2011年3月10日木曜日

ベルギー外務省アーカイブ

本日ブリュッセルのベルギー外務省アーカイブ(MAEB)に行ってきました。

■概略
・ベルギー外務省は、旧植民地に関する史料(Archives africaines)とそれ以外の一般的対外政策に関する史料(Archives diplomatiques)の二つを保有している。閲覧室は、ブリュッセルの地下鉄Porte Namurから降りて数分の、王宮前広場にも近い外務省本局建物内の一画にある。

■開室時間
月~金: 9:00~16:00
デジカメは使用禁止。コピーは史料を指定し掛りの人にやってもらう形式。A4サイズだと、一枚25サンチーム。
外務省内にあるため、建物の中に入るためには身分証必要で荷物検査あり。建物内の移動は掛りの人が付き添う。

■特徴(感想)
さて、ベルギー外務省アーカイブの特徴は、他の外務省アーカイブと比べると閲覧のハードルが(相対的に)高い点にあると思う。
・まず、事前にMAEBに連絡する必要があるが、その際に、自分の研究テーマと読みたい史料を十分具体的に提示する必要がある。その連絡を受けてMAEBのアーキビストが関連史料を調べ、訪問日に合わせて史料が用意できる、という返事を受け取って初めて閲覧が可能となる。
・なので、ベルギーに関連する史料をMAEBで閲覧しようとするなら、訪問の3か月前にはコンタクトを取り始める必要があるだろう。もっとも、MAEBを利用した文献やこれまでの話を聞く限りは、1950年代までの史料はそろっているが、60年代の史料が開示されているかどうかはかなり不確かで、そのような開示資料を使って書かれている先行研究が存在しているからと言って、別の人も閲覧できるとは限らないようである(これは西独期の有力政治家の私文書でも同じことが言える)。

・通常アーカイブにはカタログがあり、利用者はカタログに目を通すことで自分に関連する史料をピックアップすることになるが、MAEBに関しては、利用者はカタログを参照することができない。カタログはアーキビストのみが参照できるらしい(たまたま話したベルギー人の利用者談)。

・自分は、あるテーマについて5年くらいの幅の史料を読みたいとメールしたところ、返事が来て、そのテーマはすでに多くの研究があり関連する史料集も出版されてますが訪問をお待ちしております、という内容だったので予約が取れたとばっかり思ったのだが、返事の趣旨は、テーマが十分に限定されていないのでもっと先行研究を参考にして内容を限定するか文書の番号を具体的に提示せよ、ということだった。閲覧室にまで行ってアーキビストの人と話をしても、どうもいったいどうやって史料を閲覧・注文したらよいのか分からず、何回か質問したら、どうもそういうことだったらしい。

・言い訳がましいが、自分の中では非常に限定的なトピックについて調べられてたらよいが、できれば史料の全体的な所蔵状態を知りたかったので、あえてやや広いテーマを提示したのだが、どうもそれがよくなかったらしい。

・訪問の一番最後、最後に確認したいことがあってアーキビストを待っている間に、利用者がお昼を食べるのに利用するキッチン部屋があり、そこにたまたまいた閲覧室利用者にこのアーカイブの利用の仕方を聞きたくて話しかけてみた。彼曰く、MAEBは非常に閉鎖的で、どの史料を誰に見せるかはアーキビストの判断で決まっており、粘り強く交渉する必要があるそうだ。特に、今の主任アーキビストは史料開示にあまり積極的ではないらしく、その人が定年を迎える3・4年後以降は状況は変わるかも知れないが、今のところはあまり改善は見込めない、と。僕が、カタログを見せてくれないが、カタログを読まなければ史料をどう整理していてどのような史料が存在しているかが分からないのではないか、それを知ることが研究の第一歩なんだけど、と言うと、それはみんなが苦労していることで自分も1年半通ってようやく分かり始めた、と。

・結論として、ようやく手続きの踏み方が理解できたので一カ月後に再挑戦することに。

・すくなくとも、今日対応した掛りの人(受付から閲覧室まで利用者を誘導する掛り)がそのポストにいる限り、上記に記したアーカイブからのメールはプリントアウトして持って行った方がよい。自分は、メールのやり取りで来てもよいと言われたと言ったところ、文面を見せろと言われ、ネットにつながないと無理と答えると激昂されてしまい、アーキビストに内線を通して確認しなおして入れてもらった。最後に退出する際、次回はメールの文面をプリントアウトしてくるように念押しされる。
■以下余談
・話しかけたベルギー人院生の人はなかなかいい人で、次のようなことを話してくれた。1960年代までベルギーの外交官はワロン(フランス語圏)出身者で占められ、フラマン(オランダ語圏)出身者は少数派だった。しかし、この時代までのフラマンのエリートは実はフランス語を母語としている人がほとんどだったので、言語が問題になることは少なかったし、第二次大戦以前は基本的に良家の子弟が外交官になっていたので、ベルギー外交はフランス語の世界だった。しかし、第二次大戦以降外交官のリクルートが試験による選抜制に移行し、その試験においてフランス語とオランダ語の両方の十分な知識が求められ始め、そして第二次大戦以前に入庁した古参のワロン外交官が退官し始める80年代以降、今やベルギーの外交官はフラマンが優勢をしめ、ワロニー(ワロン人)は少数派に転落したそうだ。なぜなら、フラマンはかなりまじめにフランス語を覚えるが、ワロニーはオランダ語を苦手にする人が多く、試験でいい点を取れないからだ、と。
・実は自分がお昼をその部屋で食べていたとき、ワロニー院生らしき二人組のアーカイブ利用者が雑談しており、その内容は、如何にオランダ語を勉強することがつまらなく、かついやなことであるか、という内容だった。ブリュッセル圏であれば、確か8歳から10歳くらいから、お互いの言語を勉強し始めるはず(ワロニーならオランダ語を、フラマンならフランス語を)で、学校で10年間くらい言語を勉強する。しかし、多くのワロニーはオランダ語がしゃべれない。しゃべる必要もないし、その機会もないからである。これは、日本人が英語を学校で10年間ちかく勉強してもしゃべれないのはなぜか、という日本ではおなじみの日本人に対する英語論の問題と全くと言っていいくらい鏡映しの状況である。
・その院生も言っていたが、ワロニーがオランダ語を習得しても、実際にメリットになることは少ないという。オランダ語は、オランダとフランドル地方でしか使われない言語だが、フランス語はフランスをはじめ多くの国家・地域で使用される。フラマン人がフランスを習得すれば、ベルギー国内だけでなく外交の世界ではいまだ相それなりの重みを持つ国際機関の場でも活用できるのに、ワロニーがオランダ語を習得しても、試験に受かりさえすれば、もうしゃべる機会はそれこそオランダか、フランス語が出来ないフラマン人相手との会話しかない。
・ただ、MAEBの体質は、このフラマン・ワロンの話とは全く別のことだと、その院生の談であった。なんというか、ベルギーは奥が深い。知れば知るほどラビリンスの様である。

0 件のコメント:

コメントを投稿

QLOOKアクセス解析