の4-5倍近いことが分かる。とすると、B150を見ると機密資料が一杯見れるように思うかもしれないが、二つ注意すべきことがある。第一に、B150はAAPDが刊行された年の分の史料しか存在しないこと、第二に、B150のカタログは日にち順に並べられているだけなので、ある特定のテーマで史料をおっていくことに向いていない点である。
・VS-Aktenを機密開示されたものをテーマごとに整理したのがB130。こっちの方が個人的には有用だと思う。しかし、その対象年代は圧倒的に1960年代前半(アデナウアー政権の後半およびエアハルト政権期)。


■複写について
・デジカメOK。しかし、閲覧室のデジカメ率は低かった。多くの人がパソコンもしくはノートにひたすらメモ/写経していた。
・多くの史料はマイクロフィッシュ化されており、フィッシュの複製料金は非常に安い(一枚1ユーロ弱)し、仕事も早い(1週間ちょっとで注文用紙が届く)ので、フィッシュについてはそのまま複製申請を出して、帰国してマイクロリーダーから落として行った方がお得だと思う。
・フィッシュの複製申請は、閲覧室に閲覧用紙があるので、それに記入。
・申請用紙を出してから1-2週間してから、申請用紙に書いてある住所に注文用紙が届く。支払い金額が書いてあるので、日本から短期で訪問した場合、日本から指定銀行(ドイツ)の口座に国際送金する。その後フィッシュが郵送される仕組み。


■その他
・閲覧室にはやや小ぶりながらも、ドイツ外交史に関連する研究書・史料集の本棚があり、のぞいてみるといろいろ発見がある。
・リラックスコーナーはない。みな、閲覧室前の、机などが置いてあるコーナーで休憩している。コーヒー等の自販機もない。多くの人は、ペットボトルやサンドイッチを持ってきて食べている。
どうしてもコーヒーが飲みたい、サンドイッチが行く途中に売ってなく空腹で何か食べたい、という人は一回建物から出る必要がある。自分もそうしたし、そうしている人は結構いる様子。
・ベルリンの地図は、空港においてあるBVG(ベルリンの公共交通機関公社)による路線図が一番見やすいと思う。
・自分が言うまでもないことだが、ベルリンはMitteからFriedrichstr.、Hackescher Marktあたりがにぎわっているし、またアーカイブからも近いので、このあたりに滞在するのがお勧め。アパート型ホテルも結構ある。
・この史料館の名前に、なんで「政治」が付いているのか、前に何かの解説で読んだような気がするが、忘れてしまった。どうしてなんだろうか。要するに、外務省史料館なんだけど。
・自分のドイツ語は笑ってしまうくらいに拙いが、拙いドイツ語をきちんと聞いてくれるのが好印象。

成蹊大学の川村先生も書いているように、このPAAAの建物は旧東独外務省の建物を使用している。現在のドイツ外務省の建物は、このPAAAが入っている隣に位置する、さらに近代的で立派な建物である。10年前に初めて訪れた時、エレベーターが止まったり動いたりする時の衝撃がいちいち大きく、東ドイツ製ってこんなかんじだったのかな、と東ドイツ製エレベーターに乗ったこともないのに漠然と思ったものである。10年後再訪して、エレベーターの乗り心地はかなり良くなった。

2011年3月26日土曜日

戦争によって時代が区切られるのだとしたら、今まさに一つの戦争が始まり、そして終わりを告げようとしている

震災発生以来、ろくすっぽ研究が手につかず、ヨーロッパという地に居てああでもないこうでもない、と毎日悩み続けております。以下の文章は、現段階での自分の所感です。あまりまとまりはありません。こういう職業についている人間が書くものにしては(それが故に?)抽象的すぎるかも知れません。

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日本の状況はネットでしか把握できず、UstreamでのNHK配信も終了となった今、肌感覚として今日本が震災と原発危機にどう対処しようとしているのかは、断片的にしか分からなくなってきている。
(以後、「震災」と言った場合は基本的に地震と特に津波被害のことを指し、原発危機は福島第一に由来するすべての問題を指しこととします)

たとえば、今の原発危機、この状況がしばらく続きそうだが、その被害がいかばかりのものになるのかについて、けりがつけばまた人々は普通の生活に戻ることになると考えている人が多いのか、そうでないと考えている人が多いのか、どっちが大勢を占めているのかがよく分からない。「専門家」と呼ばれている人ですら、「最悪の結末」の程度が違う。もっとも、原発をめぐる現段階は、僕が第一報-すなわち福島第一の一号機から四号機までの冷却システムがすべて破壊された-を聞いたときに想像した最悪の事態である。すなわち、原発から放射能が漏れて周りの住民が避難を強いられ、放射能によって農作物・水が汚染され、日本に放射能汚染というレッテルが張られ、そして程度によっては原発の半径何キロかはしばらくの間-それが数週間であれ、数か月であれ、そして数年もしくは数十年であれ-立ち入り禁止区域となるのではないか、という事態である。最後については、きっと専門家であっても意見が異なることになり、最終的には「政治判断」が下されるだろうが、それ以外については、残念ながら、現実のものになってしまった。

もちろん、震災の被害にあった人達、原発危機によって避難を余儀なくされた人が、そんな先のことを考えている余裕がないことはわかる。でも、ある程度の「外野」の人間であれば、そのようなことをを考える段階にきていることは分かっているはずだ。

海外にいるからかもしれないが、今の僕には、今の日本の状況は、いわゆる有事そのものに映る。要するに戦争状態に極めて近いように映る。大量の死者、死を覚悟して国家に殉じる作業の存在、大衆レベルでの一般生活の制限、すべての国民が抱く「次は自分に降ってくる」という感覚。そのような状況が日常に現出する戦争状態は、それを経験することで社会に極めて多くのストレスを与え、それゆえに多くの人間に劇的な心情の変化をもたらし、そして国家を運営する業務への根本的な疑いを投げかける。だから、戦争によって、多くの国家は社会的政治的な転換を経験し、それはその国家の歴史にはっきりとした転換点を作り出す。

第二次大戦後の日本は、戦後復興と高度経済成長を成し遂げた後、内側に豊かな社会を作り上げたものの、国家的目標を失ったかのように、日本がどのような国家として生きるのかという目標をずっと立てれないでいたと思う。第二次大戦後の日本には冷戦の終了も戦後史の画期とならず、ずるずると戦後の世界を続けていた。それは文化的爛熟期ではあったとは思うが、政治的システムは機能マヒに陥り、社会的には閉塞状況に陥った。そんなことは誰でも知っている。でも、多くの人がなんとかしようとしていた問題は、解決されないままだった。

この3.11の大震災とそれに続く福島原発危機によって、戦後日本が歩んできた道は、ガラガラと音を立てて崩れ落ち、これまで考えていた、今から進もうとする道はがれきに覆われている。僕は終末論者でもないし、不安を煽りたい訳でもない。僕が言いたいことは、これから進もうとする道が進めなくなったことで、予想もしない形で、日本は新しい道を模索しなければならなくなったのではないか、ということである。このような形で日本が変わらなければならない瀬戸際に立たされたのは、とても悲しいことではなかろうか。


今回の地震は、千年に一度の規模だと言う。千年に一度の津波を想定外と言いたい気持ちは分からなくはないし、その規模の災害に備えることはおよそ財政的コストからして非現実的かもしれない。でも、日本の歴史はすでに二千年以上の時を刻んでいる。今から千年前と言えば、だいたい平安時代だろうか。平安時代から長い時間かけて、日本は今の姿へと歩んでいった。千年に一度の災害に耐えられない設備を作り、そしてその設備に被害が及んだ時、日本の狭からぬ地方に深刻な災害をもたらすのであれば、その設備を作った時点で、極論すれば、日本の歴史はあと千年でおしまいになることを意味するようなものではないか。

日本の原発政策は変わっていかざるを得ないだろうが、それでも原発に電気を依存せざるを得ないのであれば、たとえ統制が取れなくっても周りに与える被害が最小限になるようなレベルに抑えなければらないだろう。そうでなくとも、これまで原発の議論は結論ありきだった。結論ありきでは議論は成立しない。この話題で健全な議論が成立するか、まずはそこが問われてるのだと思う。

今回の震災によって「何か」が終わりを告げた、ということはすでに多くの人が指摘している。震災で苦しんでいる人、今放射能の恐怖と戦っている人にとって、そんな歴史的視座の問題は、さしあたりどうでもいいかも知れないし、実際どうでもいい話なことも自覚している。

しかし、たとえそうであっても、この大震災は戦争の様であり、そして過去の戦争と同様、この国の形を変えるものである。ただし、震災はたとえどれだけ被害が甚大であっても、敵が不在という意味ではやはり戦争とは違う。終わりもはっきりしない。敢えて言えば、原発の冷温収束の実現がそれに当たるだろう。それがいつになるのか目途が立っていないという意味で、今はまだ戦争が終わっていない段階である。終わっていない段階で何が言えると言うのだろうか。

しかし、自らの専門分野のマージナルな知識が、戦争が終了する前にこそ、戦争後のことを考えなければならないことを私に囁いている。ジャン・モネがアルジェで戦後ヨーロッパ秩序を構想したように、この危機が収束に向かっていることをうかがわせているときにこそ、次の時代には前の時代のどこを修正し、一体何をしなければならないかを描きださなければならない。

特に原発危機に際し、政治に何が出来て何が出来ないのか、政治とはどのような現象で何が問題となるのかは、ある意味非常にはっきり人々の前に映し出されたのではないかと思う。はっきりと映し出されたと書いたが、自分自身それを明確に言語化するところまでは行っていない。しかし、重要なのは、たぶん、これからは従来の政治学的な立場-現実の政治をどう行うかについて政治学はあまり立ち入りませんよ-ではまずいことであろう。日本における政治学界の片隅に生息している研究者として、この事態が投げかけているのは、無力感である以上に挫折感でもある。東大総長は今こそ「知」が問われるときだと書き、それはその通りだと思うが、知のあり方も変わらざるを得ないかも知れない。実学とかそういう意味ではなく、社会に役立つ「知」とは何かを考えていかなければならない。

もうひとつ、今回の危機でさらけ出されたのは、日本が独力でこの危機を解決できなかったことである。それは恥ずかしいことではない。それよりも、結局日本が頼ることが出来たのがアメリカだけだったという事実の方が重要である。中国も韓国も救援隊が駆けつけてくれたが、原発危機や復興などの連帯は不可能だった。ヨーロッパは距離もあったが日欧とも救援隊以上の連携を考えていなかったように思う。僕は、このような日本の国際社会から孤立はとっても不幸なことであり、自分の首を絞めかねないように感じる。


取りとめもなく書いてみたが、日本に流れていたゆっくりとした、しかし淀んだ時間が、今一斉に濁流となって、日本の歴史というか社会全体を変えていっている様を、今私はヨーロッパから見ている。同時に、その変わっていく先がいい方向へと向かわせる義務が、日本人である自分には課せられているのだという責任感を強く感じる。たぶんそれは、海外にいる日本人が多く感じていることではないだろか。

2011年3月18日金曜日

ルーヴァン・ラ・ヌーヴ大学付属史料館利用記

仕事は手につかないが、気分転換を兼ねて通常のエントリーをアップさせてみよう。

先日、ブリュッセル郊外のルーヴァン・ラ・ヌーブ大学(UCL)の付属大学史料館に行ってきました。同大学の現代ヨーロッパ史研究所(CEHEC)の付属史料館の閲覧がこの大学史料館に委託されているからです。

CEHECはベルギーにおけるヨーロッパ統合史研究の中核的存在で、その中心にはMichel Dumoulin教授がいます。CEHECには、ベルギーの有力政治家や諸団体が私文書を提供しており、CEHECが文書を整理し公開しております。CEHECに収録されている有名文書としては、Paul-Henri Spaak、Paul van Zeeland、Pierre Wigny(分類中と記載も現地に行くと読んでいる人がいた)など。

■閲覧手続き
CEHECのページに記載されている通り、まずCEHEC長のDumoulin教授に閲覧許可願いの手紙を送付。閲覧申請用紙は、CEHECサイトからダウンロード。閲覧したい文書を番号まで記入。カタログはサイトにすべてPDFに載っています。手紙は、ほどなくして、教授の許可サイン付きで戻ってきます。
許可の手紙が返送されてきてから現地に行きます。自分の場合は、返送まで一週間程度でした。日本からだともう少し余裕を見た方がいいでしょう。史料の閲覧は、上記のとおり、UCLの大学史料館の閲覧室で行います。ここには特に事前の連絡は要りません。手紙を見せると、その場で史料を持ってきてくれます。

■閲覧室に関するPratical Information
・開室時間 月~金 9:00~17:00(うち、12:30~14:00までは昼休みということだが、朝からいた分には特に何も言われなかった。たぶん、新規の受付不可の時間と解すべきか)
・場所 D-103 (地下一階), Place Montesquieu 3, B-1348 Louvain-la-Neuve
・UCLまでのアクセス:ブリュッセルからUniversite Louvain-la-Neuve駅まで行き(1時間から1時間20分)、そこからモンテスキュー広場まで約5分程度。同広場三番の建物の玄関に入り、左手にある階段を下りたところの部屋です。大学内の施設なので、身分証等の提示は求められず。ただし、上記にあるように、Dumoulin教授による許可の手紙を提示しないと史料を見せてくれません。
・その他詳しい情報は、ここのページを参照のこと。

■複写
デジカメ可。特に制限なし。

■その他
・辺り一帯は大学およびショッピングゾーンなので、大学食堂やお店が多く昼食をとる分には困らない。
・ブリュッセル圏内からルーヴァン・ラ・ヌーヴ大学駅に行くのは、南駅→中央駅→北駅→シューマン駅→ルクセンブルグ駅→以下郊外の順番。電車の本数は、途中乗り継ぎと直通を合わせると大体一時間に二本くらいある。
・ベルギー外務省に行った翌日に訪問したので、そのあまりにオープンさに驚いた。同じベルギーとは思えない。
・ルーヴァン・ラ・ヌーヴはフラマン圏あるフランス語圏の浮き地みたいなものなので、徹底的にオランダ表示がない。建物もすべて人工的に作られ、日本にある郊外団地(東京だと光が丘とか)の雰囲気に非常に近いように思った。
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