2011年6月21日火曜日

『複数のヨーロッパ』自共著に対する自省的書評

先日、共著『複数のヨーロッパ』(北海道大出版会)が刊行されました。日本時間の6月21日18:00より東京はKO大学で書評会が開かれますが、在欧のため私は当然出席できません。統合史関係の自分が参加した書物の書評会はこれまで何度か開かれておりますが、いろいろな理由に阻まれ、私は一度も参加したことがありません。今回は、書評会の前に自分なりの(自分が参加したものではありますが)自省的書評を掲載して、当該書評会への間接参加を果たせればと思い、当該書評会が始まる前に、急ぎ三時間程度で書いてみました。かなり荒い文章になっていることはご容赦ください。
最後に、書評会を組織していただいた諸先生方、評者として参加される先生方に深くお礼申しあげます。

------- 以下本文 ---------------

このたび刊行された『複数のヨーロッパ』(以下、本書)について、論文を著した一人として、しかし「複数のヨーロッパ」というコンセプトに関わる企画にはタッチしてなかったヨーロッパ統合史を専攻する人間として、何か今後の研究に資する役立つべきものについて考えたい。

本書の狙いについては編者の二人によるまえがきにあるように、これまでの統合史の単線的理解を時空間的に拡張することにある。それは統合史を超えて広くヨーロッパ史そのものの語り方にまで議論の射程が及ぶとても重要な論点である。評者は、その重要性について決して否定するものではないし、すぐ後で書くように、決して自分の書いた論稿がそのような趣旨に沿っていなかったことを悔しく思い、出来ればそのような方向性に沿った実証論文を将来執筆してみたいと思う(ただし思っているだけで具体的計画はない)。
本書における純粋な意味でのこの企画の趣旨に沿った論稿は第二章から第四章までの、宮下、板橋、黒田論文であり、この三つの論稿が合わさって提示されていることにこそ、本書の意義があると考えられる。評者が記した第五章は、確かに邦語論文ではこれまでなかったテーマかもしれないが、同テーマでのヨーロッパ各国における研究蓄積を考えるとそれほどオリジナリティがあるとは思えない。第五章の拙論文の執筆動機として、ヨーロッパにおける共通農業政策の成立をめぐる歴史研究の絶望的なまでの分厚さとその分厚さがほとんど日本に紹介(理解)されていない現状を鑑みて、基本的な学術的オリジナリティを放棄して、横を縦にするつもりで執筆したことは正直に告白しなければならない(そのために、拙論文には先行研究批判はなく、先行研究のまとめであることをそれとなく記してある)。
ただし、横を縦にして読者が面白く読めるかといえばそれはまた別問題である。また、横の文献がMilwardGriffithsの論稿を除けば仏・独・オランダ語文献であることも、日本における理解を困難にしている遠因であろう(語学的な問題は原始的な問題だが、ヨーロッパ人においても程度の差はあれ同じ問題はあるので、やはり無視できる問題ではないと思う)。また、農業統合の歴史から何を読みとるのか、何を興味深く感じるかについても、各国の読者で態度は異なる。そのため実証的なオリジナリティは放棄しつつも、日本の読者にとって興味深いと思われる点に焦点を絞る記述を心がけることにした(具体的には、統合の出発点としてのシューマン宣言の一種の脱神話化や、農業統合の議論の中に、EECにおいて実現する統合手法の萌芽が既に見受けられること、等。こういうことは、例えば前者のような話は英語で専門的に書こうとすればある意味当たり前の話になっているので、書いても意味のないことになるが、よくも悪くも日本語ではまだ意味のあることと思われる)。

さて、筆者が本書の書評として何か言うべきことがあるとするならば、以下の二つである。第一には、ヨーロッパという地域の地域性とグローバル性の相克、言い換えるならば、ヨーロッパ統合史と一方でナショナルな政治史との接合、他方でグローバルな歴史との接続をどのように達成すべきか(もしくは達成すべきではないのか)という問題である。
本書における統合史の開放が空間的に達成されることは、統合史がどのようにグローバルな国際関係史(などというものがあると仮定したうえでの話だが)とどのように接合されるのだろうか。これは、実際に第一章のレビューの中で取り上げられており、取り分け鈴木論文のテーマと関わりあう。この点を見れば、統合史に多くのまだフロンティアが残されていることは疑いがなかろう。例えば植民地の議論にしても、イギリス加盟後のECが、アフリカとコモンウェルスという二重の歴史的(負の)遺産に対峙しようとしたのか、共同体の中東政策はどのように変遷したのか(そしてそれは中東のグローバルな位置づけとどのように連動しているのか)【なお、このテーマはAurelie Gfellerが部分的に着手している】、ヘルシンキ宣言後のECが東欧の反政府運動をどのように考え、関係を結んだのか(あるいは結ばなかったのか)【このテーマはVarsori弟子系統の人が部分的に着手の様子】等、興味深いトピックは多い。本書に参加された方々は、おそらくこのような領域のフロンティアを切り拓いていくであろうし、これから大学院に進むような後進の方々も、この領域に参入することが一番期待されよう。
さて、ナショナルな政治史と統合史との接続という問題はどうであろうか。実はこの問いをめぐる状況は日欧で捻じれていると評者は感じる。日本での政治学におけるヨーロッパ研究の出発点はナショナルな政治史研究であり、ある種の衰退という言説は存在していても、にもかかわらず日本では正統な研究というポジションを有している。そのため、ある意味、ナショナルな政治史の素養のある人間が統合史に研究領域を<拡張>する、というイメージを持ちがちである。しかしヨーロッパにおいては、統合史はナショナルな政治史研究とは独立した国際関係史のポジションを既に有しており(統合史研究者の多くが既に存在していた国際関係史研究から出てきていることは既に遠藤編統合史通史篇(下記参照)で指摘されているとおり)、その意味で統合史研究とナショナルな政治史研究はある意味断絶している。他方で、ヨーロッパにおけるナショナルな政治史研究は古典的な政治制度・政治社会史から新しい政治史と呼ばれる研究潮流に進みつつある(古典的な政治史研究がもはや成立しにくくなっている状況は昨年度の日本政治学会における網谷ペーパーに詳しい。なおこの「新しい政治史」研究は日本の学界マップに当てはめれば社会史・文化史的研究に近いように感じる)。その一方で、本書第一章に紹介があるように、ケルブレのような「ヨーロッパ社会史」研究は、ヨーロッパにおけるナショナルとヨーロピアンな次元の交錯を示唆しており、言うまでもない「ヨーロッパ化」という政治学的概念の登場と合わせて、ナショナルな政治社会空間はせまくなっている。
評者には、このような研究動向は、ヨーロッパ統合史とナショナルな政治史との融合の可能性(とその限界)を逆に示唆しているように思われる。ナショナルな政治空間の狭窄化にも関わらず強固に残る国の骨格もまたある。60年代から進行する大衆社会化とそのヨーロッパ的共通性と80年代中盤から本格化するヨーロッパ統合との進展は、どのようにシンクロしていくのか。ナショナルな政治言説におけるヨーロッパ統合の力学はどのように浸透していくのか。古典的な外交史がヨーロッパ統合史という名前で新しい国際関係史研究として復活したように、古典的な政治史がヨーロッパ統合による国内政治構造への浸透と限界という観点から新しい政治史として復活する可能性はないのだろうか。このような観点は、ヨーロッパ統合の今後を問うものではなく、ヨーロッパが20世紀に何を達成したのかを問うものである。統合史のフロンティアは、統合史だけのフロンティアではないかもしれないからだ。

第二には、統合という新規な現象をどのように分析すべきであるか、というアプローチ上の問題である。これは第一章の「アプローチ上の開放」に相当する論点であるが、第一章とは少し異なる形で述べてみたい。
当たり前であるが、ヨーロッパ統合は実現してから未だ50年から60年程度の短い歴史しかない。既に多くの人が指摘しているが、統合はその原初から社会科学者・ジャーナリストが観察してきた。事実関係からみれば、多くの出来事は、ジャーナリズムを通じて、また統合に関するものならば、例えばAgence EuropeEurope Bulletin Quotidienを通じて日々報道されてきた。
では同時代的な観察と歴史研究はどう違うのだろうか。それにはいくつもの回答が寄せられようが(一口に歴史研究といっても中世史や近世史と現代史では大きく異なるのでここでは現代史という前提にたつ)、一つの考えとして、歴史研究にはその議論の広がりを既に知っており、そこから逆算して、当時の議論を検討することができる。これは、現在の視点から過去を扱うことではなく、むしろ逆である。当時の観点から見れば、結局成り立たなかったものも、現実的な可能性を帯びたものの一つだった。統合史においては構想を扱う議論が多い。その理由は、構想がたとえ今日の目から見れば非現実的であってもそれがその当時においてどれくらいの現実的重みを持っていたかは一義的に判断できるものではない。
歴史研究(もしくは歴史的アプローチ)とは変化を扱うものではないし、起源(のみ)を扱うものでもない。歴史とは、ある時代において問題となるその問題を取り巻くコンテクストの要素を確定する作業であると、私見では思う。同時代的観察と歴史研究との違いは、そのコンテクストをどこにとるか、という点にある。すぐれた同時代的観察とは、その観察そのものの中に歴史的な視座があり、観察対象がどのような歴史的コンテクストに位置づけられるかを意識的・無意識的に行っているものである。第一章で触れているアプローチ上の開放とは、このコンテクストをどうとるかという問題について、複数のコンテクストの競合や融合を図ることにあるのではないかと感じている。

統合史研究を進める中で感じるときに史料を読みながら疑問に思う点は、「Relance」という存在である。Relanceの時、制度と達成物が劇的に変化する。正確に言えば、それまでは合意できなかったことが合意されたので劇的に状況が変わるのである。評者は、それがRelance=再発進という用語ではうまく捉えられないと感じる。むろん、Relanceとは同時代的に使われた用語であり、そこには多分に理想主義的統合論がある。ここで言いたいのは、何故劇的な合意が生まれるのかは、実は史料から見てもよくわからない点が多い、ということである。おそらく多くの場合、それには冷戦的な状況の変化は、モネやその他政治的リーダーシップの活躍を議論することになろう。他方で、RelanceなきRelanceもある。60年代や70年代後半から80年代前半がそれである。思うに、評者が感じる最後の、そして最高に難攻不落なフロンティアは、愚直なまでに正面から挑む問題-すなわち、なぜ、どうやって統合は誕生し、そしてどのようなロジックに基づいて進展(あるいは時には退化)していったのか、にあるのではないだろうか。

最後に、本書は様々な意味において、遠藤乾編『ヨーロッパ統合史』(名大出版会:いわゆる統合史通史篇)の学術的基盤を受けて執筆されたものである。だから、ヨーロッパ統合の歴史についてよく知らない人が本書をいきなり読んでもややちんぷんかんぷんである可能性はある(特に第一章:第一章はある学問分野の研究動向の展開を実際の研究文献を示しながら記した論稿なので、歴史研究そのもの関心のない人が読むと辛くなるが、この章がいかに労作であるであるかはなかなかその筋の人が読まないと分からないかもしれない)。その意味で、本書を読んでよくわからない点があったら、上記通史篇を一読するだけでも大いに効果はあるのではなかろうか。
「あとがき」にもあるように、ここ近年のヨーロッパ統合史にかぎらずヨーロッパ国際関係史の日本における研究状況は大変活発化している。それが「ピーク」であるかどうかは分からない。これが「ピーク」にならないように、私自身も微力は尽くしたいが、私だけでは到底心もとないので、是非本書を手に取った人の多くがヨーロッパの国際関係史・統合史に魅力を抱いてくれて、そしてヨーロッパのマルチな世界に参入されることを願って筆を擱きたい。

2011年4月24日日曜日

フクシマ、もうひとつのチェルノブイリ

フクシマ、もうひとつのチェルノブイリ



チェルノブイリ事故からちょうど四半世紀が過ぎたこの年に福島第一の事故が突然、しかし予想された形で起こったことに何か関係があるのかと考えるのであれば、間違いなく迷信的である。しかし、近代の産業史における事故の中で最も深刻であるこの二つの事故とその帰結について見通しを示すことには、間違いなく意味がある。

3月11日以降、チェルノブイリとフクシマの二つの事故が似通っているため、技術的もしくは社会的な議論がわき起こっている。しかし、次のように断言することははばかられている:我々は新しいチェルノブイリの出現を目撃している、と。日本の事故が、それまでチェルノブイリが唯一の例だった放射能事故レベルで最も高いレベル7に引き上げられたことで、この二つの惨事を同一の量りの上に置くことになった。それでも、このような事件を受け止めそして考えるためには、歴史的、文化的な参照が必要である。

私はウクライナとベラルーシの汚染地域に何度も足を運んだ経験があるが、そこから分かったことは、チェルノブイリの被害者は、自分達が被った不幸を言い表すためには、どんな基準も、イメージも、そして言葉も持ち合わせていないということだった。チェルノブイリによってそれまでなかったタイプの惨事が始まった。国家も技術者も住民も、文字通り逆境に立ち向かうことすらできないでいる。フクシマの場合はそのようなことはないだろう。「チェルノブイリの戦い」は八百万の住民が数世紀にもわたって影響が続く、公的汚染地域に住む場所でで今も続いている。

だが、フクシマを理解するために、またこの事故がかくも長期にわたって社会に与える影響が途方もなく複雑であることを考えるためにも(今この事故に対処している人々が注力を注いでいる実務的で衛生面的な側面を超えて)、チェルノブイリの惨事から教訓を引き出さなければならない。やらなければならないことは、チェルノブイリの世界に入ることであり、それがそれはフクシマはもちろんのことだが、それ以外の核に関するありうる危険に関し、我々を導いてくれるだろう。


「惨事(カタストロフィー)」とは、古代ギリシャ語で「倒壊」「急変」という意味だが、すべての惨事は、内容と方向の両面においてその定義に問題を引き起こす。いま日本で起こっている惨事に相当するものは、1755年にリスボンを襲った地震(これも津波と火災を引き起こしている)である。この地震の中の地震によってヨーロッパは哲学的に近代に突入することになった。

「神によって望まれた最良の世界」という観念がライプニッツによって退けられたことで、我々は「責任」というものに対峙することとなった。…チェルノブイリとフクシマの災害によって、運命が神の手にゆだねられている以上人々が技術に全面的な信頼をおくであろうこの最良の世界を、人々は捨て去らなければならないと持ちかけられているのだろうか?


というのも、フクシマとともに崩れ去った世界はソ連モデルではなく、西洋的でリベラルなモデルであり、最高レベルの建築技術と管理技術に守られた格納容器を備えていた原発のモデルなのである。

チェルノブイリとフクシマを理解することとは、核や生物化学が先見あるものと見做していた我々の技術計画が今や崩壊したことを認めることである。チェルノブイリについては、その惨事が原子力ロビーの圧力によってなかったものとして隠されてしまうことも、汚染地域にいる住民の叫びも封じ込めることも出来たかもしれない。しかし、フクシマについてはそうはいかないだろう。というのも、過去三十年間、我々は日本を範例として扱ってきた。そういう風に判断するからこそ、フクシマの事件は我々に親近感を持たせることになるからだ。

チェルノブイリは偶然の産物ではなく、ある意味必然的な結果だったことをよく思い起こしてほしい。百万近くの人間がその後始末をするために駆り出されたが、無駄足に終わった。それどころかソ連の崩壊を早め、現実的な公衆衛生面の全体像すらつかむことができないでいるのである。…だからこそ、我々はチェルノブイリの遺産を見出して、その根幹を要約しなければならないのだ。チェルノブイリから受け継いだものとは、これまでかつてなかった遺産であり、アレントの言うところの「過去と未来とのギャップ」を開放するものなのである。

チェルノブイリを記憶しているもの、チェルノブイリで記憶されているもので言えば、フクシマで繰り広げられていること、取り分け事故に対する対処というものは「デジャヴュ」なのではないか。我々はもう次のような風景をチェルノブイリで見てきたのだ。ある建物が(日本の場合は確かにその程度は比較的ましなものだったとはいえ)爆発したこと、放射能を人々の生きしこの世界に漏らさないために石棺のようなものを作り上げようとすること、「清算人(リキダトゥール)が事故を起こした怪物を必死で手なずけようとすること、暴走する炉心を冷却しようとヘリコプターが絶望的ながらも空中を旋回していること。間違ってはいけない。フクシマによって新しい歴史が幕を開けたのではない。もうチェルノブイリにおいて、すべて始まっていたのである。そう、だから、チェルノブイリによって始まった歴史【事故を起こしてから今日までに起こっていること】は、フクシマにとって未来への記憶となるものを、我々に教えてくれるのである。

【では、具体的にチェルノブイリの教訓とはなにか。】第一に、チェルノブイリの生存者を見て思うことは、放射能汚染が引き起こされた後に彼らが「通常生活に戻る」ということは、全く不可能であることである。汚染は、風や雨が吹くままに降るままに、人が生活するのに適さない放射能区域を新たに描き出す。そういった地域を、ロシアの映像作家アンドレイ・タルコフスキーの映画「ストーカー」が描き出している。新しい工業汚染にあった自然は、前からあった豊かな自然の姿と同じである。だがちょっとでも足を踏み入れれば、すぐに死に至る、あのような姿なのだ。

では、もうどこに行くこともできず、避難場所も見つけられなかった時、いったいどうすればいいのだろうか。チェルノブイリの第二の教訓はこれに関わる。これは、フクシマにいる将来汚染地域になるかもしれない地域に住んでいる人々が学ばなければならないことである。それは、汚染が続く地域に住み続けなければならないという状況から逃れる手段が全くなくなってしまった時、現実を否定することだけが、程度の差はあるが比較的平静に将来に対峙することが可能となることである。

ベラルーシの物理学者ネステレンコ(Vassili Nesterenko)は、事故から十年後経過した時、汚染区域の住民の被曝量が、普通で有れば下がって行っていくはずなのに、再び上昇に転じていることを発見した。これが意味することは、事故が起こっている最中のストレスに対処した後-これはフクシマで再び見出されるだろうが-普通の状態に戻りたいという思いが、現実を受け入れることを出来なくさせ、人々は事故以前のような生活に戻ろうとしたことである。【以って回った言い回しだが、汚染の強い地域に足を踏み入れたり、被曝量を出来るだけ少なくするように気をつけるのではなく何もなかったかのように振る舞うので被曝量が増える、ということを意味しているのだろうか】

チェルノブイリとこれからのフクシマは、これまで人類が経験したこともなかった新しいタイプの惨事である。それは長期間続くのと同時に、生き物の命を破壊しながら広がっていく。この惨事によって生き物の命は条件づけられる。それゆえ、社会的な命、身体的な命、そしてまだ生まれてもいない人々を含む幾世代の命はすでに核によって植民地化されている存在であり、この惨事に条件づけられているのである。

津波は、ヘブライ語で言うところ人類史上の最悪の惨事【第二次大戦中のユダヤ人虐殺である】を意味するようになった「ショアー」に匹敵する惨事と我々の目には映っているが、フクシマについては、フクシマの後にフクシマはないであろうし、フクシマはフクシマしかないであろう。この二つの意味はいずれ同じになる。この意味で、いま始まったばかりのこの惨事は、広島や長崎とまったく同じところに置かれたのである。すべては、近代戦争における「例外状況」と繋がっている。すなわち、通常の法制度が棚上げされ、犯罪を犯してなくとも人々に死を命令することを可能とする状況である。

チェルノブイリもフクシマも、原子力発電の導入は、社会全体の福利を増すために産業的には「当たり前のこと」をおこなしたものであり、少なくとも、そのような社会全体に役立つという物言いが、原子力を推進する際の正当化として使われていた。だからこそ、チェルノブイリとフクシマの事故は、我々の社会が一体何を選ぼうとしているのか、我々は技術をどうのようにして使おうとしているのか、我々はエネルギーとして何をどう使おうとしているのか、一言で言えば、我々は自分たちの社会をどのようなモデルに従いながら作り上げようとしているのか、そういった選択に再び問いを突き付けているのだ。災害が起きるたび、国民総生産と経済成長が増すというテーゼがある。その命題自体非常に問題をはらむものだが、原子力災害の場合、そのような経済的幸運は起こり得ない。汚染された地域は、それが農地であれ、養殖用の地域であれ、最悪にも都市区であれ、その価値はゼロになり、ある期間はあらゆる使用が禁止されることになるからだ。

だがこのような強制は、共産主義体制であれ自由主義であれ、経済的に到底認めうるものではない。だからこそ、原子力には保険をかけることができないのであり、いざというときは社会全体がその代償を払うことになるのである。まただからこそ、チェルノブイリの避難地域の「リハビリテーション」は、汚染はされている地域において新たに農業や漁業を開始するために立ち入り禁止区域を移動させていくこと以外にはできないのである。そしてだからこそ、フクシマの汚染地域から恒常的な避難がなされることはないのであろう。

Frédérick Lemarchand; "Fukushima, l'autre Tchernobyl", Le Monde, le 18 Avril 2011.
原文はこちら

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以下以上の文章は、4月18日付のフランスを代表する高級紙Le Mondeに載ったFrederick Lemarchand執筆の長文論稿の私訳です。訳は、読みやすさを優先するために、やや意訳的に訳した箇所もあります。また、少し省略したところもあります。【】内の文章は、私による補足・説明です。著作権的に問題ある場合は削除します。また、たぶんフランス語の理解能力ゆえに誤訳していることもあると思います。もしお気づきの点がございましたら、指摘していただければ、と思います。

筆者のFrederick Lemarchand氏はカーン大学准教授で、リスクに関する複合領域研究センターの責任者の一人だそうです。なお、フランスメディアニュースというサイトに、同論稿の抄訳が載っています。この抄訳は、この発行の次の日にはアップされていますから、プロの通訳の方の力量を思い知りました。私は、4月21日の木曜日に、大学の図書館でこの記事を知り、コピーを取って、毎日少しづつ訳していきましたが、その後同サイトを知り、訳出については同サイトの訳文を参考にしたところもあります。

なおフランスメディアニュースは、連日、フランスの各紙に載った日本の震災関連記事を翻訳してアップしています。大体一日一本程度ですが、それでも、大変な労力です。翻訳はプロの通訳の方によるボランティアだそうです。このサイトの運営にあたって翻訳の労を取られている方々に尊敬の意を表します。フランスにおける震災報道はどのようなものがあるのかについて興味がある方は、定期的にチェックされるといいと思います。

今回、この記事を訳したのは、この記事の内容に感銘を受けたから、というよりも、おそらくいま震災を受けて日本に居住する日本人研究者では言えないような踏み込んだ言い方をしているからであり、それは事情をよく知らない海外メディアの影響を受けた過剰な物言いだからではなく、この人が言いたいことは、フクシマの汚染度はチェルノブイリの程度は行っていないとしても、それでもチェルノブイリの被害者が受けた仕打ちと同じことがフクシマにおいても起こるのではないか、そのような仕打ちを受ける人間がフクシマでも(チェルノブイリと同じ規模ではないとしても)出現するのではないか、だからこそフクシマは第二のチェルノブイリなのである、といものではないか。だとするならば、いったいどんな未来がフクシマに待っているのかについてある程度「頭の体操」に役立つのではないか、と考えたからです(ですから、この論稿におけるいくつかの内容と表現については、それが本当なのかどうかすぐには首肯できない個所もありますが、それはそれでいいと思っています)。

既に、「計画的避難」と言う名の下に、チェルノブイリで起こった強制移住と似たような問題が日本でも起こっており、彼らの命運がどうなるのかは、誰も(科学者・官僚・政府を含めて)、分かっていないのではないかと思います。ツイッターではかなり無責任にこの計画的避難について書いてしまいましたが、飯館村における議論とその実態を諸メディアで知るにつれ、「計画的避難」を農村で行うことの現実的重みと、そこで生まれた利害対立の解消の実質的不可能さをひしひしと感じました。しかし、Lemarchand氏が書いてあることに引きつけるなら、そのような悲劇ですら、チェルノブイリでは既に起こったことなのです。

自分は歴史を研究するものとして、講義の場で常々、歴史を学ぶ意義とは、過去に起こったことを知ることで、未来に対して自分がこれからどうのように行動するかという指針を知ることである、と言ってきました。このような言い方自体は、大変抽象的であり、学生からの反応も良くありませんでした。

しかし、この論稿を読めば、歴史の意義はある意味一目瞭然であります。フクシマの未来は、チェルノブイリの過去であるかも知れない。そうならないかもしれない。でも、手を打ち間違えると、そうなる可能性もある。そのような事態になった時、過去を学ぶことは、そのような過去を自らの未来にしないための手段となるでしょう。ただし、筆者のLemarchard氏自身は、そのような対処すらチェルノブイリの被害者は奪われていると言っていますが…。しかし、過去を学ぶことが絶望を知ることであってはいけません。そうしないための知恵こそが求められると、私には感じられるのです。

彼のこの論稿はある意味、非常に悲観的であろうと思います。しかし、それは煽りではない。煽りではなく、本当の意味で産業史史上最悪の惨事となったチェルノブイリの悲劇のその程度と意味を、きちんと認識すべきだ、と言っているのです。フクシマがチェルノブイリ程でなくて安心、というのではなく、このフクシマの規模をはるかに上回るチェルノブイリとは本当の所一体何だったのか、そしてフクシマをチェルノブイリにしてはいけない為の現実的方策とはいったい何が考えられるのか、それが問題になっているのだと思うのです。

しかし、時間は待ってくれない。日本は確実に試練にさらされているでしょう。それは、解決が難しい問いが突如出現したこと、これまでの日本における「解決法」とは建前的には受けた被害をチャラにすることだったのにそれが現実的に無理であること、という二つの状況が出現しており、それをこれから短い時間の中で乗り越えなければならないからでしょう。でも、本当に乗り越えられるのだろうか?

日本を一つに、がんばれ日本、というスローガンが出されています。実質的にこのスローガンの中身は空っぽだったと思いますが、今次のような中身が登場しているのではないかと思っているのです。今必要な事を抽象的に言うと、今日本には自らの過失もないのにこれまで自分のものだったモノ(土地・家族・故郷等)が奪われ、その代替は現実的にあり得ない人々が出現していること、そして大半の国民は幸いにしてそのような喪失がなかったこと、だからこそ、そのような喪失を受けなかったものは、受けた者の側に立ち(精神的に、ですよ)、そのような人が実際に目の前に現れた時に、その喪失を丁寧に扱うことなのではないか、ということではないかと思うのです。

喪失しなかったものが喪失してしまったものと同じ立場に立てること、それを可能とするのは、ある意味まさに「ナショナル」な枠組みなのではないか。ナショナルな感情は、これまでは対外的な排他性と結びつきながら議論されてきましたし、実際そのような側面がここ最近は強いと言われてきました。しかし、震災を期に、対内的な結束という意味でのナショナリズムの契機が出てきたのではないかと思うのです。私は、そのような思いを、一見非常に普遍主義的な議論を展開しているこの論稿を読みながら強く思いました。

2011年4月16日土曜日

20世紀はまだ終わっていない

ツイッターを利用し始めるとブログの更新が減るというのは本当だった。震災の際、家族友人の安否確認にツイッターが非常に有効だった、という話を聞いて、それまでツイッターはちょっと、と思っていたが思い切ってアカウントを作って時々呟き始めた。すると、タダでさえブログに書くことはあまりないのに(EUIには最近戻れないのでEUIがらみのことも書けない)、ツイッターで言いたいことが大体いえるので、ブログに書くことも無くなってしまう。
ツイッターの方は身元を名乗っているし、そっちのプロフィールにはこのブログのURLを入れているのもあって、ツイッター経由でこのブログへのアクセスも増えた。ちなみに、ツイッターのアカウントは、この一見謎な投稿者名がヒントになっている。


ところで、基本的にずっと原発がらみが非常に気になるのだが、原子力発電について急激な反原発の動きが出てきているという。放射能の恐怖に子供を抱える母親がそう思うのは理解できる。しかいよく分からないのは、これまでさんざん安全だと言い続けていたのにこのざまは何だ、という反発である。ネット経由の情報しか基本的に手に入らないが、どうもそういう感情が感じられる。ようするに、騙された、ということだ。

しかし、どうもこういう議論には違和感があった。どうしてだろう、とずっと思っていたが、ふと思い出した。自分はまだ冷戦期を生きていた経験があり、小学生だった1970年代後半から80年代前半の新冷戦時代、世界は米ソ間の全面核戦争の幻影におびえていた。

自分は大学で若い学生に教えていて、そういう幻影が今から30年前位にあったと言っても、ピンとこない人が多いことも分かる。しかし、やはり、冷戦期において、核戦争と放射能の恐怖というのは常に肌感覚としてあった。中性子爆弾によって建物を破壊せず人間だけを死亡させる戦争のSF的映像とかをテレビで見て、放射能が人を破壊する兵器となる、という感覚は幼いころに植え付けられた。

しかし、冷戦が終わり、そのような核戦争の幻影に我々が怯えることはなくなった。と同時に、核戦争の勃発によってまき散らされる放射能の恐怖も、我々は忘れはじめた。時代の変遷ゆえに我々は自ら忘れてしまったのか、それとも忘れるように仕向けられたのかは分からない。たぶん、仕向けられたかもしれないが、我々は自ら進んで忘れていったのではないかと思う。

冷戦は終わり、それは一つの時代の幕引きを意味していた。しかし、それによって終わらなかったものもあった。私たちは、冷戦によって無くなったと思っていたものの突如の復活を見ているかのようである。その意味で、まだ20世紀は終わっていない。
(この文章は未完です)

2011年4月5日火曜日

一年が経った

在外研究に伴い、フランスに渡って一年が過ぎた。家族を伴っての東京からフランスへの引っ越しは、本当に大変だった。家族連れで在外研究をしている人がみなあれだけ大変な思いをしているのか分からないが、とにかく寿命が2年くらいは縮む思いをした。あれだけ大変な思いをして渡ったフランスと家族を残して、フィレンツェに渡ったのはその半年後。そのアレンジメントでも、本当に大変な思いをした。
折り返し点を迎え、そろそろ帰国のことも頭に入れなければならなくなり始めた。家探しを始め、また一からのスタートである。自分自身、東京に居を構えるなど、どこか悪い冗談なような気がずっとしていたが、その感覚は今も続く。

今この時期に、在外研究で日本人がヨーロッパのことを研究することの意味を反芻しつつ、有益な研究成果を残そうと日々努力しつつ、その一方で、家族を持つ者として、家族に向き合いながら日々を死後している。

つくづく、今の自分の日常を成り立たせている構造と言うのは非常に脆くて、その脆さを自覚しながら仕事を進めていかなければならないのだな、と実感している。と同時に、自分自身がその脆さをカバーできる知恵を持たなければならないのだな、とも実感している。

2011年4月2日土曜日

ドイツ外務省史料館(Politisches Archiv des Auswartiges Amts)利用感想

ドイツ外務省政治史料館(PAAA)

住所 Kurstraße 33, 10117 Berlin
開室時間 月~木 8:30~16:30、金 8:30~15:00
サイトはこちら

■事前問い合わせ
・HPでは書面による閲覧申し込み(テーマ、研究の対象年代○○年-××年、訪問期間を添えること)を3週間前(出来れば1か月前)にするように推奨している。たとえ3週間前を過ぎたとしても、訪問することを決めた時点で連絡することが必要である。10年前は駐独日本大使館の推薦状が必要だったが、いつの間にか不要になった模様。
・訪問の事前申し込みは、席の関係上も推奨されている。閲覧室はそれなりに大きいが、一人あたりのスペースがかなり大きいため、席数には限界がある。
・隣国にいることをいいことに、自分は一週間前にメールを出した。返事はOKだったが、次からは4週間前には連絡頂戴ね、と返事が来た。

■PAAAに所蔵されている史料
PAAAに所蔵されている史料は、大きく分けて四つの種類がある。第一に第二次大戦前、第二に
第二次大戦後のドイツ連邦共和国(旧西独およびその後の統一ドイツ)の外務省史料、第三に旧東独の外務省史料、第三に私文書(Nachlass)である。カタログは閲覧室に完備。ネットでは見れない。70年代以降はまだ整理中の史料が多く、受付の人に頼まないとカタログは見れない。

■注文数
一日20までの模様。注文は、閲覧室内のPCから行うが、ドイツ語が不自由は私には、受付の女性が紙に書いていいから、と言ってくれた。


机の上には史料をいくつでも持って行ってよい。

■閲覧室へのアクセス
・閲覧室は、地下鉄2番線のSpittelmarktとHausvogteiplatzの中間あたりあるが、若干Spittelmarktの方が近い。
・上記の住所の扉をあけると受付があるので、アーカイブ閲覧室の利用者だと告げると、身分証(パスポート)と交換にバッジ(立派なプラスティック製)をもらう。初日は、大抵訪問者リストらしきものと名前を照合しているので、はやり、訪問期日をきちんと指定して乗り込むのがよい。なお正規の職員は、このバッジを扉にかざすと鍵が開くようになっているが、閲覧室利用者のにはその機能はない。その代わり、受付の人が開けてくれる。
・入口から閲覧室へは、エレベータを一回乗り継ぐ必要がある。まず入ったところにあるエレベーターの二階(ヨーロッパ式)まで行って降て右側の廊下を進む(Lesesaalはあちら、の表示あり)。廊下を行った先にあるエレベーターに乗って、今度は4階(ヨーロッパ式)に。降りたら目の前が閲覧室前。
・ロッカーは、鍵が閲覧室の中の受付前においてあるので、まず中に入って、鍵を自分で取りに行く。


■史料の分類法(西独期のみ)
・史料は、基本的に担当課毎に大項目として分類されている。他方で、ドイツ外務省の機構は時期を追って改編されており、機構改編の系譜と、それぞれの課・局がどのような政策を担当していたかを把握することが、史料探しの第一歩となる。
・いまだよく分かっていないのだが、PAAAには通常の史料群と機密史料群とに分けられている様子である。公刊される西独外交文書AAPDに収録されているのは、通常、機密解除された機密史料群である。VS-Aktenと呼ばれるこの機密史料群のカタログは、たぶん内部の人間にしか公開されていないのだろう。閲覧室にあるカタログは通常史料群のもの(もちろん、これらの史料の中にも機密(Geheim)と記載されている史料はある)。
・VS-Aktenの中からAAPDに収録するために機密開示された文書を集めたのがB150。B150はカタログも閲覧室で見れる。AAPDも結構膨大だが、B150のカタログを見ると、AAPDに収録されなかった史料は収録された史料の4-5倍近いことが分かる。とすると、B150を見ると機密資料が一杯見れるように思うかもしれないが、二つ注意すべきことがある。第一に、B150はAAPDが刊行された年の分の史料しか存在しないこと、第二に、B150のカタログは日にち順に並べられているだけなので、ある特定のテーマで史料をおっていくことに向いていない点である。
・VS-Aktenを機密開示されたものをテーマごとに整理したのがB130。こっちの方が個人的には有用だと思う。しかし、その対象年代は圧倒的に1960年代前半(アデナウアー政権の後半およびエアハルト政権期)。


■複写について
・デジカメOK。しかし、閲覧室のデジカメ率は低かった。多くの人がパソコンもしくはノートにひたすらメモ/写経していた。
・多くの史料はマイクロフィッシュ化されており、フィッシュの複製料金は非常に安い(一枚1ユーロ弱)し、仕事も早い(1週間ちょっとで注文用紙が届く)ので、フィッシュについてはそのまま複製申請を出して、帰国してマイクロリーダーから落として行った方がお得だと思う。
・フィッシュの複製申請は、閲覧室に閲覧用紙があるので、それに記入。
・申請用紙を出してから1-2週間してから、申請用紙に書いてある住所に注文用紙が届く。支払い金額が書いてあるので、日本から短期で訪問した場合、日本から指定銀行(ドイツ)の口座に国際送金する。その後フィッシュが郵送される仕組み。


■その他
・閲覧室にはやや小ぶりながらも、ドイツ外交史に関連する研究書・史料集の本棚があり、のぞいてみるといろいろ発見がある。
・リラックスコーナーはない。みな、閲覧室前の、机などが置いてあるコーナーで休憩している。コーヒー等の自販機もない。多くの人は、ペットボトルやサンドイッチを持ってきて食べている。
どうしてもコーヒーが飲みたい、サンドイッチが行く途中に売ってなく空腹で何か食べたい、という人は一回建物から出る必要がある。自分もそうしたし、そうしている人は結構いる様子。
・ベルリンの地図は、空港においてあるBVG(ベルリンの公共交通機関公社)による路線図が一番見やすいと思う。
・自分が言うまでもないことだが、ベルリンはMitteからFriedrichstr.、Hackescher Marktあたりがにぎわっているし、またアーカイブからも近いので、このあたりに滞在するのがお勧め。アパート型ホテルも結構ある。
・この史料館の名前に、なんで「政治」が付いているのか、前に何かの解説で読んだような気がするが、忘れてしまった。どうしてなんだろうか。要するに、外務省史料館なんだけど。
・自分のドイツ語は笑ってしまうくらいに拙いが、拙いドイツ語をきちんと聞いてくれるのが好印象。

成蹊大学の川村先生も書いているように、このPAAAの建物は旧東独外務省の建物を使用している。現在のドイツ外務省の建物は、このPAAAが入っている隣に位置する、さらに近代的で立派な建物である。10年前に初めて訪れた時、エレベーターが止まったり動いたりする時の衝撃がいちいち大きく、東ドイツ製ってこんなかんじだったのかな、と東ドイツ製エレベーターに乗ったこともないのに漠然と思ったものである。10年後再訪して、エレベーターの乗り心地はかなり良くなった。

2011年3月26日土曜日

戦争によって時代が区切られるのだとしたら、今まさに一つの戦争が始まり、そして終わりを告げようとしている

震災発生以来、ろくすっぽ研究が手につかず、ヨーロッパという地に居てああでもないこうでもない、と毎日悩み続けております。以下の文章は、現段階での自分の所感です。あまりまとまりはありません。こういう職業についている人間が書くものにしては(それが故に?)抽象的すぎるかも知れません。

****

日本の状況はネットでしか把握できず、UstreamでのNHK配信も終了となった今、肌感覚として今日本が震災と原発危機にどう対処しようとしているのかは、断片的にしか分からなくなってきている。
(以後、「震災」と言った場合は基本的に地震と特に津波被害のことを指し、原発危機は福島第一に由来するすべての問題を指しこととします)

たとえば、今の原発危機、この状況がしばらく続きそうだが、その被害がいかばかりのものになるのかについて、けりがつけばまた人々は普通の生活に戻ることになると考えている人が多いのか、そうでないと考えている人が多いのか、どっちが大勢を占めているのかがよく分からない。「専門家」と呼ばれている人ですら、「最悪の結末」の程度が違う。もっとも、原発をめぐる現段階は、僕が第一報-すなわち福島第一の一号機から四号機までの冷却システムがすべて破壊された-を聞いたときに想像した最悪の事態である。すなわち、原発から放射能が漏れて周りの住民が避難を強いられ、放射能によって農作物・水が汚染され、日本に放射能汚染というレッテルが張られ、そして程度によっては原発の半径何キロかはしばらくの間-それが数週間であれ、数か月であれ、そして数年もしくは数十年であれ-立ち入り禁止区域となるのではないか、という事態である。最後については、きっと専門家であっても意見が異なることになり、最終的には「政治判断」が下されるだろうが、それ以外については、残念ながら、現実のものになってしまった。

もちろん、震災の被害にあった人達、原発危機によって避難を余儀なくされた人が、そんな先のことを考えている余裕がないことはわかる。でも、ある程度の「外野」の人間であれば、そのようなことをを考える段階にきていることは分かっているはずだ。

海外にいるからかもしれないが、今の僕には、今の日本の状況は、いわゆる有事そのものに映る。要するに戦争状態に極めて近いように映る。大量の死者、死を覚悟して国家に殉じる作業の存在、大衆レベルでの一般生活の制限、すべての国民が抱く「次は自分に降ってくる」という感覚。そのような状況が日常に現出する戦争状態は、それを経験することで社会に極めて多くのストレスを与え、それゆえに多くの人間に劇的な心情の変化をもたらし、そして国家を運営する業務への根本的な疑いを投げかける。だから、戦争によって、多くの国家は社会的政治的な転換を経験し、それはその国家の歴史にはっきりとした転換点を作り出す。

第二次大戦後の日本は、戦後復興と高度経済成長を成し遂げた後、内側に豊かな社会を作り上げたものの、国家的目標を失ったかのように、日本がどのような国家として生きるのかという目標をずっと立てれないでいたと思う。第二次大戦後の日本には冷戦の終了も戦後史の画期とならず、ずるずると戦後の世界を続けていた。それは文化的爛熟期ではあったとは思うが、政治的システムは機能マヒに陥り、社会的には閉塞状況に陥った。そんなことは誰でも知っている。でも、多くの人がなんとかしようとしていた問題は、解決されないままだった。

この3.11の大震災とそれに続く福島原発危機によって、戦後日本が歩んできた道は、ガラガラと音を立てて崩れ落ち、これまで考えていた、今から進もうとする道はがれきに覆われている。僕は終末論者でもないし、不安を煽りたい訳でもない。僕が言いたいことは、これから進もうとする道が進めなくなったことで、予想もしない形で、日本は新しい道を模索しなければならなくなったのではないか、ということである。このような形で日本が変わらなければならない瀬戸際に立たされたのは、とても悲しいことではなかろうか。


今回の地震は、千年に一度の規模だと言う。千年に一度の津波を想定外と言いたい気持ちは分からなくはないし、その規模の災害に備えることはおよそ財政的コストからして非現実的かもしれない。でも、日本の歴史はすでに二千年以上の時を刻んでいる。今から千年前と言えば、だいたい平安時代だろうか。平安時代から長い時間かけて、日本は今の姿へと歩んでいった。千年に一度の災害に耐えられない設備を作り、そしてその設備に被害が及んだ時、日本の狭からぬ地方に深刻な災害をもたらすのであれば、その設備を作った時点で、極論すれば、日本の歴史はあと千年でおしまいになることを意味するようなものではないか。

日本の原発政策は変わっていかざるを得ないだろうが、それでも原発に電気を依存せざるを得ないのであれば、たとえ統制が取れなくっても周りに与える被害が最小限になるようなレベルに抑えなければらないだろう。そうでなくとも、これまで原発の議論は結論ありきだった。結論ありきでは議論は成立しない。この話題で健全な議論が成立するか、まずはそこが問われてるのだと思う。

今回の震災によって「何か」が終わりを告げた、ということはすでに多くの人が指摘している。震災で苦しんでいる人、今放射能の恐怖と戦っている人にとって、そんな歴史的視座の問題は、さしあたりどうでもいいかも知れないし、実際どうでもいい話なことも自覚している。

しかし、たとえそうであっても、この大震災は戦争の様であり、そして過去の戦争と同様、この国の形を変えるものである。ただし、震災はたとえどれだけ被害が甚大であっても、敵が不在という意味ではやはり戦争とは違う。終わりもはっきりしない。敢えて言えば、原発の冷温収束の実現がそれに当たるだろう。それがいつになるのか目途が立っていないという意味で、今はまだ戦争が終わっていない段階である。終わっていない段階で何が言えると言うのだろうか。

しかし、自らの専門分野のマージナルな知識が、戦争が終了する前にこそ、戦争後のことを考えなければならないことを私に囁いている。ジャン・モネがアルジェで戦後ヨーロッパ秩序を構想したように、この危機が収束に向かっていることをうかがわせているときにこそ、次の時代には前の時代のどこを修正し、一体何をしなければならないかを描きださなければならない。

特に原発危機に際し、政治に何が出来て何が出来ないのか、政治とはどのような現象で何が問題となるのかは、ある意味非常にはっきり人々の前に映し出されたのではないかと思う。はっきりと映し出されたと書いたが、自分自身それを明確に言語化するところまでは行っていない。しかし、重要なのは、たぶん、これからは従来の政治学的な立場-現実の政治をどう行うかについて政治学はあまり立ち入りませんよ-ではまずいことであろう。日本における政治学界の片隅に生息している研究者として、この事態が投げかけているのは、無力感である以上に挫折感でもある。東大総長は今こそ「知」が問われるときだと書き、それはその通りだと思うが、知のあり方も変わらざるを得ないかも知れない。実学とかそういう意味ではなく、社会に役立つ「知」とは何かを考えていかなければならない。

もうひとつ、今回の危機でさらけ出されたのは、日本が独力でこの危機を解決できなかったことである。それは恥ずかしいことではない。それよりも、結局日本が頼ることが出来たのがアメリカだけだったという事実の方が重要である。中国も韓国も救援隊が駆けつけてくれたが、原発危機や復興などの連帯は不可能だった。ヨーロッパは距離もあったが日欧とも救援隊以上の連携を考えていなかったように思う。僕は、このような日本の国際社会から孤立はとっても不幸なことであり、自分の首を絞めかねないように感じる。


取りとめもなく書いてみたが、日本に流れていたゆっくりとした、しかし淀んだ時間が、今一斉に濁流となって、日本の歴史というか社会全体を変えていっている様を、今私はヨーロッパから見ている。同時に、その変わっていく先がいい方向へと向かわせる義務が、日本人である自分には課せられているのだという責任感を強く感じる。たぶんそれは、海外にいる日本人が多く感じていることではないだろか。

2011年3月18日金曜日

ルーヴァン・ラ・ヌーヴ大学付属史料館利用記

仕事は手につかないが、気分転換を兼ねて通常のエントリーをアップさせてみよう。

先日、ブリュッセル郊外のルーヴァン・ラ・ヌーブ大学(UCL)の付属大学史料館に行ってきました。同大学の現代ヨーロッパ史研究所(CEHEC)の付属史料館の閲覧がこの大学史料館に委託されているからです。

CEHECはベルギーにおけるヨーロッパ統合史研究の中核的存在で、その中心にはMichel Dumoulin教授がいます。CEHECには、ベルギーの有力政治家や諸団体が私文書を提供しており、CEHECが文書を整理し公開しております。CEHECに収録されている有名文書としては、Paul-Henri Spaak、Paul van Zeeland、Pierre Wigny(分類中と記載も現地に行くと読んでいる人がいた)など。

■閲覧手続き
CEHECのページに記載されている通り、まずCEHEC長のDumoulin教授に閲覧許可願いの手紙を送付。閲覧申請用紙は、CEHECサイトからダウンロード。閲覧したい文書を番号まで記入。カタログはサイトにすべてPDFに載っています。手紙は、ほどなくして、教授の許可サイン付きで戻ってきます。
許可の手紙が返送されてきてから現地に行きます。自分の場合は、返送まで一週間程度でした。日本からだともう少し余裕を見た方がいいでしょう。史料の閲覧は、上記のとおり、UCLの大学史料館の閲覧室で行います。ここには特に事前の連絡は要りません。手紙を見せると、その場で史料を持ってきてくれます。

■閲覧室に関するPratical Information
・開室時間 月~金 9:00~17:00(うち、12:30~14:00までは昼休みということだが、朝からいた分には特に何も言われなかった。たぶん、新規の受付不可の時間と解すべきか)
・場所 D-103 (地下一階), Place Montesquieu 3, B-1348 Louvain-la-Neuve
・UCLまでのアクセス:ブリュッセルからUniversite Louvain-la-Neuve駅まで行き(1時間から1時間20分)、そこからモンテスキュー広場まで約5分程度。同広場三番の建物の玄関に入り、左手にある階段を下りたところの部屋です。大学内の施設なので、身分証等の提示は求められず。ただし、上記にあるように、Dumoulin教授による許可の手紙を提示しないと史料を見せてくれません。
・その他詳しい情報は、ここのページを参照のこと。

■複写
デジカメ可。特に制限なし。

■その他
・辺り一帯は大学およびショッピングゾーンなので、大学食堂やお店が多く昼食をとる分には困らない。
・ブリュッセル圏内からルーヴァン・ラ・ヌーヴ大学駅に行くのは、南駅→中央駅→北駅→シューマン駅→ルクセンブルグ駅→以下郊外の順番。電車の本数は、途中乗り継ぎと直通を合わせると大体一時間に二本くらいある。
・ベルギー外務省に行った翌日に訪問したので、そのあまりにオープンさに驚いた。同じベルギーとは思えない。
・ルーヴァン・ラ・ヌーヴはフラマン圏あるフランス語圏の浮き地みたいなものなので、徹底的にオランダ表示がない。建物もすべて人工的に作られ、日本にある郊外団地(東京だと光が丘とか)の雰囲気に非常に近いように思った。

2011年3月13日日曜日

ヨーロッパから見て

イタリアに帰ってきて、日本のニュースはトップ扱いだけど、街はいたって平穏なので、実にやるせないです。
研究は手につかず、ほとんど一日中ニュースを追い続ける。地震発生から72時間が迫っているけど、今日本が直面しているのはそれぞれ異なるベクトルの六つらいの五つくらいの問題を同時にクリアすることが求められているように見える。

第一に、生き埋め等になっている人の救助。絶望的だがやるしかあるまい。一刻を争う。

第二に、孤立している人達への救援。これも一刻を争う。

第三に、東北・北関東における避難している人々への支援。これは一刻を争うものではないが規模が大量。

第四に、原発問題の解決。現在IAEAの事故レベルだと4だが、対応を誤るとそれが5にも6にもなるのではないか。そうしたら、日本、特に北関東はさらに壊滅的な打撃を受け、国際的にも深い爪痕を残す。だから各国はものすごい関心を寄せている。これは、すでに起こってしまった出来ごとに対する措置ではなく、これから起きることを最低限に封じめる措置である。福島第一三号機への措置に対するニュースが随分ないが、まだ峠は越したという発表はない、これが発表されない限り、エマージェンシー状態は続くことになる。

第四に、疲弊する社会を上手に回していく措置。

第五に、復興への道筋をつけること。さらに、従来から懸念されている東海・首都圏直下型地震に対する備えをどう見直すか、ということ。


外にいると、今おそらく日本を覆っている不安感というものが皮膚感覚として感じることが出来ない。自分が日本人と分かるとこちらの人も大変心配してくれるが、しかし所詮遠い海の向こうの話である。私と離れれば、サッカーとか日常の話題に戻っていく。だから、とてももどかしい。

英米の新聞で日本を励ましという記事を見るが、フランス系は次のように報じていた。自分が読んだのは、三大新聞のLe Monde(高級紙)、Figaro(保守・右派系)、Liberation(左派系)だけだが、どの新聞も、今回の地震の規模にかかわらず首都圏の被害が大変少なく、パニックが起きなかったのは、ずっと日本が地震対策を取り続けていた成果であることを強調している。日本人は地震の時何をすればよいのかが頭に叩き込まれている。これはすごいことだ、と。
しかし、Figaroには次のようなことが書いてあった。世界に類を見ない耐震社会を作り上げた日本人は、確かにそのようなシステムを作り上げる能力にたけている。しかし、その場その場で判断しなければならない状況では並み以下の能力しか発揮できない。神戸大震災に対する対応は悲惨だったのだから、と。

日本人だからがんばれるさ!、とも、日本人だから無理、と言うつもりはない。しかし、困難は乗り越えられなければならない。それは希望的観測ではなく義務であると思う。
そして、それは誰かに言う言葉ではなく、自分自身に刻む言葉である。

だからこそ、自分にできることが何なのかをずーと考えています。自分も、ある分野の専門家のはずなのに、何の役も立てそうにないのが恥ずかしい、と。と言っても、当座できるのは募金ぐらいしかないんですね。

2011年3月12日土曜日

ブリュッセルで待機中

早めにイタリアに戻ろうとしたが、チケットが変更不可能だったものらしく、今はまだブリュッセル。
ホテルのチェックアウトの時、受付の人が、自分が日本人だということで非常に心配してくれた。特に、原発の問題は人類的な問題だから、と。

その後、郵便局で前々から出そうと思っていた日本あて郵送物を出していたら、後ろで待っていたアラブ系?の若い男が、日本から来たのか、幸運を祈る、と言ってくれる。
駅のキオスクに行くと、フランス、ドイツ、オランダ語の新聞、すべて日本の地震のニュースが一面を飾っている。

2011年3月11日金曜日

今地震の情報を知る

今ブリュッセルで、朝にちょっとネットを見たときに地震が起きたとニュースがあったが、数日前もそうだったたなくらいで、すぐに出かけ、こちらで午後4時くらいまで仕事したあと、遅い昼ご飯を取るために入ったファーストフードのお店で初めて地震がとんでもない規模だったことを知る。
ブリュッセルから一時間かかるところのアーカイブに来ていたので、気が気がしないままホテルに戻り、フランス語・ドイツ語の衛星ニュースを見る。
津波の映像が繰り返し流されており、大変ショックを受ける。
あの津波に飲み込まれる家々の中には人がまだいたのだろうか。
美しい田畑が泥の津波に飲み込まれる映像はこの世のものとは思えない。

まだ被害の全体像が見えていないが、最小限に祈ることを願っています。

2011年3月10日木曜日

ベルギー外務省アーカイブ

本日ブリュッセルのベルギー外務省アーカイブ(MAEB)に行ってきました。

■概略
・ベルギー外務省は、旧植民地に関する史料(Archives africaines)とそれ以外の一般的対外政策に関する史料(Archives diplomatiques)の二つを保有している。閲覧室は、ブリュッセルの地下鉄Porte Namurから降りて数分の、王宮前広場にも近い外務省本局建物内の一画にある。

■開室時間
月~金: 9:00~16:00
デジカメは使用禁止。コピーは史料を指定し掛りの人にやってもらう形式。A4サイズだと、一枚25サンチーム。
外務省内にあるため、建物の中に入るためには身分証必要で荷物検査あり。建物内の移動は掛りの人が付き添う。

■特徴(感想)
さて、ベルギー外務省アーカイブの特徴は、他の外務省アーカイブと比べると閲覧のハードルが(相対的に)高い点にあると思う。
・まず、事前にMAEBに連絡する必要があるが、その際に、自分の研究テーマと読みたい史料を十分具体的に提示する必要がある。その連絡を受けてMAEBのアーキビストが関連史料を調べ、訪問日に合わせて史料が用意できる、という返事を受け取って初めて閲覧が可能となる。
・なので、ベルギーに関連する史料をMAEBで閲覧しようとするなら、訪問の3か月前にはコンタクトを取り始める必要があるだろう。もっとも、MAEBを利用した文献やこれまでの話を聞く限りは、1950年代までの史料はそろっているが、60年代の史料が開示されているかどうかはかなり不確かで、そのような開示資料を使って書かれている先行研究が存在しているからと言って、別の人も閲覧できるとは限らないようである(これは西独期の有力政治家の私文書でも同じことが言える)。

・通常アーカイブにはカタログがあり、利用者はカタログに目を通すことで自分に関連する史料をピックアップすることになるが、MAEBに関しては、利用者はカタログを参照することができない。カタログはアーキビストのみが参照できるらしい(たまたま話したベルギー人の利用者談)。

・自分は、あるテーマについて5年くらいの幅の史料を読みたいとメールしたところ、返事が来て、そのテーマはすでに多くの研究があり関連する史料集も出版されてますが訪問をお待ちしております、という内容だったので予約が取れたとばっかり思ったのだが、返事の趣旨は、テーマが十分に限定されていないのでもっと先行研究を参考にして内容を限定するか文書の番号を具体的に提示せよ、ということだった。閲覧室にまで行ってアーキビストの人と話をしても、どうもいったいどうやって史料を閲覧・注文したらよいのか分からず、何回か質問したら、どうもそういうことだったらしい。

・言い訳がましいが、自分の中では非常に限定的なトピックについて調べられてたらよいが、できれば史料の全体的な所蔵状態を知りたかったので、あえてやや広いテーマを提示したのだが、どうもそれがよくなかったらしい。

・訪問の一番最後、最後に確認したいことがあってアーキビストを待っている間に、利用者がお昼を食べるのに利用するキッチン部屋があり、そこにたまたまいた閲覧室利用者にこのアーカイブの利用の仕方を聞きたくて話しかけてみた。彼曰く、MAEBは非常に閉鎖的で、どの史料を誰に見せるかはアーキビストの判断で決まっており、粘り強く交渉する必要があるそうだ。特に、今の主任アーキビストは史料開示にあまり積極的ではないらしく、その人が定年を迎える3・4年後以降は状況は変わるかも知れないが、今のところはあまり改善は見込めない、と。僕が、カタログを見せてくれないが、カタログを読まなければ史料をどう整理していてどのような史料が存在しているかが分からないのではないか、それを知ることが研究の第一歩なんだけど、と言うと、それはみんなが苦労していることで自分も1年半通ってようやく分かり始めた、と。

・結論として、ようやく手続きの踏み方が理解できたので一カ月後に再挑戦することに。

・すくなくとも、今日対応した掛りの人(受付から閲覧室まで利用者を誘導する掛り)がそのポストにいる限り、上記に記したアーカイブからのメールはプリントアウトして持って行った方がよい。自分は、メールのやり取りで来てもよいと言われたと言ったところ、文面を見せろと言われ、ネットにつながないと無理と答えると激昂されてしまい、アーキビストに内線を通して確認しなおして入れてもらった。最後に退出する際、次回はメールの文面をプリントアウトしてくるように念押しされる。
■以下余談
・話しかけたベルギー人院生の人はなかなかいい人で、次のようなことを話してくれた。1960年代までベルギーの外交官はワロン(フランス語圏)出身者で占められ、フラマン(オランダ語圏)出身者は少数派だった。しかし、この時代までのフラマンのエリートは実はフランス語を母語としている人がほとんどだったので、言語が問題になることは少なかったし、第二次大戦以前は基本的に良家の子弟が外交官になっていたので、ベルギー外交はフランス語の世界だった。しかし、第二次大戦以降外交官のリクルートが試験による選抜制に移行し、その試験においてフランス語とオランダ語の両方の十分な知識が求められ始め、そして第二次大戦以前に入庁した古参のワロン外交官が退官し始める80年代以降、今やベルギーの外交官はフラマンが優勢をしめ、ワロニー(ワロン人)は少数派に転落したそうだ。なぜなら、フラマンはかなりまじめにフランス語を覚えるが、ワロニーはオランダ語を苦手にする人が多く、試験でいい点を取れないからだ、と。
・実は自分がお昼をその部屋で食べていたとき、ワロニー院生らしき二人組のアーカイブ利用者が雑談しており、その内容は、如何にオランダ語を勉強することがつまらなく、かついやなことであるか、という内容だった。ブリュッセル圏であれば、確か8歳から10歳くらいから、お互いの言語を勉強し始めるはず(ワロニーならオランダ語を、フラマンならフランス語を)で、学校で10年間くらい言語を勉強する。しかし、多くのワロニーはオランダ語がしゃべれない。しゃべる必要もないし、その機会もないからである。これは、日本人が英語を学校で10年間ちかく勉強してもしゃべれないのはなぜか、という日本ではおなじみの日本人に対する英語論の問題と全くと言っていいくらい鏡映しの状況である。
・その院生も言っていたが、ワロニーがオランダ語を習得しても、実際にメリットになることは少ないという。オランダ語は、オランダとフランドル地方でしか使われない言語だが、フランス語はフランスをはじめ多くの国家・地域で使用される。フラマン人がフランスを習得すれば、ベルギー国内だけでなく外交の世界ではいまだ相それなりの重みを持つ国際機関の場でも活用できるのに、ワロニーがオランダ語を習得しても、試験に受かりさえすれば、もうしゃべる機会はそれこそオランダか、フランス語が出来ないフラマン人相手との会話しかない。
・ただ、MAEBの体質は、このフラマン・ワロンの話とは全く別のことだと、その院生の談であった。なんというか、ベルギーは奥が深い。知れば知るほどラビリンスの様である。

2011年3月2日水曜日

Karl-Marx BuchhandlungとKarl-Marx Allee

ベルリンへの滞在はこれで三回目で、一回目は2002年の7月に一ヶ月間旧西独地域の住宅地にあるアパートを借りて3週間過ごした。夕方まで外務省アーカイブに通い、週二回夜6時から9時までゲーテインスティテュートの夜間コースを受講してドイツ語を勉強した。体力的には結構大変で、3週間居た割にはあまり街を探索する元気がなかったのが残念。

今回も3日間の滞在なので特に街を探索する時間はないのだが、せっかくだから、アーカイブが終わってから、昔見て感銘を受けた映画『善き人のためのソナタ』のラストシーンに出てくる本屋が現実にあるなら行ってみたいと思った。

エンディング(ネタばれ)

それで、YouTubeにアップされているラストシーンを見ると(著作権的にOKなんだろうか?)、Karl-Marx Buchhandlungと書店の名前が見える。映画のためだけに装飾を付けたとも思えないで、この店名で検索してみると、実際に行ってみました、というブログも出てくる。住所も出てきたので、早速行ってみた。

住所はKarl-Marx Alleeの78番地で、地図で見るとAlexanderplatzから歩いて行けそうな感じなので、アーカイブからとことこ歩いてみた。すると、このKark-Marx Alleeというのはなかなかの大通りで、78番地には遥かかなたで着きそうにない。それどころか、しばらく行くと、なんというか随分仰々しいファサードを構えたシンメトリーな建物群に行きあたった。なんだろうなあ、と思っているとマルクス像と、その近くに英語と独語による案内板があった。



それによると、このKarl-Marx Alleeというのはヨーロッパで最大級の建築モニュメントで、地下鉄にして三駅分の大通りを挟むアパートおよびその地上階部分の装飾が旧東独時代で建築されたのだと言う。Wikipediaのドイツ語版には結構詳しい説明があり、この映画だけでなく『グッバイ!レーニン』にも登場した、東独のプロパガンダと芸術を担った重要で有名な歴史的場なだとか。うーん、全然知らなかった…。

Karl-Marx Alleeの建築モニュメントの始点。この先、延々同じような建物が続く。
もうちょっときちんとした写真を取ればよかった…

たぶん、Alexanderplatzから30分くらい歩いて、ようやく78番地に到着。確かに映画と同じKarl-Marx Buchhandlungの文字が。しかし、ガラス越しに見える本棚に本がない。人はいるみたいだが、どう見ても本屋としてはつぶれて、その後に別の何かがオフィスとして使用しているようだった。

この本屋のところにも案内板があり、それによると2008年に本屋は閉店になったとのこと。しかし、この本屋の設計と通り全体における配置はこのKarl-Marx Alleeを設計した建築家にとっても大きな意味をもつものだったそうで、本屋の後にはベルリン建築協会が入っている。

今のKarl-Marx Buchhandlung

それにしても、映画では、主人公は郵便配達の途中でこの書店の前を通りがかり、一回通り過ぎたポスターの前に戻ってくるが、この動きは、現地に行くと実は不自然なことがわかる。なぜなら、この建物を少し横から取ると次のような感じだからである。


いまだに旧東ベルリンだった場所には、その時代を過ごした染みが残っていて、そのような歴史的な場所にあふれたベルリンはたまらなく刺激的である。

ただ、丸一日アーカイブワークした後、さらに随分歩き回ったので、体力的にはかなりつらかった…。

2011年2月27日日曜日

複数のヨーロッパ

いつの間にか、アマゾンにページが出来たようです。
日本語によるヨーロッパ統合史研究の新鋭(私を除く)たちによる掛け値なし先端的論文集ですので、どうぞみなさん買ってください。

自分としては、執筆要綱をほとんど無視した分量を載せていただいたことが本当にありがたかった半面、それでもいろいろ書き足さなければならないところが多すぎて、荒削りすぎる論稿だったなあ、と反省しております…。

2011年2月26日土曜日

ドイツはまだ冬だった

フランクフルト周辺は雪が舞い散り、ライン川は雪景色。気温は到着日には昼も0度くらいで、完全に風邪をひきました。月曜日には、さらに寒いベルリンに行くかと思うと気が重い…。

2011年2月23日水曜日

フィレンツェはもう春

昼間はかなり暖かく上着はいらないくらいになりました。朝晩はその代わりかなり冷えこんで寒い…。

明日からは、ドイツ、コブレンツ・ベルリンからパリ経由で再度ベルギーへ。ルーバンとベルギー外外務省に初挑戦。

研究室に行く途中の小路から見える風景

2011年2月22日火曜日

フランス外務省アーカイブについて

フランス外務省アーカイブを利用するにあたって個人的留意事項(他の文書館の記述と比べると手抜き)

フランス外務省アーカイブは、1年ほど前に、本省のケドルセの一角から郊外に移転し、大きく利用方法が変わった。以前は不便でかつ説明が必要な複雑な利用手続きだったが、郊外に移転以降は、通常の(他のヨーロッパのアーカイブと比べて)使い方になった。

■サイト(閲覧室情報)はこちら。昔と比べ、かなり情報が増えている。

■開室時間
月~金: 10:00 ~ 17:00(初回登録室は9:30から開始)

・事前問い合わせは、しておいた方がベター。最近は親切になっており、関係史料を向こうがピックアップしてくれ、さらに訪問日に合わせて予約もしてもらえる。
 事前問い合わせをしていなくても利用は出来る。

・入口のボタン(Appel)を押すと扉があき、アーカイブに用事があると告げる。初回時だとパスポートの提示を求められる(利用者カード作成後は、この時点では利用者カードの提示のみでOK)。セキュリティーチェックを受けて中に入るとまず中庭。そこから建物に入ると左側の受付には行かず、まず右側の登録コーナーに行って利用者カードを作成する(要パスポート)。フォーミュラを記入して、10分程度で完了。カード作成後は、荷物をロッカーに入れて、受付に行って扉の開け閉めに使うパスをもらう(要パスポート)。閲覧室内への荷物持ち込みは実質チェックがない。

・パスをもらって自動改札の中を入ると一階(日本式だと二階)に上がる。カタログ室が真ん中にあるので、まずカタログをチェック。注文は、カタログ室内のPCからタレーランという特別ソフトを使って行う。史料の注文は一回に三個まで、最大(確か)9個確保できる。確保できる数については不確定情報なので、その程度ということでご理解ください。手元には一個しか参照できない。

・紙史料とマイクロ史料に大きく分かれ、マイクロ史料は自分で棚から取って閲覧できる。紙史料については、注文から1時間程度で到着。ただし午後の遅い時間(16時)の注文分は翌日に。

・紙史料は、入っているのがファイル形式ならDossier、ボックス形式ならCartonと言う。Dossierの場合は言っている史料の枚数はピンきりだが、Cartonの場合普通500枚近くある。

・最寄駅は、RERのB線、La Courneuve - Auberviller駅、徒歩3分。この駅はシャルルド・ゴール空港の空港駅からパリ市内までの中間にある。当駅のパリ側の駅前広場改札(ホームから階段を降りて左側)から出るともっとも行きやすい。
 この駅はいわゆる郊外に近く、上品なフランス人というよりも移民系の人たちでごった返しており、スリやカバンの強奪には気を付けた方がよい。知り合いというほどの知り合いではないが、とあるフランス人研究者(女性)は、二度ほどPCが入ったカバンを強奪されそうになったそうである。

・毎回必ずパスポート持参。

・食堂があるが外務省職員対象で、アーカイブ利用者は定食を頼むと外部料金が課せられ10ユーロくらいする(12時から13:45分まで)。それ以外に、コーヒー・ソフトドリンク、お菓子、サンドイッチの自販機が置かれているリラックスコーナーがある。一日滞在する場合は、市内でサンドイッチを買うか、自販機のものを購入するのがよいと思われる。

■一言
ケドルセにあったころは、一時間に一度の出入りで、注文したその日に文書が読めず、デジカメは禁止でコピーは一日4時間のみ、しかも一回に二人のみしか利用できず、席に限りがあるので昼過ぎに行くと入れなかったり、と、大変使い勝手の悪いアーカイブとして有名だった。しかし、自分はそこが初めてのアーカイブだったので、それを基準として他のアーカイブを見ることになった。だから、自分の場合、大抵のアーカイブは大変使い心地がよい。入る前にいつも一杯のエスプレッソを引っ掛けたGare des Invalides内のカフェや、狭いがゆえにいつも熱気あふれていた閲覧室や、何故かトイレから見えるエッフェル塔や、一日が終わって外に出ると見えたアレクサンドル三世橋の美しさなど、懐かしい思い出があふれている。

2011年2月21日月曜日

シャルルドゴール空港ターミナル2G

フランスの窓口、パリ郊外のシャルルド・ゴール空港(CDG)は、大きく分けてターミナルが二つあり、ターミナル1は日本で言えばANAが、ターミナル2にはJALが入っている。ターミナル1の方が古く、2の方が新しいばかりか近年2の中に次々と新しい小ターミナルを建築しており、AからGまである。このうち、2のFはエールフランスおよびコードシェア便が使用され、2のEはJALの羽田便が使用中のはず。
で、問題は2のGである。このターミナルは最近作られた、シェンゲン圏内専用ターミナルで、そのためパスポートコントールがなく使用する会社はすべて(たぶん)エールフランスの子会社のCity Jetの便である。エールフランスは、格安航空会社に対抗するためヨーロッパ圏内のチケットをかなり安く販売するようになった(ただし、値段の設定は取る日付や席数によってかなり変動があり、たとえばパリ=フィレンツェ間は一週間後の出発日の設定でエコノミーを変更不可で取れば往復税込200ユーロ程度で済むが、直前の日程だとこれが500ユーロくらいに跳ね上がる)。安く済ますための格安航空会社を子会社として独立させ、その専用ターミナルまで作ったのだ(たぶん)。それがターミナル2Gである。で、このターミナル2Gは、他のターミナルと比べて離れている。具体的には、歩いて移動する手段がない。他のターミナル2A~2FまでがRERの駅を中心に歩いて移動できる距離に作られているのに、シャトルバスでしか移動できない(それも、バスで7-8分かかる)距離に作られているので、個人的には、これはターミナル2ではなく第三ターミナル(追記:実際のところ、本物の第三ターミナルは存在するがそれは別物)とすべきではないかとさえ思う。

で、何を書きたいのかというと、RERもしくはバス等の公共交通機関を使ってパリから移動してきた人が、どうすればもっとも簡便にターミナル2Gに移動できるか、ということなのです。

なぜなら、ターミナル2Gは、他のターミナルから斯くも離れているために、移動が分かりにくいのです。なにより、ターミナル2の中を移動するナヴェットは2種類(N1とN2)あるのですが、そのうちN2しか2Gにはいかないのです。さらに、RERの駅を降りると2Gはあちら、という標識がありますが、それに従うと、実は大変遠回りするのです(私はその被害者)。

また、2Gのシェンゲン圏移動専用ターミナルという性格上、日本人が使用することはあまりなく、使用する人は、(今の自分と同じく)ヨーロッパ居住者ということになるでしょうが、何かの拍子にこのターミナルを使うことになったら大変戸惑うはずです。自分も、最初はどうすれば最善かわからずネットで検索してみましたが、あまり情報がなく、手探りで使っていくうちに、たぶんこれが最も簡便、というルートを確立したのです。

で、自分が考える最短ルートは、ターミナルEにあるナヴェット(シャトルバス)乗り場から乗るべし、というものです。RER利用でCDGに着いた場合、2Fと一緒に2Gはこちら、という標識がありますが、それを無視して2Eに向かいます。動く歩道沿いに2Eに着いたら、出発ロビーですが、建物の外に出ましょう。2G行きのN2のナヴェット乗り場があるはずです。ここでまつと、次が2Gなので、バスが来てから10程度で2Gにつきます。N2は2F→RER・TGV駅→その他のターミナル(A・D等)→2E→2G→2Fと言う風にぐるぐるとターミナル間を回っていくので、2Gに最短距離で着くことができます。
バス(ロワッシーバス、エールフランスLes Cars)の場合も、ターミナル2E・2F降り場で降車して、2Eに向かいましょう。

というわけで今日フィレンツェから2G経由で帰宅しました。ハプニングとしては、2Eの中を通ろうとすると、サブマシンガンを携えた軍人さんに、ここは入っちゃダメ、といきなり制止され、仕方がないから外に出てN2を待っていたら、バスが少し向こうに止まり、バスに向かおうとすると同じく、ベレー帽をかぶった軍人さんにサブマシンガンで制止されて、いやあのシャトルバスに乗りたいだけだ、と訴えると行かせてくれた。2Eはどうも爆発物らしいものでもあったのか、がらーんとして、一角に押し出された乗客が密集していた。空港利用のリスクを感じた瞬間だった。

(2月26日追記)
・シャルル・ド・ゴール空港のターミナル間の移動(ターミナル1からターミナル2)は無料のトラム(CDG-Val)が便利。CDG-VALに乗ってターミナル2まで移動した後、上記の方法で行くとよい。もちろん、CDG-VALのターミナル2駅のすぐ近くにもN2のバス停は存在する。
・このページの地図を見れば、いかにターミナル2Gが他のターミナルと比べて隔絶したところにあるのかが分かってもらえるのではないかと。
・ターミナル2Gは、フランス語発音だと「テルミナル・ドゥ・ジェ」てな感じ。

2011年2月20日日曜日

今はパリ

今はブリュッセルから南下してパリに。自宅があるので出張中、という感じではなくなる。
パリ滞在中はAN(CARAN)、外務省、社会党アーカイブに。後者二つについては、ほどなく手して利用感想(案内)を書く予定。

それにしても、パリ-ブリュッセル間は近い。TGVでわずか1時間20分で到着する。近いばかりか文化的にも近接しているのであんまり国を移動した感覚もない。でも、ブリュッセルの本屋では、「なぜベルギー人はフランス人にはなりたがらないのか」という本も売っていた。食指が動いたが、すでにかなりの本を買っていたので今回は控える。

で、それは大正解だった。ブリュッセル最終日は、地下鉄がストで全面ストップで、雨は降るし、本の重みで片手で持てないスーツケースを抱えながらタクシーを捕まえようとしたら、行き先を聞かれて、Midi駅まで、というと知らぬ顔してどっかに行かれるのが何度も。近すぎで乗せてくれないのだ。
アーカイブ終了から出発までかなり余裕も持ってチケットを取ったのに、そして実際4時間くらい間があったのに、タクシーを求めてその後はひたすら奔走して、結局Midi駅に着いたのは出発30分前。

それにしても、自分がブリュッセルを離れたら、その次の日?にはベルギー分裂反対のデモがあったり、自分がフィレンツェ不在時に長友がフィオレンティーナと対戦したりと(フィオのホームは我がアパートの隣)、ツキがない。

(2月20日に誤字脱字等修正)

EUIアーカイブ(EU歴史史料館)

アーカイブ名 Historical Archives of European Union
サイト http://www.eui.eu/Research/HistoricalArchivesOfEU/Index.aspx
開室時間 月~金 8:30-17:00(内昼休み=12:30~14:00までは史料の注文受付不可)
■住所 
Villa Il Poggiolo Piazza Edison 11 50133 Firenze
以前自分が書いた論稿の中で、このアーカイブ(HAEU)がある街をフィエゾレと書いたが、フィエゾレではありません。あれは間違いでした。この場をお借りして深くお詫び申し上げます。

■作業言語
アーカイブの中の人たちは英語が問題なく(ネイティブではない人が大半だが)出来る。フィレンツェに住んで働いている関係上、イタリア語もほとんど問題ない(イタリア人は多い)。フランス語が出来る人もかなり多い。

■アクセスおよびフィレンツェ内の移動
市内からはバス7番のPiazza Edisonで降車。降車後は、進行方向に向かって左手の横断歩道を渡って進行方向へ(ほんの少しだけ坂道)を歩くと、丘に続く道の付け根にあたる場所に大きな門が見える。標識も掛っている。門の中へ入ったら左手に階段が、右手に車道が続いています。車道を行くと回り道なので階段を上っていきましょう。藪の中を少し上ります。足場は悪く、初夏や夏場だと木や草がうっそうと茂っていて、どこの森に迷い込んだのかという錯覚に陥ることもある。

門からアーカイブまでにある藪
建物へはインターホンを鳴らさないと鍵が開かない仕組みになっています。インターホンは押すと誰かが必ず開けてくれます。扉をあけるとすぐに階段があるので、階段を上がりましょう。ロッカーがあるので、ロッカーに荷物を入れて、最低限の荷物だけ持って閲覧室へ入ります。
 7番のバスは市内のPiazza San Marcoから出ていますが、Via Marmoraに乗り場があり、多くの乗り場がある所ではないことに注意。
 バスのチケットは、バスの中で運転手から買うこともできるが、一回2ユーロと高いので、San Marco広場の自動販売機、フィレンツェのターミナル駅(サンタマリアノヴェッラ)構内のバス会社のチケット売り場、もしくは市内各所にあるTabacchi(タバコ屋というと語弊があるのでタバッキと記す)で購入できる。4回券もしくは10回券が便利。

 今の建物からは、2011年の夏以降に引き払い、もっと市内からのアクセスが悪い、しかし非常に立派な建物に引っ越す予定です。

■HAEUには何が所蔵されているのか。
HAEUの所蔵文書は大きく分けて三つの種類があります。
(1)第一にはECと呼ばれる、EU関係機関(前身を含む)の文書。これは、委員会文書(BAC、CEAB)、理事会文書(CM1、CM2、CM3)といったブリュッセルにある文書をマイクロ化して体系的に移送(Transfer)されるものにくわえ、AC(ECSCの総会)、AD(欧州政治共同体交渉時のアドホック議会)と言ったもの、さらに社会経済評議会等、EUの周辺機関の文書も所蔵しています。
大雑把にいって、このEC文書では、ブリュッセルに偏在している各文書を一か所に収集することでヨーロッパ統合史研究の利便を図る、という趣旨のもとで文書が収集されるようです。
(2)第二には、DEPと呼ばれる、ヨーロッパ統合に関係する個人の私蔵文書、機関の文書です。前者の個人文書は、たとえばヴェントテーネ宣言を執筆した一人スピネッリや、長年EECの事務局長を務めたノエルなどがあります。後者の例としては、有名ですが、OEEC(OECD)文書があります。
・個人的印象として、近年増加の一途をたどっているのがこのDEPのプライベート文書です。とにかく、統合に深くかかわった政治家・官僚が多く史料を寄贈しており、その多くは政府文書の30年ルールにかかわらず公開されているので、DEP文書をうまく活用すると、政府文書が公開されていない時期を研究することができる可能性があります。
(3)第三には、COLと呼ばれる、個人が収録した幅広い史料の公開およびEU加盟主要国(仏独伊)+アメリカ・ロシアの公文書館(国立文書館や外務省文書館)に収録されているヨーロッパ統合関係文書を大量に複製して所蔵しているものです。特に注目すべきは後者で、しかも年々所蔵史料を増やしております。代表的なのはフランスの史料で、AN(フォンテーヌブロー含む)のSGCICEE(ヨーロッパ経済問題のための省間会議)史料、仏外務省の経済局対外関係課(仏外務省で欧州統合問題を実質的に仕切っている部局)が年々公開しております。EUIに入っているものは、オリジナルなアーカイブでもマイクロで公開されておりますし、そのマイクロには、EUIのお金でマイクロ化されました、と丁寧に説明も入っております。
フランスはかなり協力的なのに比べると、イギリスは一切協力していません。アメリカのNARAでさえあるのに(しかもEUIのイントラネットでかなり史料を閲覧可能)。西独のは、PA/AAのシューマンプラン文書のみ。


■事前問い合わせ
一応ホームページでは事前の問い合わせをすること、と書いてあるが、このアーカイブでは必須ではない。でも、基本的な礼儀として事前に訪問日時、テーマをメールしておくとよい。
■文書の注文方法
カタログは、完全にオンライン化されている。関係する政治家や機関のカタログから探っていってもいいし、検索エンジンから調べてもよい。
・ひとつ注意してほしいのは、カタログが置いてあるページには、リンクをたどっていくタイプとPdfファイルとの二つがあるが、リンクをたどっていくタイプの方がアップデートされている。たとえばEmile NoelのFondsのPdfファイルのカタログはひとつ前のヴァージョンである。
・文書を注文する場合は、閲覧室の中に大量の紙が置いてあり、その紙に史料番号・注文日付・氏名を書いて受付に渡す。

■閲覧待ち時間・数量等
注文から持ってくるまで5分から10分程度。一回に手元に置けるのは3個まで。ただし、マイクロだと、いくつかの史料が連続しておさめられている場合が多い。

■複写
・紙史料の場合、複写は史料を指定して掛りの人にやってもらう。複写を申請するための特別なフォーミュラはない。
・複写できる枚数は細かく規定されている。COLおよびDEPの場合、それぞれのFondsで年間500枚まで。各国の外務省資料の場合はさらに枚数が低く設定されていることもある。共同体史料(EC)の場合は、複写枚数に制限はないがお金はかかる。
・ただしデジカメの場合どのように管理しているのかはよく分からない。なお、多くの史料はマイクロ化されている。マイクロ史料の場合は、その場で落としていって、帰るときに枚数を自己申告する。
複写料金は、一枚につき0,08ユーロ。100枚を超えるごとに清算。
・なお、閲覧室に備え付けの蔵書(下記参照)のコピーについても同様。この場合は、掛りの人にカードをもらって自分で複写する。枚数は終わった後に自己申告する。

■その他
閲覧室の上の階に、コーヒーとお菓子・ミネラルウォーターの自販機が置いてある部屋がある。冷蔵庫・電子レンジも完備。すこし休憩する際に有用。
お昼は、市内でサンドイッチ等を買ってきて食べるのでなければ、いったん建物の外に出る必要がある。Piazza EdisonにはOsteria(小レストラン)もあるし、Focaccariaも最近オープンした。個人的にお勧めなのは、Piazza Edisonから少し下ったPiazza San Gervasioの角にあるFocacciaria。小さな店だが、フォカッチャをその場で作ってくれたり、ピザの切り売り、簡単なパスタ、Primi Piatti(ソテーした肉と野菜などお摘み的食事)が食べられる。基本イタリア語。
時間に余裕があるなら、7番のバスに乗ってさらに丘の上に上がり、San Domenicoで降りてEUIのBadiaにある学食に行く、という選択もある。部外者であっても堂々と食べていいのではないかと思うがどうだろか。パスタ+小皿(サラダ、ヨーグルト、果物、デザートの中から二つ選択)で5ユーロちょっと、メインディッシュ(肉等)+パスタ+小皿(ひとつ)で7ユーロちょっと。

■個人的感想
もう少しで移動するが、個人的には思い出深い文書館である。最初に訪れたのは2001年の2月で、閲覧室の窓から見えるドゥオーモの美しさには溜息が出た。
10年前に比べると比べ物にならないくらい、個人文書が充実するようになった。カタログが出ているものは基本的に読めるので、文書によっては1980年代や90年代の史料も閲覧可能である。まずサイトのサーチエンジンでいろんなキーワード検索をして関連文書を調べて、閲覧史料にあたりを付けておきたい。なお、キーワードは、英語よりもフランス語やドイツ語、イタリア語などいろいろ変化させて調べることがコツである。基本的にイギリスが参入する70年代以前、英語の史料はイギリス関連資料以外では皆無と言ってよい。イギリスがECに参加しても、共同体の多くの官僚は大陸系の人間であるため、内部資料が英語で作成されるのは80年代を待たないといけない。

BACやCM2などは、時間と金銭的余裕が許されるのであれば、ブリュッセルのコミッションアーカイブとカウンシルアーカイブに行くことをお勧めする。フィレンツェにあるのは部分的なものだからだ。
それに、どちらの資料館も複写料金はかからない(タダ)し、設備も新しい。残念ながら、フィレンツェのアーカイブのマイクロリーダーは古くて複写の性能はよくない。
多くの閲覧者はマイクロをデジカメで撮っているが、個人的には私はお勧めしない。理由は、あとで読むのが本当に大変だからである。いくら一年に一回しか来れないとしても、正直、後でPC上で読もうとしてくじけそうになったのは一度や二度では済まない。しかし、デジカメに取らなければ仕事にならないのもまた事実である。

閲覧室は、統合史関連の専門書・回顧録等を配架した本棚に囲まれている。その意味で、ここの閲覧室は統合史専門のミニ図書室ですらある。少し疲れたら、書棚を眺めるだけでいろんな発見があり、これがまた至福の瞬間でもある。
閲覧室を外から眺める

2011年2月15日火曜日

ベルギーの閣議議事録がオンラインで読める

知らなかった。すごいな…。世の中本当に知らないことだらけだ(ちょっと意味が違うかな、でも自分に限っては一事が万事そんな感じだ)。

http://extranet.arch.be/lang_pvminister.html

今回は、本当はLouvain-La-Neuveのアーカイブに行く予定だったのが、必要書類が出発までに間に合わなくて保険でかけていたEU委員会の方に行ったので、ほどなくしてまた再挑戦の予定。

2011年2月14日月曜日

EU委員会歴史文書館利用案内

というわけで、ブリュッセル訪問の目的である、EU委員会のアーカイブの利用案内について書いてみようと思う。

名前 European Commission Historical Archives (ECHA)
サイト http://ec.europa.eu/historical_archives/index_en.htm
住所 Rue Van Maerlant, 18 (VM18) - 1040 - Bruxels, Belgium
    最寄りの地下鉄:Maelbeek駅徒歩3分
開室時間 月~木:9:00-17:00
       金  :9:00-16:00
(途中、12:30-14:00の間は昼休みだが閲覧室が閉まる訳ではない)
その他、閲覧室に関する諸情報はこちらのページ参照。

■アーカイブの性質
このアーカイブは、ECSCの最高機関(Haute Autorité)、Euratomの委員会、EEC以降の委員会(Commission)に関する(正確には、これらの機関に残された)史料を整理・編纂・公開している。史料の整理の仕方は、ECSCの最高機関文書はCEAB、EEC/EURATOM/ECの委員会はBACという大分類で統一され、その下には、管轄する局(EEC以降は総局DG)および官房(現在は60年代マンスホルト=農業とMarjolin=財政通貨)文書ごとに大番号、その下に時代や文書の種類等によって小番号、そして文書史料番号、という三段階式の整理となっている。たとえば、BAC 26/1960 No.35、という風である。小番号はしばしば1950台~1970台のことがあるが、これは年代を意味する訳ではない。
ECHAが所蔵している史料は、データベース上でオンラインで検索できる。このシステムはARCHIplusと呼ばれる。

■事前問い合わせ
ECHAを訪問する場合、事前の問い合わせは必須である。これには二つの理由がある。
まず、ECHAは、閲覧室のある建物にすべての史料を置いている訳ではない。多くの史料はマイクロ化されているが、それでも紙媒体の史料は数多く存在しており、そのような紙史料の大半はブリュッセル郊外の倉庫に保管されている。そこからの移動には最低でも2日ほどかかるので、現地に着いてからあれもこれも、と注文していたのでは時間が足りなくなってしまう(もっともアーカイブは親切なので、時間の許す限り閲覧者側の注文を最大限実現しようとしてくれる)。
第二の理由は、このアーカイブは、所蔵する史料カタログをオンライン検索できるようにしているが、これはすべてではない。自分のテーマをアーカイブに連絡すれば、オンライン検索に引っかからない史料まですべてそろえてくれる。しかも、その量は尋常ではない。
メールのやり取りなども含め、どんなに遅くとも、2週間前には問い合わせが必要である。可能なら、一か月前が望ましい(これはどのアーカイブについても言える)。

■アクセス
最寄りの駅MaalbeekのEtterbeek方面の出口を出て右に曲がると、下り坂の向こうに教会らしき建物があることにすぐ気付く。この教会が閲覧室が入っている建物の一部となっており、教会目指して歩いていく。
アーカイブの入った建物

閲覧室は、数多く存在するコミッションの建物の一角を占めており、それゆえ、建物に入る際、セキュリティーチェックがある。空港ほど厳密ではない。パスポート必須。建物の入口に警備員がいるので、アーカイブに用事がある(J'ai rendez-vous avec les Archives)と言えばセキュリティーチェックを受ける。閲覧室へは、職員が誰か迎えに来てくれるので、その人についていく。ロッカーは閲覧室の手前にあるが、貴重品を置いておきたい、というのでなければ、別に預けなくてもよい(荷物をそのまま持って入ってよい)。

■史料の注文
事前に問い合わせをして向こうが用意した史料を全部読んでしまった、もしくは空けてみてあんまり関係がなく、もっと別の史料が読みたい、ということであれば、ARCHIplusで再検索するか、アーキビストに相談する。ARCHIplusに引っかかる史料は、多くはマイクロになっているが、マイクロの場合は閲覧室に置いてあるので、すぐに出してくれる。紙史料の場合、前述の通り、もし郊外の倉庫に置いてある場合は、しばらく(二日ほど)待たなければならない。

■史料の複写
ECHAでは複写は完全自由かつ完全無料である。無料とは、備え付けのマイクロから紙に落としても、PDFにも落とせるが、どちらも無料であるし、コピー機が一台あるのだが、それも自由に使える。もちろんデジカメもOKである。

■ブリュッセルへの/内の移動
・実は自分はブリュッセルへは他のヨーロッパからの移動で来ることがもっぱらなため、ブリュッセル空港から市内に移動したことは一度しかない。空港から市内の主要駅には直通列車があるが、チケットの窓口が閉まっていたのに、チケットの自販機は国内銀行の口座引き落とししか使えず(大陸ヨーロッパではよくある)、仕方がないので車掌から買おうと思ってそのまま乗ったら、案の定車掌が回ってきて乗客はみんな車掌から買っていた。しかし、電車のチケットを車掌から帰るかどうかは各国で異なり、載った時点でチケットを買っていないことが分かったら300ユーロほどの罰金を取られることもよくある。そのあたり、ベルギーは緩いのかもしれない。
・国際列車のターミナルはBruxelles Midi(南駅)だが、Midi周辺はあまり治安がよろしくない。安い宿もあるのだが、同じ安さであるなら他の地区の方がよいと思う。女性であればなおさらである。
・国際列車のターミナルではないが、中央駅(Bruxelles Central)の方が、街の中心に位置し、何かと便利である。
・ブリュッセル市内の移動は、バスか地下鉄かトラムであり、チケットは共通である。回数券も打っているが、ここにもスイカ的非接触型カードが使われ始めている。しかもそっちの方が安い。ブリュッセルには一週間いたことがないので週間券を買ったことがない。大体10回券(回数券)を使用。
・ブリュッセルはビジネス客が多いためか、あまり安いホテルがない。安いところは質もよくない。ここら辺は悩みどころである。
・食事はアーカイブ調査の際の大きな悩みの一つで、自分は胃腸にやさしい中華・アジア系を食べることが多いのだが、たぶん一番簡単な中華は、ブリュッセルの新宿にして渋谷のRogierにあるCity2の一番下の階にあるMikiか。アーカイブが終わってFnacに寄り、Carrefourで買い物をしてここで食べる、というのが定番のパターン。味は大変おいしくない。
逆に、(相対的に)おいしい中華と言えば、Palais du Jusiticeのそばにある公共エレベーターをおりて少し歩いたところのHoogstraatにあるPlaisirs d'Orientが現在のところ自分の中で高い位置を占める。
・ブリュッセル出身の友人の家族にブリュッセルでおいしいレストランと言えばどこかと聞いたところ、やはりAux Armes de Bruxellesだ、ということだった。しかし、敷居が高そうでまだ行ったことがない。

■その他
・建物内には、地上階にカフェテリアがある。しかし、ここにはサンドイッチ、果物(リンゴ・バナナ)、パン(クロワッサン等)、ヨーグルト、スナック菓子およびコーヒー&ソフトドリンクくらいしか置いてない。さらに、15:00を過ぎると閉まってしまう(正確には、隣にある教会らしき建物は実際教会であり、その教会に入っているアソシアシオンが使用することになるらしい)。それ以外には、地下2階に、コーヒー等の自販機がある。
・自分が最初のこのアーカイブを使った時はTrone駅すぐそばのMeeus広場に面していた建物にあり、その後シューマン広場(有名なEU委員会のもっとも主要なかつ最大の建物があるところ)に面した建物に移った。どちらも、専用の閲覧室を持たない、オフィスに間借りしたものだったが、アーカイブが閉まる時間になっても、アーキビストの人が「もう自分は帰るけどあんたは好きな時間に帰っていいよ=いつまでもいていいよ」と言ってくれるおおらかな時代だった。今の閲覧室は大変立派だが、閉まる時間には閉まってしまう。それが何ともさみしく感じる。
・この閲覧室のすぐそば(走って一分)に、理事会(Coucil)のアーカイブの閲覧室がある。こちらには、カフェテリアとは名を打ってはいるがそれなりに立派な食事が食べられる(日替わりパスタ、スープ等)食堂が使える。なので、短期で来る場合、朝は理事会アーカイブに行って、お昼を食べてから委員会アーカイブに行く、というのが鉄板となっている。
アーカイブの入った建物正面。入り口は左側(教会の下ではなく)から。

上記写真を取った地点から、くるっと右を向くとこんな感じ。この巨大な建物が理事会本部(Consilium)である。廊下すべてを使ってフルマラソンが出来る(理事会のアーキビスト談)。

ベルギー雑感

昨日ハーグからブリュッセルに移動。ハーグからくると、町並みのゴチャゴチャ感に、ラテン語圏に戻ってしまった(と言ってもブリュッセルはオランダ語圏に浮かぶ飛び地なのだけれど)という感じになる。
ブリュッセルは、日本だとアールヌーボーの街として有名なのかもしれないけれど、実際に街を歩いてみると、いろんな建築様式がごちゃまぜになっており、あんまり統一感がないように感じる。グランプラスはきれいなのだけれど、きれいな町並みはごく一部に限られ、あと猥雑でありかつ薄暗い。

そうは言っても美しいグランプラスの夜景

今書いている日本語論文の関係で50年代のベルギー外交について調べているが、ベルギーというのは矛盾に満ちた国で、外交だけとっても、スパークだけに還元できない、非常に入り組んだ国内構造が実は外交にも反映されていることに、ようやくのことながら気付いた。いや、ベルギーはその歴史的背景と地政学的な構造から、誰が政策を担うことになっても、あまり外交の基本方針は変わらない、と思っていたのだけれど、そして確かにそれはある程度そうなのかも知れないけれど、実はやはり国内の多様性は外交に複雑なあやを持ち込まざるを得なくした。

ベルギーのヨーロッパ統合史研究は、Louvain-La-Neuveを中核として非常にアクティブだが、やはり、この大学がフランデル圏に統合・共存出来なかったフランス語圏大学というアイデンティティを持っていることを忘れてはならないと思う。ヨーロッパという足場がなければ、彼らはフランデルの中に埋没してしまう運命にあり、それゆえ、彼らの描く統合史には、国内的なあやというものは極小化される(まったく捨象される、とは言わないが)傾向にあるように、今更ながら感じるのである。あと、彼らが取り上げるベルギー人は基本的にワロニーである。Camille Guttのようなうまくハマらない人は取り上げないし(Guttはベルギーのベイエンのような人だがベイエンにはなれなかった)、ティンデマンスが活躍する70年代以降はどうするんだろう。

といいつつ、ベルギーとヨーロッパ関係だとほとんど彼らしか書く人いないので、ブリュッセルの本屋に行ったら、見つけた新刊を買ってしまった。
Vincent Dujardin & Michel Dumoulin, Jean-Charles Snoy. Homme dans la Cite, artisan de l'Europe 1907-1991, Le CRI, 2009
そして、Fracではティンデマンスの1980年代の首相期の回顧録を購入。
Leo Tindemans, Een politiek testament, Lannoo, 2009.

ところで、グランプラスの北側の裏に、非常に近代的な趣の入口の建物があり、一体なんだろうなあとのぞいたら、フランドル地方の観光案内所だった。全く気のせいかもしれないが、二年前に来た時よりも、オランダ語だけの広告が増えたように思う。昨日のオランダ語ニュースではVlaams Belang(フランデル地方の独立を主張する極右政党)のニュースがエジプト情勢より先だった。それにしても、オランダ語だったのでよく分からなかったのだが、ニュースの内容はVlaams Belang所属の女性政治家が亡くなった記念日だったようなのだが、ニュースの中心にいた女性政治家がいったい誰なのかが分からない。書店に行くと、ベルギー後のベルギー(つまり今のような連邦制ベルギーが解体したあとベルギーはどうなるか)と言った本が珍しくなくて、とりあえず次の本を買って読んでみた。
Michel Quevir, Flandre - Wallonie, Quelle soridarite?, Couleur Livre, 2010
ざっとしか読んでいないが、既に定年退職した社会学者が書いたものなのだが、フランドルの経済発展は歴史的に見ればフランドルが貧しかった19世紀から20世紀前半にかけての投資(鉄道網・港湾施設)に大きく負っているばかりか、戦後だけみても連邦政府からより多くの補助金をもらっているし、ワロン地方の経済発展率はEUの諸地域と比較すれば平均以上であるという。
それで一体どうやってフランドルとワロン間の連帯を確保するのかと言えば、よく分からないというか、フランドルの愛国心はベルギー独立時からあったことや、現在フランドルがワロンに対して行っている言動は社会学で言うところの「スティグマ化」そのものであることを理解すること、といった風に、歴史と現実とヨーロッパの他の地域の現状を直視すれば、この両者が過度にいがみ合う必要はない、と言っている以上のものではないようである(ざっとしか読んでいないので)。あと、ワロニーがもっとフランドルの言語と文化を知悉するように、と書いてあるので、読者がフランス語話者であることを想定すれば、一番妥当な提案なのかも知れない。

フランドル観光案内所

2011年2月13日日曜日

テレビ見てたら

こっちの夜のサッカーニュースで、フェイエノールトの宮市がゴールしたとのことだが、夕方にコーヒーを飲んだカフェに置いてあった地元紙には、宮市が地元デビューを飾るが、かれはメッシではなく○○(覚えていないがあまりたいしたことない選手みたい)にすぎないという記事が載っていた。でも、ニュースでは監督と活躍した選手しか写さないインタビューも映していたので、注目度はかなり高いし、キャスターも好意的な話し方をしていた(と思う。正確には聞き取れない)。

日本関係でいえば、昼過ぎに時間が出来たのでマウリッツハイス美術館に行った。大変よかったのだが、日本語のオーディオガイドはあるのにフランス語のがなく、自分の後に来たフランス人が憤慨していた。ただ、日本語で解説していある絵画は限りがあり、結局英語も借りてみてみた。
英語の解説を聞いていたら、ルーベンスはイタリアに渡って、カラバッジョから光と影の強いコントラストを学び、それがフランドル派(アントワープ派?)に伝わっていったという。17世紀のオランダ・フランドル絵画はカラヴァジェスキだったのか!

マウリッツハイスの外観

上の写真の反対側はビネンホーフの池。池に面しているのは国会でその奥(中央)にある白い壁の建物がマウリッツハイス

2011年2月12日土曜日

Max Kohnstammの個人文書

開いていたのか。知らなかった。2010年の更新とあるから昨年なんだね。近くに来てまで見れないとは…。でも、カタログを見る限りは、どうなのかな。やはりモネへの接近としてみる分にはいいかも知れないけど、という感じだろうか。EUIに彼の日記の完全コピーはあるし。

http://www.iisg.nl/archives/en/files/k/11074515.php

2011年2月11日金曜日

オランダ国立文書館利用感想

これでもう3度目の利用ですが、オランダ国立文書館を利用したので、その利用の仕方、感想などを書いてみます。と言っても、自分はオランダ史が専門でもないし、オランダ語はからっきしだが、ヨーロッパのマルチラテラルな交渉でオランダは独特の存在感を誇るので、そのようなマルチな視点からオランダに接近する人が増えれば、と思って書いております。
(2月13日表現等、変更及び追加:特に開室時間)

アーカイブ名 Nationaal Archief 
(以下の記述では当文書館を便宜上旧名の略称であるARA=Algemeen Rijkarchiefと書きます)
ホームページ http://www.nationaalarchief.nl/
住所 Prins Willem Alexanderhof 20, Den Haag
           ハーグ中央駅(Den Haag Centraal)から徒歩1分

アーカイブの正面から。本当にすぐ隣。
開室時間 水~金 10:00~17:00
       火 10:00~21:00
       土 隔週で10:00~16:00
       日・月は閉館
どの土曜日が空いているか、またその他の利用規則・詳しい地図については、こちらのページ参照


利用方法
・日本から短期で訪れる場合、以下の手順で行うともっとも効率的と思われる。
まず、ホームページ上のサーチエンジンから調べたい検索用語を入れて調べると、ARAに所蔵されている文書のカタログにどれくらいヒットしているかが詮索結果で出てくる。その結果を丹念に見ていくと、自分に関係ある史料をピックアップできる。
また、ARAの大きな特徴として、文書カタログがすべてデジタル化されており、ウェブ上ですべてのカタログを閲覧できる。ARAにはオランダの全省庁および主要な政治家の私文書が所属されているので、関係ある省庁および関係する局の名前を入れていくとそのカタログが閲覧できる。PDFにもなっているので、自分のPCにダウンロードしてカタログ内で検索をかけることもできる。
たとえば、ごく最近ついにARAに移管された外務省文書であれば、Ministeir van Buitenlands Zakenと打ち込めば、 46219件のToon resultaten in de archiefbeschrijvingenをクリックすると、外務省の史料のカタログ記述のどこにヒットしているかが分かるので、そこからたどっていくと、外務省史料のカタログに行きあたることができる。
・その他、先行研究から史料番号等をピックアップして、とりあえず閲覧したい史料番号を整理する。
史料は予約できる。訪問の二日前まで受け付けとのことなので、日本から行く場合は、前もって一週間ほど前には問い合わせした方がよいだろう。だが、その場で注文しても、大体30分もかからず出てくる。

■文書館に着いたら
・まず入り口を入ったところの受付で利用者カードを作ってもらう。無料。たぶん住所やらを記入するフォーミュラをくれるので、それに書き込めばOK。この登録時の初回だけ身分証が必要なのでパスポートを持っていく。利用者カードが出来ると、それとは別に、やや分厚いプラスチックのID証みたいものをくれる。このID証は閲覧室の扉の開け閉めに使用するのと、そこに書かれている三ケタの番号(Tafelnummer=テーブル番号)が史料注文に不可欠となる。
・なお、Tafelnummerと言っても、実際にテーブルに番号が貼っている訳ではなく、席はどこに座ってもよい。
・荷物はロッカーに。ペンは持ち込み禁止。ノート類は入る時も出る時もチェックされる(TNA、CARAN同様)。違う点は。ARAには大量の鉛筆が閲覧室に装備されているので、鉛筆を持っていかなくてもOKな点である。
・Tafelnummerが書いていあるID証は、閲覧室の扉の開け閉めに必要なので、みんな首から下げている。なお、トイレは閲覧室の外、ロッカーのあるところの地下にある。

■史料の注文
・史料の注文は閲覧室内のPCを使って行う。この際、ToegangnummerとInventrienummerの二つが必要なので気を付けること。Toegangnummerとは大分類のための番号。Inventrienummerが史料の実際の番号である。
 ARAの一つの特徴として、同じ省庁であっても、局や年代によって違うToegangnummerを割り当てることで、異なるアーカイブとみなしていることである。たとえば、外務省文書の場合、1945-1954年代の史料には2.05.117というToegangnummerを、1955-1964年代の史料には2.05.118を割り当てている。農業省であれば局ごとに異なるToegangnummerが割り当てられており、史料の整理の仕方が省庁ごとで異なるのが興味深い。
・注文画面では、自分のTafelnummerを入れる欄があり、閲覧日時、Toegangnummer、Inventrienummerを打ち込んでいく。
・なお、注文の際、数に制限なし。

■史料の閲覧
・自分が注文する史料が読めるようになったら、閲覧室の中の電光掲示板に自分のTafelnummerが表示される。この電光掲示板は、閲覧室の外のコーヒー自販機等が置いてあるリラックスコーナーにもあるので、コーヒーを飲みながらでもチェック可能。個人的印象としては20分程度で閲覧可能に。
・表示が出たら文書受付のところへ行って自分のTafelnummerを言うと、文書を持ってきてくれる。一度に机に持っていけるのは、ボックスで三つまで。基本的に、史料はいくつかの文書と一緒に一つのボックスに入れられている。そのため。連続するInventrienummerの史料を注文しても一つのボックスに収まっていることは、ままある。
・そのために、手元における史料の数は結構多い。

■史料のキープ
・史料をキープする場合、受付に戻すときに、置いてあるA5くらいの紙にいつ次読むか、という日時を記入する。

■デジカメ
・TNAと同じく、デジカメは完全にOK。これはここ1・2年に規則が変わったとのこと。

■その他
・コーヒーの自販機含むリラックスコーナーがあるのだが、今回訪問した時、なぜかその場に、閲覧室利用者のための無料コーヒーがサーブできるようになっていた。味はいたって普通だったので、たぶん職員の誰かの厚意なのかと思うが詳細は不明。
・隣接する王立図書館と共同の、同じ建物の中にある(ただし閲覧室からみると道の向こう側にある)レストランが利用可能。ただし、中央駅から徒歩1分なので、駅の中には、売店・スーパー・スナックスタンド・ファーストフード等、食べるチョイスは豊富にある。
・王立図書館と建物がつながっているのだが、王立図書館側には、カフェテリアっぽいところもあり、そこではお菓子やコーヒーも売っている。

■ハーグにはどうやっていくのか
・下記の移動の記録にもあるが、スキポール空港から、Den Haag Centraal直通の快速が30分に一本はあります。所要時間は30分未満。ハーグのもう一つの主要駅Den Haag HSにはもっと本数がある。HS駅に着いた場合、Centraal行きの電車に乗り換えるか、トラムでCentraal行きの17番に乗れば移動できる。
・電車のチケットは、普通のオランダ人は自販機で購入するが、コインかオランダの国内銀行からの引き落とししか使えないのが多い。空港にはクレジットで購入するタイプもあるが、1ユーロの手数料が余計にかかる。
・トラムは、以前は回数券(Strippenkaart:スゥトリッペンカールト)がHTM(トラムの運行会社)窓口で買えたが、今は買えなくなり、スイカみたいな非接触型カードのみが販売。

■ハーグで何を食べるか
オランダ料理はおいしくないらしいので、安くて満足なものを食べたいなら、中華かエスニック系がよい。中華は、Wagenstr.沿いにいくつかあるし、GrotemarketとSt. Jakobstr.の間にある道にも、テイクアウトもできる中華のお店がある。また、かつての植民地の名残で、インドネシア料理に加え、日本ではなじみのないスリナム料理の店も珍しくない。スリナム料理はインド系に近く(というか、スリナム自体が半分は印僑で出来ている国)ちょっとスパイシーだが結構おいしい。

■ホテル
ハーグのホテルの数は少ないので、安いホテルは限られている。しかし、オランダの場合、幹線鉄道が非常にしっかりしているので、ライデンなどにホテルを取るのも一策。
■感想
・自分が利用したアーカイブは大小含めて16ほどだが、その中では一番使いやすい。個人的にはTNAよりも上。確かにTNAのカフェテリアと書店は魅力的だが、アーカイブとしての使いやすさではこちらに軍配が上がると思う。自分にもっとオランダ語能力があれば…

アーカイブ正面

ハーグへ

木曜日からオランダ国立文書館(Nationaal Archief)を訪問するために、ハーグに移動。ハーグは、なんだかんだとこれで実に四度目なので、街の方向感覚などは問題ないし、だいたいどこにどんなお店があるかも把握しているし、なによりハーグは非常にきれいでかつコンパクトな街なので何かと楽に過ごせている。

以下移動の記録
木曜日は朝7時15分発で6時45分にチェックイン締め切りなので、タクシーでないと間に合わないと思い、前日家賃を払いに行ったときに階下の大家とロベルトの奥さんに相談したら、家から電話したらいいしロベルト電話してくれるよ、と言ってくれる。それで木曜になんとか5時40分に起きて10分で支度して6時前に荷物を出していたらちゃんとロベルトが部屋から出てきてくれて大家さんの電話使ってタクシーを呼んでくれた。ロベルト親切すぎる。タクシーは5分で来て、ものすごいスピードで空港へ。たぶん10分もかからないで到着。Quale veloce!と言ったら運転手笑ってくれる。飛行機はパリ経由でスキポールへ。スキポールからハーグへは快速列車で30分弱。文書館はハーグ中央駅(Den Haag Centraal)の真横なので、文書館に着いたのは1時45分くらいか。
 しかし、文書館についてから、デジカメの予備バッテリーとバッテリーチャージャーを家に忘れたことに気づき呆然。電池は文書館が閉まる30分前くらいには切れてしまい、予定が狂う。ホテルにチェックインしてから近くにデジカメを売っているところはないかと聞くと、Media Marketというお店がBiggest and Cheapestということなので、そこに行ってみると、なんと予備のバッテリーそのものが売っている。店員さんに聞いてみると、チャージャーもあった。オランダすばらしい。
ホテルとアーカイブの間にあった教会

2011年2月4日金曜日

Sui Generisとしてのヨーロッパ共同体

ヨーロッパ統合によって生み出されたEUという政治経済共同体は、その法的・政治的性格が歴史に例を見ない、それ独自の政体という意味でしばしばSui Generisという形容詞が付けられる。そういう風に自分もかつて講義したこともある。政府間の合意だけで動いている組織ではないし、だからと言って、一個の主権的共同体でもない、その中間的というか融合的な共同体としてしか説明できない、という意味で、EUはSui Generisだ、と。

それ自体が固有の政体、という説明では説明になっていない、という批判も聞かれるのだが、一体このSui Genersiという形容詞は、誰が最初に使いだしたのだろうか。誰かご存知の方がいれば是非教えてほしい。いや、教えてください。

というのも、今週、日本語で書いている論文(コミトロジー史ではないテーマ)に関係する史料(1950年代)を読んでいたら、史料の中にSui Generisという用語が出てきたからだ。しかも、その意味は上記のような意味とはやや違う。全く違う訳ではなく、エッセンスとしては同じだとおもう、しかし、それによって何を説明しようとしているかどうかがだいぶ違う。その違いがとても興味深い。

元EU官僚にインタビューする

フィレンツェにもどって一週間立ったわけですが、1月以降の学期はセミナーを取らないことにしたので(というか、正直取りたいテーマのセミナーがない)、毎日自分の研究に時間を当てています。図書館に行って論文を読んだり、これまで集めた史料を読み込んだり、アーカイブに行って必要な史料がないかどうか調べたり…。基本、孤独な作業ですので、あまり変化はありません。

が、今日は初めてEUのコミッションに30年務めたというEU官僚の方にインタビュー。これまでに触れた、同じVillaに研究室を持ちEU Fellowの方です。11月のセミナー発表が終わってから、話を聞かせてもらう約束はしていたのですが、お互いの予定がうまく合わず(もう還暦を超えてるっていうのにヨーロッパ各地のEU関連のショートセミナーを飛びまわっているとのこと)、やっと今日話が聞けました。

EUIに提出する予定のWorking Paperのテーマは、これまでちょこちょと史料を調べている訳ですが、どうにも論文としてまとめるには難しい。史料も、どう読み取っていいのか分からないくらい技術的に細かい話ばかり。正直言ってこのテーマ設定は失敗だったか、と思っていたのですが。。

今日話を聞いたイタリア人のPonzanoさんは、コミトロジーに関する実務的論文を何本も書いており、コミトロジーに関する仕事をしていたと聞いていたので、どのようなコミトロジー委員会に居たのか、と聞いてみたところ、具体的な委員会に属していたのではなく、コミッションのSecretariat Generalの中のCOREPERと委員会との調整に当たる課にいたという。つまり、自分が取り上げるコミトロジー手続きのど真ん中にいた訳です。しかも、退職する前の10年間近くはこの課の課長だった、と。これには驚愕。どうりでコミトロジーに関連する論文をいっぱい書いている訳です。
その後、彼が考えるコミトロジー手続きの発展と、その時期における特徴を一時間にわたってレクチャーしてもらう。彼は英語よりもフランス語の方が楽にしゃべれるということなので、こちらもフランス語で質問したり、しかしよく分からないところは英語でも確認したり。
最終的に、自分が論文を書く際に、どのポイントを明確にしていけばよいのか、かなりのヒントをもらうことができた。もちろん、今のアイディアはまだ彼の主張が色濃く反映されているし、こちらが考える歴史研究としての文脈への接合もしなければならない。でも、いずれにせよ、非常に充実したインタビューだった。それ自体がオーラルで使える訳ではなかったのだが…。と考えると、このテーマに関する自分の理解はまだまだなのかもしれない。

インタビューが終わってから同じVillaのフェローたちとお昼を食べに。そこに、Ponzanoさんを紹介してくれたスペイン人の例のフェローも来ていて、さっきのインタビューのことをしゃべったら、向こうも喜んでくれた。3月の頭にブリュッセルに戻ってしまうらしいが、なんというか、こういう人と人とのつながりは大事にしなければなあ、とつくづく実感した。それと、Ponzanoさんには、他にこのテーマに詳しい人を紹介してほしいとお願いしたので、うまくインタビューが続くとよいのだが。。。

さて、お昼から戻って早速テープ起こしを始めたが、フランス語ということもあって、4時間かかっても10分も進まない。しかも、向こうもネイティブではないから、文字に起こすとどうも意味不明な(というか聞き取れない)フレーズが連発である。インタビュー時間は一時間強なので、この調子だと一週間はかかるかな。

2011年1月30日日曜日

フランス国立文書館(CARAN)の利用法

考えてみれば、CARANの利用方法についてまず書かないと、先に書いたフォンテーヌブローの利用方法を書いても意味がないので、CARANの利用方法について書いてみます。と言っても、今フィレンツェというのもあるし、ここ最近はCARANに行っていないので、細かい利用方法は忘れていますが…。(2月1日にもろもろ修正)

アーカイブ名称 Archives nationales LE CARAN - Centre d'accueil et de recherche des Archives nationales
住所 11, rue des Quatre Fils, 75003 Paris
*パリの地図を買うと、マレ地区のある3区に大きくArchives nationalesとあるが、これはCARANとSoubise館(歴史博物館)を会わせた全体であること、Soubise館とCARANとは入口が違い、ここの地図にあるように、上記住所のようにrue des Quatre Filsの入口から入ること。

開室時間:9時~16時45分(新しい史料の閲覧は16時20分ごろを過ぎると出来なくなります)。
      月曜~土曜

■そもそもCARANとは何なのか?
私はピュアなフランス史研究者ではないので理解に至らないところがあると思いますが、自分の理解では、仏国立文書館の「パリ館」に保存されている史料を閲覧するための場所(組織と施設)をCARANと言います。

■登録
CARANの史料を閲覧するためには登録する必要があります(しかも有料)。今はオンラインでの仮登録もできます。仮登録すれば、史料の注文を予約しておくことができ、短期訪問の際時間を節約できます(逆に言うと登録しないと史料を予約も閲覧もできない)。
仮登録していても、現地に行ったら本登録してカードを発行してもらわないといけません(カードがないと閲覧室に入れない)。閲覧室は、CARANの建物に入ったら奥にある、ガラスの仕切りの向こうの部屋です。
登録に必要なのは身分証明書(パスポート)のみ。事前に書類等を用意する必要はありません。

■目録室から閲覧室へ
CARANの建物は、地上階が受付・登録室・自販機(リラックスコーナー)・ロッカー・トイレ、一階が目録室、二階が閲覧室(Salle de lecture)、三階がマイクロ閲覧室です。
登録が済んだら、閲覧室で史料番号を調べます。史料番号をリストアップしたら、二階の閲覧室に行き、文書を注文します。
・閲覧室には、ボールペンを持ち込んではいけません。メモをとる場合は鉛筆で。ボールペンを持ち込もうとすると必ず注意されます。
・なんですが、閲覧室の席は指定制です。席の札をもらうためには、入って右側の受付窓口(Gichet)に行って、席をください、というと席の札(Plaque)をもらえます。
・席には通常の文書を閲覧する普通の席と、公開が見合わされている文書を閲覧する人の席とに分かれています。通常の席ではデジカメOKで、特に断りなくデジカメをとって構いません。これに対して、公開見合わせ文書閲覧の席は、赤の印がついており、ここではデジカメは不可です。
・席をもらったら、入口正面奥の注文用PCが並んでいる小部屋のPCから注文します。このPCの操作がまた分かりにくいです。まずカードリーダーに閲覧者カードを差し込みますが、すぐに出てきます。この出てきたカードを抜いては行けません。出てきたままの状態にしたままでPCを操作します。
最初はマウスを使いますが、文書番号を打ち込む画面になると、文書番号(その書き方も作法があり、その作法に則らないと注文を受け付けません)を書いて以降はコマンド操作よろしく、マウス操作ではなくキーボード操作でしか先に進めなくなります。このあたりの操作の分かりにくさは実に戸惑います。

■注文数
一回に注文できる数は3つまでのはずで、最大6個の文書を手元に確保できるはずです(記憶があいまいですいません)。
注文してから出てくるまで、大体2時間くらい。ころ合いを見計らってGichetに確認しに行きます。GichetにはPCで注文していた文書を管理するバーコード付きの紙(これをCARAN用語でTALONと言う)があり、閲覧者カードを見せると掛りの人は(たぶんぞんざいに)自分が注文した分のTALONを渡してくれます。その中から読みたい文書のTALONを渡すと、その文書を持ってきてくれます。

■取り置きと終了
文書の閲覧が終わり、もうこのCartonは見ないのであれば、GichetにC'est finiとか言って渡せばOK。まだ終わっていないけど、次のCartonを見たいのなら、Gichetの横に置いてあるProlonger用の棚において、これは延長します、とか言って次に読みたい史料のTALONを渡す。

■APシリーズとDérogation
フランスも史料の公開は基本的に30年ルールですが、現代史研究ではしばしば使われる個人文書シリーズ(AP)の公開は、基本的に60年です。ただし、目録を見ると、このCartonは何年ルールか、というのがリストで載っています。載っていなければ、それがLibrement communicable(特別な閲覧申請が不要で自由に閲覧可能:以下便宜的にLCと記載)かどうかは、都度都度アーキビストに確認する必要があります。
第四共和政のメジャーな政治家のAP文書の中には、少なくとも10年前は60年ルールだったのに、今はLCになっているものもあります(たとえばビドー文書の一部)。

では、60年ルールで自由に閲覧できない場合はどうしたらいいのでしょうか。
この時活躍するのが、DérogationとAutorisationという申請手続きです。この二つは違うものらしいのですが、実際違いはよく分かりません(すいません)。しかし、自由に閲覧できない文書にアクセスするために行う手続き、という意味では共通しています。自分の理解では、Dérogationはまだ公開年月日に達していない文書のアクセスを申請する手続き、Autorisationは基本的に公開が制限されている文書へのアクセスを申請する手続きだと理解しています(どうなんでしょう)。
Dérogationは様式をもらって、そこに書き込んで提出します。博士課程の方であれば、フランス語での指導教官もしくは自分が所属する大学で指導的地位にいる人(学科長、学部長、学長等)の推薦書が必須です。自分の指導教官はフランスを専門としていないのでフランス語での推薦書は無理です、と言う人は、文面は自分で作成してサインだけでももらいましょう。
Dérogationを申請すると、大体2-3カ月で返事が返ってきます。国防機密に関するものでなければ、申請が撥ねられることはまずないと思います。

(追記2011年3月1日:先日CARANに行った際にAP文書のAutorisationを申請することになったのでDérogationとAutorisationの違いを聞いてみたところ、Dérogationはまだ開いていない文書を個別例外的に閲覧できることを意味し、Autorisationは開示はされているが閲覧に許可がいる文書に対するその許可を与えることを意味する、とのことでした。)

60年ルールの文書は、大統領府文書もそうです(こっちは50年というのだったかも)。

DerogationにせよAutorisationにせよ、この手続きによって閲覧するときの注意として、あらゆる種類の複写が許可されないことです。要するに、コピーも取れないしデジカメも不可、ということです。

上記に、CARANの閲覧室の席には二種類あると書きましたが、AP文書は、たとえLCであっても一律に公開見合わせ文書用の席が割り当てられます。ですからLCなAP文書や、TALONに複写は絶対だめ、と書いてない文書であれば、公開見合わせ文書用の席であってもデジカメが取れます。
この時は、閲覧室のアーキビストのところまで行って、用紙に許可をもらえばデジカメ可になります。

コピーも取れずデジカメも不可の場合、ひたすら読みながらノートに取る(もしくはひたすらタイプ)しかありません。個人的体験ですと、500ページくらいの書類が入ったCarton一つ読む(タイプする)のに大体3-4日かかります。デジカメOKだと、大体30分で終了です。閣議史料がオンラインで公開されているイギリス(TNA)とは雲泥の差でしょう。現代史、特にイギリスを対象にした国際関係史・外交史研究が進む訳です。

■その他
・CARANはマレ地区の真ん中にありますが、昼食を素早くとるのに適したお店はあまり近くにありません。パン屋もすこし離れているので、CARANに来る途中で買ってくる方が時間を有効活用できます。

2011年1月29日土曜日

フィレンツェ帰還

というわけで、水曜にはフィレンツェに帰還しました。部屋に戻ると、悪臭がまた復活していて、久々の匂いに気分が本当に悪くなる。乱用はよくないと思いつつ、パリでゲットしたユーカリのエッセンシャルオイルを濡らしたタオルに部屋のあちこちにかけて、匂いをとる(でも、あんまり変わらない)。
(ところで、今日大家のお婆ちゃんに一月分を払おうとして部屋を訪れたら、もっとひどい下水の悪臭が漂っていて、どうしてこんな匂いがしてどうしていいのか分からない、とのこと。もうこの家そのものの問題なのか…。ありがたいことに1月は全然いなかったから家賃は半分でいい、と言ってまけてくれた)

ちなみにパリの身の回りの薬局には、ユーカリのエッセンシャルオイルが咳の症状を抑えるものとして、(すべてではないけど)置いてある。非常にすっきりとした匂いなので、悪臭対策にと思って薬局で購入。50mlで大体6ユーロくらい。

木・金は、午前はアーカイブ作業、午後は図書館で文献読みに。EUIのワーキング・ペーパーの執筆も本格的にしていかないといけないし、自分で書かねば、と思っているテーマの文献も集めたい。
というわけで、50年代はまずHerbert Blankenhorn, Verständnis und Verständigungの1953年部分を読み直す。あと、Anjo Harryvan, In Parsuit of Influence. The Netherland's European Policy during the Formative Years of the European Unon, 1952-73, Peter Langの関連個所を読み進める。

夜は、日本からアーカイブ調査に来たH君と一緒にトラットリアへ。肉が食べたいと思ってTagliata(焼いた牛肉をスライスしたもの、美味)を注文したら量が多くて胃にもたれた。。ロンドンの時から胃腸の調子が良くないです。

2011年1月20日木曜日

ロンドンへ

今日から3日間だけだが、ロンドン郊外のThe National Archives(TNA)で史料調査。大陸ヨーロッパの移動に慣れているが、イギリスはこれで二回目だけど、街中で堂々と英語を使うというのは、自分にとっては不思議な感覚。

それと、大陸ヨーロッパでもそうなのだが、国境を超えると陸続きなのに微妙に風景が異なるようになるのは、いつ体験しても自分の感覚を揺さぶられる。今回はフランスからイギリスへの移動だが、ユーロスターなので、なんとなく陸続きっぽい感覚があった。

イギリスは大陸ヨーロッパのどこの国よりも都市インフラがしっかりしていて、何気ない都市の近代性が日本に近い(正確にいえば、日本がイギリスやアメリカの近代性をそのまま日本に植え付けているのだろうけど)と思う。たとえば、駅にくっ付いているいくつもの商業施設が集まったアーケードはフランスをはじめどこにでもあるけれど、全体的に醸し出す雰囲気はイギリスのが日本に一番近いと思う。客がお金を出すのだから客はサービスを受けて当然だし出来るだけ客にお金を使ってもらうように努力しよう、という感覚がイギリスからは感じられるが、フランス・イタリアからはあまり感じられない。

ところで肝心のTNAでの調査は、コミトロジー史に関するものだが、手探りでやっているので、どういう史料を読めばいいのかまだつかめない。今日探した史料は、一瞬ドンピシャかと思ったけど、どうも読み進めると違うような感じなのだが、まったく関係ない訳でもなさそうなので、これはこの先も苦労しそう。同時並行的に日本語で執筆予定の、ややベタな外交史的テーマでは、簡単に史料が見つかるのに。まあ、コミトロジー史は自分が慣れ親しんだ外交史でも国際政治史でもない手法なので、Methodology的にはチャレンジングだということにしておこうと思う。


若干、奈良の大仏殿のようなTNAの外観


*旅のメモ的には、ユーロスターのダイニングカーではオイスターカード(ロンドンの公共交通機関を利用できるSuicaみたいなカード)が売っていた。地下鉄の窓口に並ぶのも面倒なので買いに行くと、対応した女性の店員さんがなんと日本語がしゃべれる人(たぶんフランス人と日本人のハーフ)だった。そして夜、オンラインで見つけたホテルにチェックインしたら、受付のおじさんも片言の日本語を話し始めた。奥さんが日本人だとか。ところでこのホテルは、通常価格は一泊7万はする随分高級ホテルみたいなのだが(ネット割引で実際の値段は4分の1強)、窓が壊れていて隙間風がとても寒い…。

*追記
それにしても実感したのが、英仏間の駅の清潔度の違いで、地下鉄駅の清潔度の違いは写真ではたぶん再現不可能(それになにより、においが違う)。かつ、パリの北駅(Gare de Nord)を圧倒するSt Pancrass駅のきれいさである。

パリ北駅のユーロスター待合室からの風景


こちらはSt. Pancrass

2011年1月14日金曜日

フランス、国立文書館フォンテーヌブロー分館の利用案内

新年まともに更新ネタがないので、各地アーカイブの利用案内を書きます。

アーカイブ名称 Archives Nationales - Site Fontainebleau
住所 2 rue des Archives - 77 300 Fontainebleau Tel : 01 64 31 73 00
閲覧室の開室時間 8h45-16h45:月曜~金曜
閲覧室までのアクセス、および各種利用条件については以下を参照。
http://www.archivesnationales.culture.gouv.fr/cac/infos-pratiques.html

日本から短期に利用することを念頭に置いて利用方法を書いてみます。
・利用に際して、事前の登録/必要書類は不要で、閲覧室訪問時にパスポートを忘れないことが必要条件です。
・他方で、短期間で最大限の史料を読むためには、PRIAM3という史料データベースで有る程度読みたい史料にあたりをつけるか、パリのマレ地区にあるCARANの二階(日本式)のSalle des Inventairesに行って省庁毎のカタログを見て最低限のVersement番号を把握する必要があります。
・史料請求・閲覧にはこのVersement番号+Article番号の双方が不可欠ですが、Article番号が分かるのはPriam3か、フォンテーヌブローの閲覧室においてあるカタログにしか載っていません。
したがって、とりあえずは、Priam3で把握した史料を最初に閲覧予約しておくのがよいでしょう。その上で、閲覧室にあるカタログをしらみつぶしにあたっていって、必要な資料を見つけていく、という方策になります。
・閲覧の予約は、上記利用条件に載っている電話番号に直接かけるしかありません。私は日本からの国際電話か、他のヨーロッパ諸国を回ってから利用する場合は、その国からの国際電話をかけていました。

閲覧室は、SNCFフォンテーヌブロー駅からかなり遠く、従来はパリ・リヨン駅8時05分の普通列車に乗って間に合う時間のみにシャトルバスがフォンテーヌブロー駅から出ていましたが、今年1月より、パリのPorte d'Orleanから7時45分にシャトルバスが運行されるそうです。
・パリ・リヨン駅からフォンテーヌブロー駅までの普通列車は一時間に二本あり、約40分かかります
・時間に遅れてシャトルバスに乗れなかった場合、列車から降りた側にあるバスターミナル(Gare routier)からBのバスに乗って、Charitéという停留所で降ります。アーカイブは、この停留所から徒歩10分強のところにあります。まず、Chariteで降りたら、降りた側の歩道から反対側の歩道に渡った上で、バスの進行方向の逆を向きます。そのバスの進行方向の逆方向を少しだけ歩くとこんなしまった店があります。


この手前の右に曲がっている道へと入っていきます。するとこんな感じです。

この道をひたすらまっすぐ歩きます。すると、道なりに左に曲がるので、そのまま左にまがります。左に曲がると住宅が並んでいます。住宅の並ぶ道を通っていくと、やや大きな道にでます。その道に出たら、それを右にまがります。すると、こんな感じです。

この道をさらにひたすら歩いていきます。そのうち、右手にアーカイブが見えてきます。バスを降りて、この間、大体10分から15分ですが、初回は先が見えない道路に圧倒されて、一体いつ着くのか、と絶望的な感じになるかも知れません。

■利用手順
入口に入ると守衛さんに挨拶して入館帳に名前を記入ののち、右側のロッカーに荷物を置いて二階の閲覧室に行きます。閲覧室でかかりの人に利用用紙を記入するように言われるので、身分証明書を見せながら記入。これで完了。

■史料請求手順
史料の請求は、Versement番号+Article番号を閲覧申請用紙に書いてかかりの人に申し込み。一回に見れるCartonは10個まで。机に持っていけるCartonは一回につき一個。
・基本的に一つのArticleが一つのCartonに対応しているが、たまに、いくつかのArticlesが一つのCartonに入っている場合もある。
・なお、史料をその場で頼んでも、午前中に行けば午後には出してくれるが、午後以降はその日に出してくれない可能性が強い(というか、まず無理と言われる)。なので、前日の12時までに電話で予約することが望まれる。
・Derogationで申請した史料でない限り、デジカメによる撮影は特に断りなしにOK。なお、紙コピーを望む場合は、コピー機が閲覧室内にある。有料。

■その他注意
・フォンテーヌブローを利用するときに戸惑うのは、史料番号がVersement番号という、各省庁からここに移管された年と番号によって管理されており、Versement番号から史料の性格が全然わからないこと、また詳細な史料カタログがこのフォンテーヌブローの閲覧室にのみあり、自分が見たい史料を探し出すことは独力ではかなり難しいことであると思う。
・パリのCARANには省庁ごとのカタログがあり、それである程度内容が分かったり、史料データベースのPriam3である程度のキーワード検索はできるが、それでも限界がある。
なので、フォンテーヌブローには来ないと分からないことが多いのが、ここのアーカイブの特徴である。
・パリから非常に離れているので、ここに来るのは一日仕事になることが多い。近くには店はおろか人家もない(軍の施設はある)。なので、昼食をリヨン駅で調達することがここを利用するときの絶対条件である。フォンテーヌブロー駅周辺にもそういう店がないからである。
・アーカイブには公衆電話もないし無料Wifiも流れていない。あるのはコーヒーとお菓子の自販機のみ。
・ただし、史料の公開状況と、いったん来てから利用しやすい点は、CARANよりましだと思う。
・なお、バス等で徒歩で行った場合、門が閉まっている可能性がある。その時は、チャイムを押してみること。
アーカイブの入口

2011年1月1日土曜日

ボーヴェに行ってきた

本来ならば、昨年のことになりますが、30日の年末に、子供二人と一緒にボーヴェに行ってきました。
ボーヴェはパリの北方約70KMだそうで、地図で見る限りはパリから離れている加減は、フォンテーヌブローと同じくらいでしょうか。ただ、ピカルディーの鬱々とした雪原の中に入っていかなければならいません。

冬休み、暇で寒いので、近くの大聖堂を見に行く、ということでボーヴェにしました。ボーヴェには建築途中に完成を諦めた大聖堂があります。完成していれば世界最大のゴシック形式の大聖堂になったとか。

Transilien(パリ近郊の公共交通を使った移動手段を調べる検索サイト)で見ると、ボーヴェとパリ北駅との間には一時間に一本普通電車が通っているので、お昼前に出発。北駅でサンドイッチを買って、列車の中で食べながら一時間20分ほど移動してボーヴェに着。


駅前の「ド・ゴール将軍通り」の表札。一応ド・ゴール研究者として。

クリスマスが終わったボーヴェの中心街。フランスの地方都市の町中は、僕はとても好きです。


この噴水を左に曲がると大聖堂が見えてきました。町中に大聖堂がある暮らしは羨ましい。


これが大聖堂。手前に移っている黒いダウンを来ている子供が長男。写真だと分かりにくいが相当大きい。天井の高さだけで言えば、フランス一だそうで、パリのノートルダムより10メート以上高いのだとか。天井が高いとは知っていたが、もうちょっと前知識をそろえていけばよかった。

ただ、大聖堂の中非常に寒くかつ暗かったので、特に下の子どもはすぐに嫌がって大聖堂の滞在時間は20分程度。そのあと、市街の市役所前広場の子供向けアトラクション(移動メリーゴーランド、ポニー乗馬)+屋台でおやつを食べていたら帰りの列車の時間となり駅に戻る。

帰りの電車はパリまで直通列車だったが、乗客はほどんどいなかった。お陰で、子供は貸し切り状態の列車の中で楽しく過ごせた。家に戻ったのは6時過ぎ。行き帰りの移動時間が4時間、ボーヴェ滞在2時間という一日小旅行でした。


うまく取れていないが、ピカルディーの雪原。
QLOOKアクセス解析