2010年12月29日水曜日

パリに戻る

21日にパリにもどり、家族と一週間を過ごす。基本的にテレビを付けないし、天気も家族の多くの体調もイマイチなので、特に外出もせず、世の中の趨勢からはだいぶん取り残された時間の流れのなかで過ごしているが、これはこれで非常に贅沢なのではないかと思う。

以下、備忘録的にした事の記録
・子供のクリスマスプレゼントの手配:うちの子供(8歳と4歳)はまだサンタの存在を信じているため、親が目の前でプレゼントを買うことができない。日本にいた時は、子供がいない時間を見計らってAmazonで購入ということもできたが、こっちでは難しい。しかも、日本と違って、親子が常に同時に動くので、親が子供に黙ってプレゼントを買うと言うのが結構難しいのだ。それに、子供がサンタに願うプレゼントも直前までずいぶん揺れ動く。最後は、市内の某デパートで購入。そのデパートのシールがついた包装でツリーの下に置いたのだが、その部分には全く気付かず。
それにしても、子供がサンタの存在を信じなくなったら、それはそれでつまらなくなるんだろうなあ。

・突然消えた家の台所の照明の復旧。←日本では考えにくいが、突然台所と玄関だけの照明がつかなくなる。まだ自分がフィレンツェに居た時になったので、この件で奥さんはかなりの消耗を強いられる。ヒューズが飛んだのが原因ではと知り合いに教えてもらったが、一体どれがヒューズが分からないから。自分が帰宅して次の日の朝に大家に電話したが、どうにも説明されるフランス語がよくわからない。アパート内ではなくエレベーター横にある電機集合盤のヒューズが問題では、と言われ、それを抜くとアパート全体の電気が落ちるばかりか、抜いたヒューズを持ってブリコラージュのお店に行っても、これは店で売っているものではなくEDFに問い合わせろ、との返答。
この時点で、かなり先行き不安になる。念のためと思った仲介不動産の日本人担当者にメールで問い合わせたら、電話があり、部屋のパーツごとに分かれたヒューズが絶対にアパートの部屋の中にあるはず、と言われ、どうもそれらしいものを抜こうとするが、固くて動かない。電話を切ってかなり力を入れてようやく抜ける。なるほど、集合盤のより小さなヒューズが入っていた。そこで、そのヒューズを持って、もう一度ブリコラージュのお店へ。このサイズなら、三つで4ユーロ程度。
しかし、ヒューズは10個くらいあり、どれだどれに対応しているのか分からない。よく見ると、かつてはシールが張っていたが、それを剥がした跡がある。それくらい、付けとけよ!まったく、ここの大家は自分のうちの物件に不案内すぎる。
仕方がないので、家の電気をすべて付けて、一つづつヒューズを落としていき、どれがどれに対応しているのかを確認していく。その上でたぶんここか、という場所が3つくらいあったので、それぞれに電球をつけ直して確認していく。
結局30分くらいで作業は終了したが、電気、水道というインフラがやられると住居は激しく住みにくくなるというのをフランスでは実感している。妻は、フランスは先進国ではなかったの?と呆れているが、電気と水道の住宅へのインフラはヨーロッパでは日本より完璧ではないのは確かだとおもう。もちろん、日本の状況が改善されたのはここ20年程度の話だとは思うが、ここまですぐに壊れやすくはないと思う。
こういう、インフラにとどまらず、フランスには結構テキトーなレベルで物事をとどめておいて、人々がいろいろ苦労しながらメンテをする、という側面と、妙な物事(制度)の先進性が並立しているのが不思議だが、先進的な制度をつくっときながら、それを半端なレベルでの充実にとどめておくのが、フランスが近年衰退とか言われる原因の片棒を担いでいるのではないかと思うのと、それを支えているのは、フランスに顕著な物事に対する無責任の心性ではないか、と思わざるを得ない。

・シャワーの付け替え。4月に入居して、これが三度目のシャワーの付け替え。壊れるのは決まって、シャワーヘッドとシャワーホースの接合部分で、ここから水が漏れるために、シャワーヘッドから十分な水が出てこなくなる、というもの。シャワーホースには2年とか5年とかの保障が付いているが、これは一体何の数字なのだろうか。

2010年12月20日月曜日

フィレンツェ足止め

昨日、夜8時に便にピサから飛ぶ便に変更した訳だが、昨日はパリがひどい天候となり、昼までの便はパリは全便が欠航になった。しかし、夜便についてはOn Timeの表示が出続け、天気予報だと夜には雪がやむような感じだったので、期待してPisaに向かった。ただし、昨日もバスはひどい混みようで、スーツケースを諦めて、本当の最低限の荷物をリュックに詰め直して身を軽くして移動。
ピサ空港には午後6時半くらいにつくと、その時点では確かにまだOnTimeの表示。しかし、しばらくすると、出発が23時に変更になる。おいおい、これでキャンセルになったら本当に空港に止まりだな、と思ってしばらくまっていると、7時半ころ、ついにキャンセルとなる。

その場で慌ててネットにつないで(USBキーが使えずクレジットカード払い)航空会社のサイトから取り直し。しかし、この時点で最短で帰れるのは21日の便のみ。その後、また電車に揺られて家に帰る。SMN駅についてバス停に移動すると、ちょうど自分が乗るバスが止まっていたのがラッキーだった。

そして今日、旅客状況をチェックしなおすと、相変わらずパリはすごい天気らしく、パリ便は早々にキャンセルになっていた。パリの家にもいろいろトラブルが起こっているので、あすは何としても飛んでもらわないと困る。

2010年12月18日土曜日

雪のフィレンツェ

日本でもニュースになっているが、フィレンツェでは昨日の17日の昼頃から雪が降り始め、最初は風流があるなあ、とぐらいにしか思っていなかったが、夕方以降も止むことはなく、どうもフィレンツェの交通はマヒ状態に。帰りのバスは5時の段階で既になく、坂を歩きながら下っていたら、坂の途中でバスが乗り捨てられていた。
空港も閉鎖と伝えられ、昨日のWSもやや早めに切り上げれらたのだが、WSの合間の会話はもっぱら帰省のときの飛行機がきちんとと飛ぶか、というものだった。金曜の夜、フェロー仲間で最後のApertivoをCentroでやろう、と言っていたのだが、そもそもバスも止まっており、これは当然無理に。

で、本当は今日の土曜日は自分もパリに戻る予定だったのだが、朝起きて出発するピサ空港の情報を見ると、どうも便が止まっている様子。予約していた便は夜の最終便に近いものだったのだが、夜になれば空くのだろうか。天気自体は今日(18日)は快晴で温かく、昨日降った雪は一部融けて、3月末から4月初頭の札幌のような様子である。
部屋の掃除をしながら、ピサ空港、航空会社、ピサの天気、パリの空港の状況(パリから飛行機が飛ばないとピサからの飛行機は当然無くなる)の四つの状況を何分かお気にチェックするのだが、朝の飛行機はすべてお昼以降に時間が変更。それが昼過ぎにはついにキャンセル表示もでてくる。とはいえ、便は夜なので、まだ時間があり、一回街の中心に行くことに。

パリはものすごい寒いというのでセーターの追加購入と、あと子供が風邪で結構咳をするそうなので、その予防のための何かエッセンシャルオイルがないか、ということで、駅の様子を見るのも兼ねて、街に行こうとすると、運よくバスが来て乗ったが、これがすごいノロノロ運転である。
普段の倍近い時間をかけて駅についてみると、長距離列車は軒並みの遅れ。窓口はすごい列。ピサ行きの普通電車も40分遅れの表示。
これは、ピサ空港に行くのも大変だな、と思いつつ(普段はバスという手もある訳だが、市内の移動であれだけの時間を使うのだったら、電車で一時間かかる距離までのバスは半日かかるのが目に見えている)、まずは駅前のサンタマリアノベッラ薬局でハーブウォーターを購入。エッセンシャルオイルみたいなのを探したが、どうもよくわからなかった。
その後、セーターを物色しに、RinascenteとCoinをはしごするが、Rinascenteは高すぎでCoinも微妙。一応Zaraで買ったセーターもあるので、今回は買わないことに。
途中、雪をかぶったドゥオーモに遭遇。大変きれい。



バスは運よくすぐ来て家に帰ったのが1時半くらい。ここでもう一度空港の様子を確認すると、朝の便は軒並みキャンセルかつ、出発はすべて18時以降に変更である。自分が乗る予定の便には何も表示がないのだが、これはかなり危険な兆候である。もちろん、今ピサに雪は振っていないので、キャンセルになっているのは除雪が出来ていないか前日の混乱で機材がとどかない、とかの理由だろう。
と、ここで、ピサ空港はそもそも閉鎖されている、という表示に気づく。航空会社のページをたどって、ピサ空港が降雪のため18時まで閉まっている、との情報を得る。しかし、18時以降便が飛ぶのかと言えば、それは不明。

問題は、空港に行くのに大変な労力と時間がかかるということである。なにしろ、いったん実は空港に行こうと思って最寄りのバス停に向かったのだが、20分近く待ってやってきたバスには満員の乗客。スーツケースを抱える自分が乗り込む隙間がない状態で、乗るのを諦める。
この時点で、自分が直面する状況のオプションは次の通り
(1)空港に出向いて便に乗れる
 →言うまでもなくこれが最善。
(2)空港に出向いたが便がキャンセルになる
 →時間が遅いので、家に帰ってくるのが難しい。一日に二本しかパリ便がないので、空港に寝泊まりしてかなりの時間と労力を使うことに。
(3)空港に出向かず、便がキャンセルになるのを待ち便が実際にキャンセルになる
 →キャンセルになれば無料で便の変更が(空席がある限り)可能:これは次善の策
 しかし、このオプションはギャンブルである。なぜなら次の可能性があるからだ。
(4)空港に出向かず便がキャンセルになるのを待つが、空港が正常に戻り便が出てしまう
 →座席の変更をしていない自分は、乗り遅れた乗客扱いで、飛行機の便を一から取り直すことになる。これは最悪の状況。キャンセル表示が出るまでは生きた心地がしない。
(5)空港に出向かず、今の時点で(つまり便がキャンセルになるかどうかがまだ不明な状況にも関わらず)便を変更する。変更手数料+チケットの買い直しになるので、それなりの値段になるが、もし便が出なかった場合を考えると、いろんな心労をしなくてもいい代わりにお金を払う、というもの。

一番取りえる策は(3)に間違いがない。逐一サイトをチェックしてキャンセル表示が出た瞬間に航空会社のサイトから座席変更をすればOK。とはいえ、ピサ空港の方々ががんばって空港が再開したらもうおしまいである。それに、ピサ空港のサイトには14時初のベルリン行きは早々にキャンセル表示になったのに、航空会社のサイトはずっとScheduled表示が続いていた。つまり、航空会社のサイトの更新がOn Timeとは限らない。
ということを考えると、(5)がダメージがいろんな意味で少ないかなという結論になった。
ちなみに、このシミュレーションは、バス停でバスに乗れなかった後、掛った時間は10秒くらいだろうか。なにより、まずもって駅に行くことすら大変な状況である。タクシーを呼んでもすぐに来てくれる状況ではないし、バスもこの通りでは、大きい荷物を抱えている自分には困難な状況である。空港に行けないなら、それを前提とした最適行動を考えないといけない。それが(5)だった。

家族に今日は帰れそうにないことを連絡した後、家に戻り、ネットにつないで無事に変更を完了した後は、大学に行って変更した印刷する。ラッキーなことに、バス停に行ったらちょうどバスが来たのだ。大学の図書館は空いていたが、とってもがらんとしていた。そりゃそうなだろうなあ。というか、この人たちはどうやってここまでたどり着いたのか。
しかし、帰りは、バス停に着く瞬間に目の前をバスが通り乗れず、30分以上待つはめに。

そして、家に帰ってネットをつないで状況を確認したところ、自分が乗る予定の便はキャンセルになっていた。今日、ピサ空港は完全に閉鎖状況だった。明日、業務が通常に戻るのを祈るのみである。

統合史ワークショップ

今日は統合史のワークショップが丸一日あった。それについてかなり長く書いたのだが、PCの調子が悪く、保存されないまま消えてしまった…

自分としては、身になる部分と、身にならない部分の両方が感じられたこと、あと、少人数での議論だったわけだが、こういうのを積み重ねて研究が進むんだな、と大きく実感した。

2010年12月16日木曜日

フランスとイタリアの郵便局の行列の比較考察

先ほど日本向けの郵便を出さなければならなかったので、研究所の最寄りの郵便局に行ってきた。初めてではないだが、フランスのとの違いが非常に興味深かった。
まず共通点として、どっちも結構待たなければならない。理由はおんなじで、まずもって窓口で働いている人の数が少ない。そして多くのお客は郵便ではなく貯金関係で来ている。日本にも郵貯があるが、ヨーロッパの場合、手数料などの関係で多くの人が郵便局の口座を利用している。フランスだと、口座を作るのも維持もほとんどタダじゃなかったろうか。タダではなくても、一般の銀行よりも安いのは間違いない。カードを持つと便利だがその分手数料がかかるので、お金に余裕のない人は、引き下ろしも預け入れも窓口に並んで行う。だから、日本よりも郵便局に来る人は多い。
フランスは、昔は郵便も貯金もおんなじ窓口だったから、一回行くと30分はかかるのを覚悟したものだったが、最近このあたりは改革されて、この二つは完全に窓口が分けられた。

さて、興味深い違いなのだが、同じく順番を待っていることには変わりないが、フランスの場合、列を作ってひたすら待つ。ところが、イタリアの(特に研究所の最寄りのところの)場合、列は作らない。みんなバラバラで好きなところで待っている。その代わり、扉を開けて中に入ってきたときに、必ず「最後に待っている人は誰?」と聞くのである。自分の前の人が誰かを確認すれば、その人が終わったら次に窓口に行けばよい。これはこれで、合理的なように思う。なぜなら、まず先に中に入って、宛先とか封筒の口を閉じることとか、そういうことをしながら順番を待っていることができるからである。
あと、このシステムは、必ず誰かが誰かと話をすることを要求されるので、おしゃべりなイタリア人にはぴったりである。たぶん知り合いでもないのに、客同士よくしゃべる。フランスでも初対面同士であっても列で並んでいるときに、何かの拍子でしゃべりだすことはあるが、そこまでではない。普段なかなかイタリア語でしゃべる機会がない自分にも、よいイタリア語の訓練にもなる。実際、待っていると、日本語で書いた宛先を見て、おじさんが「これ読めるの?」と聞いていた(実際にはもっとしゃべっているのだが、理解したのはその程度)。
それと、自分は書留にしたかったから窓口に並んでいたわけだが、先に貯金の窓口が空いたので、周りの人が「次あんただよ」と言ってくれた。でも、貯金の窓口では書留の用紙がもらえないので、「いや郵便の方に用事がある」と言ったら、別に並んでいたおばさんが、「彼は書留で並んでいるからあっちが空かないとダメなのよ」という旨のことを周りの人たちにしゃべり、周りのおじ(い)さん、おば(あ)さんは、ああなるほどー、と納得していた。
という風にきちんと状況を把握する能力(Non-Verbal Communication)もイタリア人ははるかに上である。基本的にフランス人はNon-Verbal Communication能力がなさすぎると思うのだが、いつかフランス人にこのことを聞いてみたいと思う。

*追記
もちろん、言うまでもないことだが、上の話は比較でも何でもなく、単なる印象論にすぎない。大体比較となる郵便局の基準が違いすぎる。でも、やっぱり、違いはあるんじゃないかな―、という気はするんです。

2010年12月12日日曜日

クリスマス前のフィレンツェ

相変わらず家族用のクリスマス・プレゼントを求めて日曜日はCentroへ。
新しく購入したiPod Touchのカメラで町中を取ってみた。


















ドゥオーモの前に飾られているクリスマスツリー。かなり大きい。
これが、日が落ちると


















こんな感じにライトアップ。かなりきれい。ちなみに写真自体は先日撮影したもの。


















これはPiazza ss. Annunziataから見たクーポラ。個人的に、フィレンツェの風景の中で、ここがベストショットだと思う。この写真だと良さが伝わらないが…
この通り(Via dei Servi)を適当に見て回っていたら、この通りにあるBartoliniという(某シューマンセンターの所長教授と同じ名前の)お店が非常に可愛いアイテムを飾っているのでついふらふらと入ってしまう。が、大変かわいらしいだけでなく、非常に便利なキッチングッズを売っているお店だった。
http://www.bartolinifirenze.it/

その後、麦わら市場の観光客向けの売り場でなにかいいものがないかを探しに行った。フィレンツェはカシミアによる服が特産なので、カシミアのショールやマフラーがたくさん売っているのだが、よく見ると、全部Pashmere100%と書いてある。カシミアではなくパシミアってなんだ?と思いつつ、大体全部10ユーロ前後でいくらなんでも安すぎないか(ただし肌触りはすごく良い)で、結局買うのはやめる。大体、デザインがバーバリーのパクリか、色鮮やか過ぎる原色しかない。帰宅してからPashmereを調べてみたら、どうも、インド産はカシミア、ネパール産をパシミアという違いしかないことを知る。そうか、ネパール産なのか…。ほんとかな…。
夕方近くの共和国広場あたりの人だかり↓

東京なみの人ごみでびっくり。普段から中心街は日曜日でも店を空けるところが多いが、クリスマス前でさらに大変なことに。

ところで、i Pod Touchの新型にはこうしてカメラが付いた訳だが、史料収集には使えるレベルではないことが残念。シャッタースピードや本体に入る容量なんかを考えると、もうちょっと高画質に作ってくれたら、と思うのです。

今週の記録

ふと気が付いたら一週間が過ぎていた。
フィレンツェはクリスマス前の非常に華やかな雰囲気満載で、歩いているだけで楽しい。今住んでいるのは、中心街からバスで10分強の少し離れた住宅街だが、通りにはクリスマス用の電飾も飾られいる。

◎月曜日
・久しぶりに英語の語学コースに出席。当初は英語論文執筆のための実践的なコースと思っていたが、最近は本当の英語の細かいところを詰めていくような内容に。今日は、Ponctuationがテーマで、コンマ、ピリオド、コロン、セミコロンの使い分けについて。セミコロンを使いこなせるようになったら一人前なわけだが、分かっていても難しい。

・午後からは統合史のセミナー。70年代におけるECと南北問題がテーマで、
Thorsten B. Olesen, The EC and The New International Economic Order: A United or Divided Third Force?, Conference on the History of European Integration. From Crisis to New Dynamics: the European Community 1973-83, 11-12 Feb 2010.
Guiliano Garavini, The Colonies Straiks Back: The Impact of the Third World on Western Europe, 1968-1975, Contemporary European History, 16/3, 2007.
がマテリアルだった。
発表はRomeroが最後みんなあたったので自分がやろう、ということでしゃべったのだが、最初に大きな問題には言及して、議論するまでもなく終わってしまったような。しかし、OlesenにしろGaravaniにしろ、南北問題がECに対して大きな影響を与えたのは確かであるが、問題はそれに対してECがどのように対応したのかがどうもまだイマイチ詰め切れていない印象があることである。質問したら、確かに、主要国家の対応とECとしての対応がどのようなものだったのかはまだ正確に解明されていないとのこと。懸命にUnifyしようとしていた側面もある一方で、分裂していた側面もある。この内容上の分裂とUnifyメカニズムとしてのEPCとの関連もまだ詰め切れていない。あるアジェンダがなぜEPCで取り上げられてなぜあるアジェンダはオミットされるか、等(これはAurellieがある程度補足したが)。

メモ的に気になった点を挙げると、Aurellieに言わせると、73年のヨーロッパ・アイデンティティ宣言が出されたことに対してオイルショックが何らかの要因になっているという証拠はない、とのこと。

マテリアルについては、Olesenのペーパーは、EUIのサイトにアップされていたものが実はコピーが途中で切れていたことがわかりちょっと消化不良。Garaviniについては、よく読むと一次史料に基づく実証がほとんどなく、結局何が新しいのか分からないことが議論として出された。

今季取っていた統合史のセミナーは、Romeroと最近の研究動向の傾向を反映して、70年代と対外的側面が主として取り上げられた。印象に残ったのは以下の点。
(1)70年代における対外的自立傾向は自明で、それが他の文脈の広範なダイナミズムとどのようにつながっているのかが、研究されている。
(2)リエゾン主流の80-90年代と異なり、フランスと○○、西独と○○、というような研究は非常に少なくなってきている。存在するのは、新規参入国の場合(デンマーク、アイルランド等)。BAC、CMとキーとなる国家の史料を突き合わせることがほとんど。ただし、マルチラテラルではあるのだが、多くはEC+二カ国で頑張っている人は三カ国で、四カ国以上の史料に当たる人は稀。
(3)対外的ダイナミズムと対内的ダイナミズムとのかかわりは重要。このあたりは、自分の感覚は間違っていなかったことを再確認。
(4)これをこんなところで書いても仕方がないが、2006年の比較政治学会のコミトロジー論文や、2007年の国際政治学会の論文は、発表した後、すぐさま英語で書き直してどこかに投稿なり別のこちらの学会に発表すべきだった。もちろん、どこまで反応があるかどうかわからないが、それでも、改めてその後発表された研究論文などを読み直すと、自分が書いたことはそんなに間違ってはいないように思う。この二つのテーマはさらにフォローアップして論文にまとめる予定ではあるが、はて。

◎火曜日
実はあまり記憶がないのだが、某企画校正がメインか。日本から注文した書籍を受け取る。某企画の校正は、提出原稿が史料調査の途中で出したものなので、かなり苦労している。

◎水曜日
アーカイブへ。夕方は研究所のセミナー。EUIにあるFlorence School of Regulationという研究グループに所属しているフェローの発表だったのだが、全くと言っていいほど理解できず。基本は経済学で、ある所与の環境がおかれたマーケットにおいてその環境がどのように変わると、そこに置かれている企業はどのような行動を取るともっとも合理的か、というものだった、と思う。

◎木曜日
朝は、こちらの研究所で自分が選ばれている枠内のフェローのセレクション会議があったそうで、その責任者?の教授が、今過ごしているフェローの現状を確認したいということで、カフェで少しその教授とお話しした。でも実はその教授はなんと前EUI学長のとっても偉い人だったのだが、大変気さくな人だった。EUI学長はEU官僚と政治家が多いのだが、学者は彼一人だけではないだろうか。
ところで、彼をしゃべっていると、知り合いのフェロー(女性)がコーヒーを飲みに来て、前EUI学長が去った後彼女と少ししゃべったのだが、最初は前EUI学長とセレクションのことについて僕が話し、その後フェローとして各地を転々とする苦労について彼女が話した後、途中で彼女がいったい何をしゃべっているのかが全く分からなくなった。とてもうれしそうに何かをしゃべっているのだが、本当に何について話しているのかが分からなかった。彼女はアメリカ人で、アメリカンな流暢な英語は聞き取りにくいというのもあるかも知れない(自分には流暢なドイツ人・デンマーク人の英語が一番聞き取りやすい)。分からない、というのも言えず、適当にお茶を濁して別れたのだが、最近英語ばかりの環境で、英語にはかなり慣れたと思ったにも関わらず、ちょっとショック。

お昼は、食堂でばったり会った、R大からこられているIさんとご同席。

午後からは、最後のInternational Historyのセミナーへ。出席者の大半を占める博士一年目の人たちは、今Seminar Paperの締め切り直前で、出席者はいつもの半分くらい、しかも、ほとんど誰もマテリアルを読んでこない、という状況。

テーマはベルリンの壁崩壊1989で、Bozoの英訳本をめぐるH-DiploのラウンドテーブルとSarotteの単行本のIntroと結論部分。
しかし、議論はもっぱら、直近の歴史を記述するための方法論、情報化時代、特にWikileaksのような事件が起こるような現在における歴史記述のための方法論がもっぱらだった。Garton AshのGuardian記事がやり玉にあがる。

ところで、International Historyセミナーでは、長らく「アジア的視点」を代表して話に参加していて、これはもう嫌でたまらなく、なんとかそんな視点からでないところから議論に割り込んでいけないか、と常々思っていたが、ようやく最後になって、普通に議論に割り込んでいけたし、自分の発言を受けて議論が続いたし、自分の発言に周りのResearcherもなるほどと頷いてくれた。と言っても、彼らは自分より10歳は若い世代なんだが。。

それにしても、語学とこのセミナーに出席したお陰か、EUIに行けば必ずだれか知り合いとすれ違うようになる。まあ、EUI自体が狭いからだろうが。。

◎金曜日
アーカイブが10時半から空くので、午前中は家で校正作業。お昼を学食に食べに行って、午後はアーカイブ。アーカイブは5時に締まるので、その後は家族へのクリスマス・プレゼントを求めて町中へ。
帰宅してからは、日本の大学の共同研究の作業と、某企画校正。

2010年12月3日金曜日

一週間の記録

日曜日にパリから戻ってきた後の記録。

◎月曜日
13時からのセミナーで発表が当たっていたのだが、準備が終わらず9時からの語学は自主休講。
今回のセッションのシラバス上のテーマは東西関係だったが、正確にはヨーロッパ統合の対外的側面と対内的側面の交錯と言った方がよさそう。文献は、
・Kai Hebel & Tobias Lenz, West European Foreign Policy during the Cold War. The Twisted Path Towards Liberal Realpolitik, Draft paper prepared for the Sixth History of European Integration Research Society (HEIRS) Colloquium, 15-16 April 2010, University of Reading, UK
・Sara Tavani, CFSP Origins and European Detente: a Common European Stance on the Polish Crisis of 1980-81, Draft paper prepared for the Sixth History of European Integration Research Society (HEIRS) Colloquium, 15-16 April 2010, University of Reading, UK
の二本。HebelとLenzはOxfordの博士課程の院生のようで、Tavaniはフィレンツェ大学のPh.Dを取得しているポスドク。特にTavaniは今一番ホットな80年代の時代を扱っている。出典が明らかではないが、アメリカの一次史料も使用。
内容:Hebel & Lenz:ヨーロッパ統合(EU)のPolitical Identityが対外的な事件による共同体外部からの刺激によって60年代から70年代にかけて形成される過程を論じる。60年代は、フランコのスペインによるEECへのAssociation申請および68年のギリシャ軍事クーデターに対するEPにおける議論を取り上げ、独裁・権威主義体制に対しヨーロッパ統合が「民主主義Democracy」「自由」「法の支配」を自らの規範としていった。69年のハーグ会談においても、ブラントは自由と民主主義の価値をECが保持していく重要性を訴えている。そしてこの流れはCSCE交渉における人権条項の挿入によって確実なものとなり、EUは自らの政治的アイデンティティとして「民主主義」「自由」「人権の尊重」を確立することとなった、というもの。
Tavani:81年のポーランド危機(連帯の誕生から戒厳令に至る政治的波乱。とくに、ポーランドへのソ連の軍事介入を西側は恐れる)に際するECの対応を論じて、ヨーロッパ・デタントとECの対内的結束のリンケージを論じたもの。ポーランド危機の際、EC諸国はデタントを維持したいという目的から東側へのソフトな対応を望んだが、アメリカは対ソ強硬姿勢を取り、それをEC諸国へも押しつけようとした。ここにECとアメリカとの間に溝が生まれ、ECはアメリカへの対抗のためにSingle Voiceでアメリカと交渉する必要に迫られる。そこで活用されたのがEPCであること、またこれ以外にも、この時点でECはソ連・東欧とアメリカとは独自の通商・エネルギー関係を結んでおり、そのような関係を維持したいヨーロッパの利益とアメリカの利益は相反するものになっていた。このような米欧間の利益の不一致により、EC諸国の対ポーランド危機に対する政策は収斂していき、このような対外政策の収斂は、マーストリヒトで登場するCFSPの一つの起源となるものだった、というもの。

評価:Hebel & Lenzの論稿は、先行研究をまとめたもの(60年代はDaniel Thomasで70年代はYamamoto!)でオリジナル性はあまり感じなかった。それに加えて、EUのPolitical IdentityがDemocracyでありHuman Rightであるという議論は二重の意味で留保が必要である。第一に、DemocracyであれHuman Rightであれ、これは普遍的な原理であるのでこれを政治的なアイデンティティとする意味は一体何か、ということに注意しなければならないこと、第二に、この原則に関する法的権限に関してはCouncil of Europeの存在が無視できず、CoEとの関係を明らかにする必要があるということである。この二つの点は論点として提示した。
他方でTavaniの論稿は、とても興味深かった。デタントと対内的な政策の収斂のリンケージが非常に説得的かつ実証的に論じられ、自分の研究にとっても参考になるものだった。余談になるが、近年統合史の有力な若手研究者はイタリア出身が非常に多い。旧来の有力国フランスからはWarlouzetぐらいか。イタリアからはMigami、Romano、Gravini、のほかいっぱいいる。

セミナーの議論としては、Political Identityってそもそも何?ということから始まり、わりと活発に、時間が過ぎるのが早いくらいに充実して終われた。11月のセミナー発表を経験してか、大学院セミナーの発表にはあまり緊張感を持たなくて望めたのがよかった。自分でも、英語のセミナーに徐々に慣れてきているのを、また議論についても80%はフォローできていることを感じる。とはいっても、それだけ介入できているか、と言えばそうでもないのだが。80%で満足せず、もっと議論に活発に入っていけるようになりたい。

◎火曜日
・某科研の共同研究の出版用原稿の締め切りだったので、一日それにかかりきり。原稿自体は昨年の今くらいに出したのだが出版社の変更によっていろいろと先延ばしになっていた。今更修正もない、と言いたいところだが、コミトロジーの現状を最後の一章を割いて概略的に論じている部分が、リスボン条約の調印によってアウトオブデートになってしまい、リスボン条約におけるコミトロジー改革についてまとめる必要が出てしまった。
で、いざ調べてみると、自分がいかにリスボン条約について知らなかったかというのがよくわかった。最近はこんなんばっかりだ。
2009年末に発効したリスボン条約のコミトロジー改革についてまとまった論文もある訳もなく、と思ったら実はあって、それはなんと同じVillaに研究室を持つあのシニアフェローさんだった。最初はなんだかよくわからなかった改革の概要が、彼の論文(長さ的にはコラムだが)を読むとよくわかった。これはすごい。


◎水曜日
・大詰めを迎えている学内某共同研究の出版用原稿について、自分の論稿が予想以上に重要な位置づけになりそうなので、草稿のややシニカルなスタンスを一掃して、見取り図を描くべく修正する。結果、「はじめに」と「おわりに」のほとんどを書きなおし。その他、こまごまとした点も書き直し。これに一日仕事になる(でも一日で終わらせる)。
・家に帰ったあと、草稿の締め切りは本年の3月末で、入稿締め切りが夏休み末だった、某共著企画の原稿に取り掛かる。これはいまだに仕上げられず(本当は一か月前くらいに書き上げたのだが)、このままではイカンということで、どうしても気になる点を修正して、編者+編集者の方に深夜送付。

◎木曜日
・セミナー予習をしていなかったので、その予習を午前中にして、15時から出席。
テーマはアメリカナイゼーション
Volker Berghahn, "Historiographical Review. The debate on 'Americanization' among economic and cultural historians", Cold War History, 10(1), 2010, 107-130.
議論としては、(1)論稿において文化伝播の比喩として、高速道路モデルとターンテーブルモデルというのが出てくるが、この二つのモデルは妥当か、(2)環大西洋史、(3)冷戦史における文化、という三つのテーマで占められる。アメリカナイゼーションは、第二大戦後の西欧の社会文化変容を捉える一つのキーワードであるわけだが、それ自体は西欧だけでなく日本をはじめとする世界のあちこちで起きている現象である。特に、それが経済史・文化史においてどのような役割を果たすか、という論稿なのだが、論稿の射程もまたこのセミナーにおける議論も、結局西欧とアメリカという関係に限定してたものとなった。唯一の非ヨーロッパ人の参加者として話が振られるかと思ったが、それはなかった。もう、こっちが口火を切らないとダメなんだな。
個人的な感想としては、論稿に出てくるDeuring-Manteufelによる冷戦期のWesterniszation(冷戦的ブロックの西側内部でのイデオロギー化)はともかく、イスラムやアジアに対するWesternizationとAmericanizationの違いをどう考えるか、といった点が気になったが、どうもこのような問題は、また別問題みたいだ。基本的にTransatlanticな枠組みとそれ以外の枠組みは分けて考えるのが正しいよう(そして後者こそがGlobal History)。しかし、やはり日本人としてそれはあまり納得できない。しかし、それがこちらの学会でのすみ分けになっている以上、なにか実証的な架橋を示す論文でも示しながら反論しない限り、ただそのようなことを指摘しても興ざめになるだけなので、難しい。

2010年11月18日木曜日

11月18日

明日からまた少しアーカイブ訪問でこちらを空けるので、さ来週の発表の準備を進める。
本当は、17時からKenneth Pomeranzが講演に来るので登録もしておいたのだが、準備が間に合わず泣く泣く諦める。
アーカイブのセミナー(内部の見学付き)もあって、Philipに行くかどうか尋ねたが、曰く「アーカイブを使ったことがない人向けの内容だし、第一しばらくしたら移転するから見学も意味なし」と断言され、そうかな、と思い行かず。その代わり発表の最低限の準備は終わる(大体60%)。あとは、関連文献をチェックして内容理解の上澄みと、言葉足らずな言い回しをもう少しなめらかにすることか。

2010年11月16日火曜日

イタリアにも柿は売っている。商品名はCachi。日本人はカチって読んでしまうかも知れないが、イタリア語的発音だとカキ。ヴェッキオ橋はPonte Vecchio。ただし、まだ食べたことはない。

11月15日

朝は9時から英語の授業。メランコリー概念をめぐる歴史論文の3パラグラフの文章に出てくる15個の動詞を消して、カッコの中に入る適切な動詞を考えよう(ただし選択式)、というもの。ペアになったイタリア人の院生とあーでもないこーでもない、と話し合う。最後にオリジナルの文章と突き合わせたが、15個中合っていたのは3分の一だった…。

13時からはいつものように統合史セミナー
今日の文献は、
Charlotte Bretherton & John Vogler, The European Union as Global Actor, Routledge, のうち第二章"The EU as an economic power and trade actor"とConclusion
Guiliano Garavini, "Foreign Policy beyond the Nation-State: Conceptualizing the External Dimension", in Kaiser & Varsori (eds.), History of the European Union, Palgrave.
で、EUの対外的側面について。
Bretheron&Voglerの文献は、主として90年代以降EUの対外経済・貿易関係のまとめ。GATT交渉やEUの対日、対米貿易についての特徴について書かれていて、文章は長いのだが、一言で言ってやや退屈。Conclusionでは政治学らしい用語が満ち溢れているのだが、正直何が言いたいのかよくわからない。
これに対してGaraviniのは、統合史における対外的側面に関する研究史のまとめなのだが、ここ最近の統合史の傾向を反映してか、60年代後半から70年代中盤にかけての統合史の対外的側面の研究がヨーロッパのアイデンティティの確立と結びつきながら展開していることを指摘している。そして最後に今後の展望が明確に書いてあり、政府だけにとどまらない政治的・経済的・社会的アクターへの注目を行うべきだと言う。特に世論、労組、シンクタンクが与えた影響などの分析の必要性を指摘する。また、68年以降の新しい社会運動がヨーロッパ統合にどのような影響を与えたのかを分析する必要がある、という。とても明確で分かりやすい。

論点は、そもそもEUの対外政策って何?、という随分ベーシックなところからスタート。たぶん、出席者がそれぞれいろんな意味で基礎的な知識が欠けている、と特に討論の進行役Aurellieが考えているからだろう。しかし議論は、対外経済関係の細かい話には一切行かず、EUが対外的や役割を果たす際のその独自性に注意するべし、という話にすぐに移行した(このあたりはRomeroが強引に路線転換)。このあたりは、第一回目のSheehanの議論とも関係するが、EUは軍事的なパワーにはならないが世界政治上の経済的・政治的なアクターではある。
SheehanはそのようなEUの非軍事的パワーのあり方にやや否定的な態度だったが、Romeroは、EUの対外的役割はCivilian Power論からも分かるように、規範的な存在として役割を発揮していることにあり、それがEUの独自性につながっていることに注目するべきだ、と言う。そして、そのようなアメリカ(や冷戦時におけるソ連)と言った軍事的存在は異なる規範的存在に自らのアイデンティティを置いたのであり、それが確立したのは確かに80年代から90年代にかけてなのだが、歴史的にさかのぼると、一つの起源は73年のヨーロッパ・アイデンティティ宣言にある、と。

と言う解説を受けて、議論は完全にヨーロッパ・アイデンティティをめぐって。出席者のうち、二人もがヨーロッパ・アイデンティティで博論を書こうとしているので仕方がないと言えばそうだが、EUの対外的側面やEUの対外政策に関する議論はどこかにいってしまった。

ところで、73年のヨーロッパ・アイデンティティ宣言については、自分も論文で取り上げたので、それが対外的側面のものとして登場したことは知っていたが(正確には、日本では対内的な側面しか取り上げられてこなかったので、それとは違う側面があることを紹介したかったのだが)、やはり話はもう少し複雑で、対外的側面(つまり世界政治におけるEUのアクターとしての独自性の獲得と発揮という側面)としてのアイデンティティ(自分はNation-Stateでもないし、米ソのような力を追及している訳でもない)と、対内的な側面はどちらもあって、うまくつながれないままにどさっと歴史の中に放り出されているような状態なのだ。

この論点は、もうすこし複雑で出席者の問題関心の傾向からして、まだまだ議論は続くだろう。
さらに、自分たち(EIHP)の統合史通史本のEU-NATO-CEレジームの議論に対して、EU-NATOがつながっているのは分かったが、EU-CEのつながりはどうなの?、という疑問を解消するもっと実証的な論点にもつながっていくような気がする。

さ来週は自分が発表者なので、自分の関心からこの論点についてしゃべってみたいとは思う。どこまで受け止めてもらえるかは定かではないが。

2010年11月13日土曜日

11月12日

今日は午前に委員会副委員長のMaroš Šefcovicの講演を聞きに行く。
ペンを忘れ、持っていた鉛筆も隣に座ったAurellieに貸してしまい(「いや僕もこれしか持っていないんだよねー」とか言って断れない自分はヘタレ)、メモは取れなかったが、聞いていて大変面白かった。
なので、今となってはうろ覚えなのだが、ポイントは二つあって一つは、共同体機構と加盟国の利益はゼロサムゲームではないこと。これは確か。いろんな例を挙げて説明していた。
もうひとつは、よく覚えていないのだが、リスボン条約によって欧州議会への権限が増し、これが全体的な意思決定メカニズムを複雑にしている、時にはマヒさせているというもの、だったように思う。何の提案だったかは覚えていないが、Councilで決定されたものが議会でひっくり返され、そんなことはこれまでほぼあり得なかったことが起こった、ということを紹介していた。

本筋からは外れるのだが、この人はチェコスロバキア(分離後はスロバキア)出身の外交官で、ベルリンの壁が崩れる前はモスクワの国際関係大学で勉強し、壁崩壊後は、スタンフォードのフーバー研究所に留学に行ったそうだ。そのとき、モスクワで一緒だった旧東欧圏の外交官の卵達は、アメリカの基金でごっそり(旧ソ連のロシア人を含め)スタンフォードに移って突如英語と英語圏の勉強を始めた、と語っていた。
旧東欧圏のエリートがモスクワとアメリカ西海岸を経て、現在ブリュッセルの中枢にいるのである。冷戦の終わりと東方拡大の意味はこういうところにも表れているのだろうか。質疑応答ではPeter MaierやPepper Culpepperなどの錚々たる面子が質問していたが(Maierの質問は理解できたがCulpepperの英語は流暢過ぎて聞き取れない)、それを軽くいなしていたのも印象的。

2010年11月12日金曜日

11月11日

今日はMentorのセミナーだったが、昨日のセミナー発表のため文献を全く読んでおらず、指定されていた分量のほとんど読み切れないまま出席。どうも疲れがたまっていて欠席しようかと思ったが、それではこちらにいる意味がないので、がんばってセミナー室に向かう。

今日のテーマは国際連盟で、Wilsonian Momentについて評価をめぐって議論は進んだ。
最初は、課題文献において第一大戦終了後第三世界(エジプト・中国・インド・Korea)の指導者の多くがマルクスレーニン主義的なAnticolonialstになったのはなぜか、というテーゼをめぐって。
その後もイマイチ論点があんまり興味深い感じがせず、発言も一度だけ。国際連盟が機能的に見れば、知識人にせよ経済問題にせよネットワークを形成し知識の伝達が果たされていった点を最新の研究はTransnational Historyの側面から研究していているが、これは旧来のCosomopolitalismとどう違うのか、という問題が出てきて、その文脈において、アジア諸国から見ればそれまで西洋的知識にはある程度の文明的標準という性格が付きまとっていたが、国際連盟が作られ知識伝達の制度化が行われたことで、従来の文明標準という性格付けが薄れたのではないか、そうならば、制度化という点においてCosmopolitanismと国際連盟におけるTransnationalismは違う、ということをしゃべった。正直、この考えがどこまで妥当なのかは自信がないのだが。。。というか、たぶんこれが日本のセミナーだったら、こういう仮説はどうか、という風に提案できるのだけど、アジアを絡ませるとアジア代表みたいになってしまう。正直これは結構問題である。
しかし、セミナーが終わった後、図書館に向かう道でたまたま一緒になったこれまで話したことのない出席者の院生(ドイツ人)が話しかけてくれた。戦間期を研究しているということで、僕の発言は非常に興味深かったそうだ。日本人はおろかアジア人もほとんどいない環境なので(日本人は四人だけで中国人がちらほらいる程度)、一応アジアの歴史はこうなっています、ということを(も)時には話さざるを得ないのだが、やはり19世紀や戦間期あたりはかなり自信がない。やはり日本政治外交史と東アジア国際関係史の教科書は持ってくるべきだったなあ、と反省。

ところで、ドイツ人院生とはその後バールでお茶を飲みながら世間話をしたが、なぜかおごってくれてドイツ語でお礼を言ったら、えっ?しゃべれるの?と聞かれ、必死にドイツ語勉強歴をドイツ語でしゃべってみた。ひとしきりしゃべったら会話は英語に戻った。やや微妙な感じだが、こちらで知り合ったドイツ人とちょっとドイツ語で話すと確かに驚かれるのだが会話はすぐ英語に戻る(こちらがドイツ語で会話を続けられる程度ではないと向こうも分かるから)。これが、フランス人相手のフランス語だと会話はどこまでもフランス語で続くし、向こうも英語に戻す気はさらさらない。

第三国で独仏双方を見てみると、正直なぜ独仏友好が成立したのか不思議なくらい気質は違うなあ。「理性的な結婚」という説明が実感として伝わってくる。

2010年11月10日水曜日

セミナー終了

こちらの研究所のセミナーが終了。タイトル(発表順)は以下の通りでした。
(自分):From Community to Polity? History of Comitology and the Development of Political Systems within European Community, 1960-1986
Philip Bajon, Votes and Vetoes: The Legacy of the Luxembourg Compromise 1966-1986
Aurellie Elsa Gfeller, The European Parliament in Historical Perspective
Philipの発表は、ルクセンブルグの妥協によって形成された、彼が呼ぶところのVeto Culture(ECの意思決定に関し、本来QMVで議決を取ることができるのに議決を避けるために決定をしない)が、SEAの採択までに、一体どのような理由で衰退していったのか、ということを研究していく、というもの。政府間的な交渉だけでなく、メディアやEPにおける政党勢力の言説を追いながら検討していくという。
Aurellieのは、EPの直接選挙以降に最初に議長に選ばれたSimone Veilを取り上げ、EPがヨーロッパ統合に対してどのようなインパクトを与えたのか、ということを検討するもの。プレゼンを聞いていると非常によく練られていたように感じたのだが、こうして日本語にすると何かが足りないなあ。

自分の発表に対して、Adrienne Heritier(!)が「大変面白い研究計画で言いたいことはたくさんあるのだが」と前置きしたうえで、「コミトロジーが拡大したのは何の役割rolesがあるのか」という質問をした(自分が聞き取った発言を直訳するとそういう日本語になる。英語での質問文は非常に短かった)。正直意味が分からず戸惑う。ちなみに、Heritier自身、コミトロジーとEU政治過程で論文を書いているので(ただ読んでいない)、自分で解釈し直して、あなたが聞きたいことは、コミトロジー委員会の数の量的拡大はその性格の質的変化を意味するわけではないということなのか、と聞き返した。
すると、彼女は、言いたいことが全く分からないと返答。司会のKiranがもう一度質問を繰り返すのがいいでしょう、とHeritierに促してくれた。それでもう一度質問しなおしてくれたのだが、どうも彼女が聞きたかったのは、「一般論としてコミトロジーが拡大したのは何が原因と考えられているのか」というかなり単純な質問だったようである(Heritier本人は発表者からのコメントを聞いたら途中で退席してしまったので他に言いたいことが何なのかは不明)。
さらに、Romeroから、君が取り組む変化というのは一体どういうアナロジーが考えられるのか、という質問。
というわけで、その質問にああでもないこうでもないと返答。非常に聞き苦しい、プリミティブな英語で恥ずかしい限りだが。。。
その後、コミトロジー委員会に昔務めていたという例のシニア・フェローより、非常に有益なコメントをいただく。

全体的に、自分の取り組むべき議論の射程とこれから詰めていかければならない課題がよく見えた。終わった後、Heritierからの質問を全然理解していなかったゆえに頓珍漢な返答をして彼女に全然通じなかったことについて、自分の隣に座っていたアメリカ人のFellowと話したら、「いや私はあなたの言いたかったことを理解した。こういうことだろ。○○」と言ってくれた。それはその通りだったので、言葉が通じなかったからと言ってむやみに落ち込み必要はないのかも、と思った次第。

それと、Heritierはフランス系ドイツ人だとばっかり思っていたけど、実はスイス人なのだとか。それにしても、彼女がセミナーが始まる直前に部屋に入った時には緊張が走った。彼女のような研究者からコメントをもらえるとは。。自分への質問は極めて単純だったが、PhilipとAurellieへの質問は非常にシャープでかつ辛辣だった。この二人と比べると、自分の研究は仮説がない状態に近い本当に手を付けたばかりの研究計画だったからであろうか。いずれにせよ、今日は出発点に過ぎず、まだまだ論文完成までの道のりは長い。

*追記
セミナーが始まる前、研究室が入っているVillaが同じの委員会から派遣されているEU Fellowという肩書の人(ややシニアっぽい。スペイン人だが英仏どちらも非常に流暢で、かつとっても気さくに話してくれる)の人から、Comitologyについてその後の研究はどう?と聞かれて、コミトロジーの発展とその意味に関する自分なりの現在の仮説を少し話してみた。すると彼は自分の仮説をとても興味を持って聞いてくれた。そしてその仮説の検証は、セミナーが閉める際に司会のKiranが、今から君が取り組まなければならないのはこういう点じゃないのか、というアドバイスとぴったりはまっていた。ただ、自分の考えているその論点を、どういう史料から読み取っていいのかがまったく見えないことが問題であり課題。

ところで、どうしてそういうことを書くのかというと、昔留学から帰国して、自分が博士論文の構想について迷っていたとき、指導教官のT先生の部屋を何らかの理由で訪れていたとき、不意にT先生が、博論の全体的な構想の話を振ってきた。その時まで、ド・ゴール外交の展開と独仏関係をその政権時期全体までカバーすることは、かなり漠然としか考えていなかったが、DEA論文で扱った内容やその時自分が考えていることをつらつらとしゃべっているときに、「○○という軸を通すのであれば、69年の辞任の時期まで含めないとだめですね、でもそれはちょっと大変だとおもうので…」ということをT先生にしゃべったのだ。しかし、「それは大変(無理かも知れない、という風にしゃべったかも)」と自分で話しておきながら、それを話しているのと同時に、でもこれはそうせざるを得ないしそうすることで拡散する話が一つの物語にまとまるのではないか、ということを思いついた。

歴史は常にごちゃごちゃしていて、内容としては矛盾していて、一本の話の道筋を見通すことは難しい。史料に基づくとなおさらである。それでも、ある瞬間に、その道筋が突然開けることがある。
今の研究は、その道筋が見えている状態ではないが、それでも、歴史研究をやめることができないのは、あの道筋が見えた瞬間の感覚を覚えているからだろう。その感覚を忘れたときは、歴史研究は店じまいするときなのかも知れない。

2010年11月9日火曜日

とりあえず

明日の発表用の原稿とスライドが完成。研究報告ではなく、研究計画報告はたぶん初めてかも知れない。科研等で、こういう研究する予定です、見込まれる成果は○○です、というのは書き慣れていたつもりだが、あすはすぐさまフィードバックがあるので、いい加減なことは書けない(科研のがいい加減という訳ではないのだが)。また、他の人も言っているのだが、研究自体は進めていくうちに予期せぬ知見を発見し、当初の研究計画が(良い意味で)狂うことがある。そういう将来的な未知項目を織り込むことは基本的に不可能なので、根本的にあいまいな計画にならざるを得ない。

ということで、問題は発表ではなく、発表後の質疑応答の方だ。

当座の発表までにパソコンが持ちそうで安心。しかし、本当に壊れたらどうしよう。。。

オリンピックでの敵はオリンピックで取る

オリンピックの時、前回出場したにも関わらず成績があまり振るわなかった選手がよく「オリンピックでの失敗はオリンピックの時にか晴らせない」というようなことを言っている。

自分はまったく運動下手だがその気持ちはよくわかる。
研究者の場合、研究で犯した失敗は研究でしか挽回できない。研究がうまくいかないストレスは、研究を進めることでしか晴らせないからだ。

思うに、スポーツの世界と研究の世界は、一見対極にあるようでその実よく似ているところがある。研究の世界は、一見するとコネと人脈と水面下の根回しが横行する世界のように考えている人もいるかも知れないが、最終的には研究成果という名の実力がモノを言うし、結局実力がない人は消えていってしまう。また、ある時期までに成果を出せなければアリーナの中から排除されてしまうのも、スポーツにおいて試合や大会で結果を出せない人がそのうち消えてしまうのと同じだ。

あと、とりわけこちらの研究者(院生を含め)を見ていて思うのだが、太っている人がほとんどいない。基本的に不摂生しないことと、ランニング、サッカー、自転車等の運動を定期的にする人が多いように感じる。つまりは、自己管理ができるかどうか、という点で、やっぱり研究とスポーツには不思議な共通点が多い。

2010年11月8日月曜日

パソコンの調子が…

おかしい。昨日、スリープ状態から復帰させた途端に、ピーという音が鳴りはじめ(かなり大きい)、止まらない。動作は通常通り動くようだったので、バックアップを取ってなかった当座重要なドキュメントファイルをUSBに移して電源を落とす(それがいいのかどうかわからないが)。
本日、セミナーが終わって電源を入れたところ、どうも音はならないようだ。しかし、このPC、正直動作が不安定なのところがあるので、いつHDDがクラッシュしても不思議ない気が…。

さらに悪いことに、仏和・和仏、仏英・英仏、仏仏、和伊・伊和、英和・和英、英辞朗、独和・和独のアプリが入っているi-pod Touchが行方不明に。金曜日に食事に行く時に机の上に置いてからの記憶がない。今日、家にも研究室にもどこにもないことが分かり、同室のPhilipやこのVillaのセクレタリアの人に聞いたがどうも心当たりがないという。清掃の時に落し物として拾われていないかを担当部署にメールで問い合わせる。

2010年11月5日金曜日

11月5日

お昼に、来週のセミナー打ち合わせのためのワーキングランチ。結論から言えば、ほとんど一から書き直し。こちらの研究テーマとしてコミトロジーの歴史研究を挙げたのはいいが、歴史研究をする意義をもっと押し出す必要があるというコメントに加え、Aurellieが言うにはKnudsenが数年前からこのテーマで研究しているとのこと。

2010年11月4日木曜日

11月4日

昨日は家に帰ってからもセミナー発表用原稿にうんうん唸るが時間も量も限られているので(そもそも発表は、こういう研究をします、という研究計画の発表であって成果ではない)、最低限の文章を活字化していく。
というのも、木曜日までに草稿を三人の発表者+Mentorに送って金曜日のランチでその内容を話し合う、という計画だからだ。なので、今日がタイムリミット。
最初は英語で考えてそれを英語で書いていっていたが、やはり自分の付け焼刃の英語力では数日後に読み返すと幼稚園児のような文章なので、ある程度日本語で書くべき内容を文章化して、その日本語を英語に直しつつ英語であれば必要な論理構成に変えていく、という方向に転換。英語の文章は何回か書いているが、結局のこのようなやり方でしかうまくいかない。これってどうなんだろう。
夜中の3時前くらいになってようやく一通りの文章が完成して就寝。起床は9時。やはり6時間寝ないと頭が働かない(すいません)。研究室に行って昨日書いた文章を読みなおしてこまごまと修正していく。12時半にいつものように同じVillaの面子がランチに行くがまだ完成しないので先に行ってもらうが13時前に送付完了。
昼食後、15時からのセミナー準備をしてMentorのセミナー(International History)へ。今日のテーマは各国のInternational Historyの研究状況について。せっかく日本からの出席者がいるのだからと自分も今日は発表を割り当てられていた。かなりラフながらも、日本の国際関係史研究を東アジア国際関係史の系譜と日本政治外交史の系譜に分けながらスケッチしたペーパーは、結局9ページになってしまった。正直10日のセミナーよりもかなり熱心に書けたし、書いていて楽しかった。実際、出席者も割と興味深く読んでくれたようだ。イタリアのケースについて本当は院生が発表する予定だったのだが、テキストの指定を間違ってしてしまい、急きょ教員のRomeroが自分が昔書いた論稿をサマライズしたのだが、イタリアの状況は日本の状況と似ていて面白いとコメント(ということはIさんに聞いて知っていたのだがRomeroが言うと実感がわく)。相変わらず英語は時々我ながら意味不明になるのだが、ペーパーを書いたお陰か、原稿を見ないまま5分くらい発表する。一応なんとか上達はしているのだと自分をほめておきたい。
セミナーの論点は、最初は国際関係史研究と各国のNational Identityとの関係について、後半はCultural Turnの国際関係史研究の影響についてだった。前者はともかく、後者はよくわからず。ただ、前者を議論している際ちょっと介入できてしかもそれを踏まえたうえで議論が続いたので、ようやく最初の関門を突破した気になる。重要なのはこれを続けることだ。
セミナー終了後は図書館に戻り、昼食前に送ったセミナー用原稿を読み直す。すごくプリミティブな文法間違いを大量に発見、で現在に至る。

2010年11月2日火曜日

11月2日

週末から火曜朝までのパリ出張の間に11月。Easyjetを使っての帰還だが、4回乗って4回とも着陸時に拍手が出た。ヨーロッパ線の短い距離だっちゅうのに。なぜ?
あと、Easyjetのすごいのは、後ろの扉も使って客を出し入れすること(LCCはどこもそうなのか?)。基本デッキを使わないのでそれが可能なのだな。余熱たっぷりでクールダウン中のエンジンの横を通り過ぎるのはなかなか迫力がある。一人の移動で荷物が一個にまとまる場合は、Easyjetは本当に楽だ。一日数本の長距離列車の自由席に乗るような感覚。

イタリア帰還後はそのまま研究室に行き、まずは木曜日のセミナー原稿を送付。その後来週のセミナー発表用原稿に手を付けるが、どうも進まない。時間だけが無駄に過ぎてそのまま帰宅。家に帰っても集中力が切れた状態が続く。

2010年10月30日土曜日

労働することと創造すること

今から10年も前の話、最初の留学(3か月の短期だったけど帰国したあとさらに長期留学を予定していたので自分の中では連続している)を始めようとしたとき、自分は日本と言う国を飛び出したこともなかった。留学へ向かう飛行機は、自分にとって初めての外国行きの飛行機だった。

日本を飛び立つ前の日の晩、今は奥さんになっている当時の彼女と当座最後の食事をトンカツ屋で食べていたとき(←彼女との当座最後の食事をトンカツ屋で取るな、とかは言わないこと)、ふいに、自分の中で味わったことのない感覚に襲われた。

ヨーロッパは好きだったけど自分にとって海外に行くなんてドコか他人事だったのに、今自分は留学に向かおうとしている。誰に命令されたわけでもなかったのに(直の先輩方がみんな留学していたので当然とは思っていても)、自分でいろいろ手配して今飛び立つところまで来ている。何もなかったところから何かが生まれようとしている。そうか、これが仕事なんだな。自分は、いわゆる会社で働いたこともなければ、今自分がしたこと(留学の手配)は金銭的利益や儲けを生むような行為でも、何か目に見える作品や知識を生み出したわけでもないけど、でも何にもないところから、そのままの状態では生まれなかったような何かを自分で作り上げたんだな、ずっと学生・院生を続けていて、自分は働いたことのない人間だとずっと後ろめたい気持ちを持っていたけど、生みだそうとという意思と行為がない状態を続けていたままでは生まれなかった、でもそういう意志と行為を持つことでどこかから生まれた何かを生み出すことを人は労働というのだな、と初めて実感した。「仕事として研究しているんだ」というようなセリフは吐いたことはあっても、肌感覚として、自分が何をしているのかを、それにどういう意味があるのかを知るためにはどうすればいいのかを分かっていなかった。

日本最後のトンカツを前にして、いま書いたようなことを一瞬で知覚した。ちなみに、僕はトンカツが大好物である。で、そのようなことを彼女(奥さん)に話してみた。彼女はやさしく、うんうんとうなずいてくれた。

なんでそんなことを思い出したのかというと、今こちらで研究員として過ごしているうちに、こちらの人間が研究という知的活動にどのような意味を見出しているかについて、あの時トンカツ屋で知覚したことと似たような認識を抱いているからではないか、と感じたからである。
自分の周りにドイツ人が多いからか、Fellowや院生の人が教授に接するときはかなり慎重に接している。OnとOffがはっきりしているので、コーヒーで休憩しているときに研究の話をいきなり話すのはためらわれるところもある。つまり、研究することで生まれる新しい認識を非常に尊重しているからなのではないか、と。研究とは、物事への新しい認識を生む作業であって、それはどの領域でもはっきりしている。理系と人文社会科学系の違いは、その「新しさ」の意味的違いにすぎない。理系は、これまで分かっていなかったこの世の世界の仕組みを明らかにすることで、その「新しさ」は知識として共有できる。これは分かりやすい「新しさ」である。
これに対して人文社会科学における「新しさ」とは誰もしなかった認識、説明や物事の把握の仕方にあり、これは必ずしも「知識」とは限らない。それは「理解」へのこれまでとは異なった説明であり形容であり注釈であり、論理的に拡張され、それまでにはなかった認識を生む限りにおいて、「新しい」。

そう考えると、働くとは、仕事をするとは、何か新しいものを生み出す作業に他ならない。労働することとは創造することで、僕は自分がどういう新しいものを生み出そうとしているのかを、もう少し注意深く認識していこうと思う。

2010年10月28日木曜日

10月28日

午前中はセミナー用文章をひたすら考える。
お昼はIさんとちょっと遅めだが一緒に取る。ANの使い方について。
15:15-17:00:Mentorのセミナー。なんというか、セミナーのことで頭がいっぱいなのでほとんど予習もないままに臨み、非常に後悔。発言しても、本当に途中から何を言いたいのか訳が分からず(というか、特に発言したかったことがあったわけではなかったのだが、とにかく何かしゃべらなければと思ってとりあえず話してみたが、やっぱりこれは自分にはまだ高等芸能だった)、やさしいMentorの先生が「今の発言、みんな分かったかな」とやさしくフォローしてくれるもFirst Year Researcherの一人から一蹴される。
なお、議論の前半はGlobal History/ World History/ Transnational History/ International Historyの違いについて、後半がInternational HistoryとGrand Narrativeについて。後半の論点は何故Grand Narativeが問題になるのかさっぱり分からず、その論点を提起したドイツ人のJanが顔見知りなので、セミナー終わった後に聞いてみた。自分の理解した範囲では、AcademicなNarrativeと歴史教育におけるNarrativeはかい離しており後者は政治的動きから大きな影響を受けるのが常。アメリカにおけるInternational Historyという傾向はアメリカの対外政策の動きに大きく影響されているのではないか、というもの。
セミナーは、毎回奈落の底に突き落とされる感覚を味わうが、今回はなかなかキツかった。。。

2010年10月27日水曜日

10月27日

前日は、夕食時にこちらの大学に来ている日本人Fellow(+その奥様一人)の計5人で初めてのお食事。大変おいしかった。経済学、法学、政治学、歴史と専門分野は違えど、抱えている悩みや問題はあんまり変わらないのだなあ、と実感。

本日は、少々起床遅く10時半に研究室着。ところで、起床する直前に見てた夢は、昔自分のゼミにいた大学院進学組の学生に短期でいいからEUIに留学しなさい、と説得するものだった。
Villaに来てみると誰もおらず、ちょっと不気味なままセミナー報告のためあれこれ頭を悩ませる。昼食時に合流。Villaに戻った後、今日発表するドイツ人のFellowとPhilipを交え少しプレゼンの方法について話をする。どうも、同室のPhilipは、来年度もEUIに残りたいので出来るだけプレゼンの印象をよくしたいようだ。しかし、EUIに来年度もFellowとして残れるのはまた制度的な問題もあるので、そのあたり、最近彼を悩ませているよう。

2010年10月26日火曜日

本日の作業

研究室で一日11月10日のRSCASセミナーのプレゼンのための文章づくりと、それに飽きたら、4日のセミナーで話す、日本の国際関係史研究についての文章。後者はまず日本語で書いてみた。
結構長くなった。5分、と言われたが、どうかなあ。

2010年10月25日月曜日

本日のセミナー

本日の統合史セミナーの記録
マテリアルは、
Piers Ludlow, "Widening, Deepening and Opening Out: Towards a Fourth Decade of European Integration History", in Wilfried Loth (ed.), Expercing Europe, Nomos.
Wilfried Loth, "Explaining European Integration. The contributions  from Historian", Journal of European Integration History, vol.14, n.1, 2008.
Mark Gilbert, "Narrating the Process: Questioning the Progressive Story of European Integration", JCMS, Vol.46, N.3, 2008.
ヨーロッパ統合史のヒストリオグラフィーについてであった。
内容としては、前二者は研究史をまとめたうえで、統合史の次の課題として以下を提示する。最初の四件がLudlow、最後がLoth。
(1)How Institutions work? : 組織の中の詳しい動きを捉えること
(2)Enlargement:拡大を契機として、共同体のNatureがどのように変わったか、変わらなかったを捉えること
(3)統合史をヨーロッパ史・20世紀史に組み込むこと。これはどちらかと言えばシニアな研究者がすべき。
(4)統合による国内社会、経済、文化へのインパクト及び変容を捉えること
(5)民主的正統性と政策決定上の効率性との関係について
これに対してGilbertは、統合を常にProgressとして規範的善と捉える傾向が常にあることを指摘して、そこからの脱却を説くわけだが、出席した学生からは、Gilbertへのシンパシーは大きかった。ちなみにLothはConservativeで説得的ではない、という反応(と言ってもサンプルは三名だけなのだが)。
やはりというべきか、議論はLudlowの議論をどう批判的に捉えるか、という線にそってすすんだ。Romeroから出されたのは、Ludlowの議論は大変Usufulだが、統合の現状を追認したうえでの研究アジェンダの提示であることに注意すべきだ、というもの。
Lothの議論は統合の起源に関するもので、起源を論じることは戦後秩序がいかに生じたのか、ドイツ問題をどう乗り越えるべきだったのか、という問いの設定がある。Gilbertも、EUというのはどういう意味でモデルとなりえるのか、という議論の問いかけがある。それに対して、Ludlowのには、そういう問いかけがない、という。Romero氏は、What is the studies of European Integration History for? という問いがLuddlowにはないのだ、と。
それを踏まえたうえで、にもかかわらずと言うべきか、これから最も困難で最もチャレンジングな研究は(4)=というであるというのが、RomeroとAurelieの共通した見解だった。これはちょっと自分には意外だった。ヨーロッパ統合がそれぞれの国家の国内社会、文化、商慣習、空間認識、もしくは人々の心情・世論にどのようなインパクトを与え、それをどうのように変容させたのかを史料で跡付けることは大変難しい、というのである。
たぶん、このような研究は、国内史の延長線上として可能かもしれないが、実際にナショナルな史学をしている人がこのような関心から実証研究に乗り出す可能性は非常に低いし、史料的な問題からも、史料で跡付けるのはいろんな困難がある。世論調査(ユーロバロメーター)は1970年代からだから、それ以前のことはデータがないし、そもそもユーロバロメーターでは測れないような問題が出てくるのではないか、とも。なぜ困難なのか、という点については、議論が追えない個所もあったが、とにかく、この問題がフロンティアなのだ、という認識はある意味歴史学的なアプローチから見たことと、かつヨーロッパ人の視点から見ているからなのかも知れない。というのも、Romero氏は、自分がEuropeanだ、という認識をそもそも持つようになるのは大変複合的な過程を経てそう感じているのであり、その過程がなぜ生まれていったのかをきちんとさぐるべきだ、とも言っていたからである(但しこのBeing Europeanという論点は、上述のImpact論点の前に独立したものとして提示されたが、自分には連関しているようにしか思えなかった)。

それにしても、自分が参加しようとしてもイマイチ議論にならない(質問にしかならない)。自分が参加した企画でも某Edさんの論稿がまさにそうなのだが、こういうものにはコメントがしずらい。たぶん、研究は実証研究でしか進まず、その傾向はより史料と現状の二者に左右されるからであって、この二者への傾向をどのように考えるかを差し置いては、あまり大それたことは言えないからである。

それと、もうひとつの問題は、ヨーロッパ統合それ自体が持つ(もしくは持たないように気を付けても帯びざるを得ない)Model性、もしくは規範的な含意をどう考えるか、というものだった。この点について、日本でEUを研究するのはやはり規範的な意味があるのか、と話が振られたので、基本的にはそうだが、できるだけ「中立的に」やっているつもりだ、と答えたら、「中立的」ってなんだ(そんなことは可能か)、という返答が返ってきて答えに詰まる(情けない)。よく考えてみれば、その「中立」はどうすれば可能なのか(歴史研究であっても同様なわけで)、ということを議論しているのに、そうやっていると答えても答えにならない。消化不良感がつのるが、英語でモノを考えながら議論をするのは自分にはまだまだ修行が足りない。
しかし、英語ですらそうなのに、これをフランス語でするのは恐ろしいくらいにエネルギーを掛けないと無理だなあ。いや、正確にいえば、最初にフランスに留学してから、それを可能とすべく研究を続けてきたわけだけど、たぶん、この拙い英語の方が、自分のフランス語よりレベルは上だろう。ようやく日常会話には困らない程度にはなってきたが、それでも議論をきちんと理解して反論するような芸当までには至らない。
ところで、パリでフランス人と何か(オフィシャルなものを含め)しゃべっていて「今のところが分からない」とか言うと途端に不機嫌というかすごくぞんざいな扱いを受けるが、ここの英語のいいところは、「よくわからない」と言っても許されるところだ。ただし、しゃべる時にはきちんと話せないとやっぱり相手にされなくなる点は同じ。つくづく、知性と言語運用能力は「ある程度」比例すると思う。

2010年10月21日木曜日

便りがないのはよい便り

今日のお昼に同室のPhilipとしゃべっているときに、「便りがないのは良い便り」ということを言おうとしてThere is no news, that is ..と言おうとしたら「Good news!」とすかさず言われた。そうか、これは英語でも言うんだな、と思って今調べたら、もともと英語のことわざ(No news is goog news)だったことを知る。

10月21日

朝:アーカイブで仕事。あまりはかどらない。
昼:研究室のあるVillaでBrasilian Lunch。なかなかおいしかった。ただ、小豆でソーセージを煮た料理があり、それだけは手を付けられず。
なお、昼休みに、Commissionから出向中のFellowの人にComitologyは訳が分からないということを言ったら、その後、すでにCommissionを退いたSenor Fellowの人が昔Cmitology関係で働いたことがあるから彼に聞いてみるといい、と教えてくれた。六月に一回だけしゃべったことがあった人だが、糸口が見つかるといいなあ。問題は何を聞くか、だ。
午後:これからMentorのセミナー。今日のテーマは国際関係史における「文化」の位置づけ
*セミナー後の追記
 今日の論点
(1)IRにおけるCultural なTheory(どうもコンストラクティヴィズム)と歴史研究をどうIntegrateさせるか?
  ←議論が空中戦であまり進展せず。Mentorの先生より、では歴史研究で歴史学以外の学問に影響を与えたTheoryってありますか?の問い。みんな(自分も含め)答えられず(歴史学にとって大事なのはApprocheはあってTheoryではないのでは、という回答をした人あり)。考えてみれば、MarxもWallersteinも歴史的思考としては大きな影響を与えているが、「歴史学」ではないよな。
(2)文化の定義
 文化をどう定義するのか、という論点に次に移ったが、最初の人が一言Common senseと言ったあと議論をフォローできず。Common senseではないだろう、と思ってしゃべろうとしたのだが、議論の進展がどうも分からず入っていけない。こういうときは、最初に戻るんだけど、と一言言えばいいんだろうけど後の祭り。
 その後、文化を分析対象とするのか文化そのものを分析するのかの違いの指摘や、国際関係史における文化の使い方は、いわゆる因果関係の同定というよりかは影響・受容の作用を考える時に使われる、という話に。
 全体的に、今日のKick-offコメンテーターを務めた院生の博論テーマが冷戦期におけるアメリカのプロパガンダのフランスとベルギーへの浸透・影響というもののため、この人の研究の周りでぐるぐる話が回転している感じだった。
 
 自分としては、「文化」と呼ばれるものの中に入っている現象があまりに多様で、そのあたりの類型化を先にしなければならないのでは、ということと、セミナーで扱った文献は基本的に「文化」をさまざまな人間集団が共有可能なものとして考えている前提に立っているが、どうもこれには違和感があった(クリストファー・ソーンの『太平洋戦争とは何だったか』は共有不可能な文化観念というテーゼを出していることを文献では扱っていたのだが、これに言及した人はいなかった)。ということをセミナー中に話せばよかったのだが、タイミングがつかめず失敗。そのことをセミナー後にMentorの先生と少し話した時に、「あまり気にせずとにかく議論に参加してね」と言われる。

 セミナーが終わったら、昨日結局いけなかった例の契約に行こう。

2010年10月19日火曜日

EUIアーカイブ

本日は趣向を変えてアーカイブ作業をすることに。パリで取ってきた史料はまだ山のようにあり、まだまだ読み切れていないのだが、いかんせん技術的すぎて何が問題なのか、その見取り図が全く読めない。
なので、より「政治的」な文書から読んでいこうと路線変更。まだ、こちらの成果として書くべき論文の骨格を探している最中で、どうも「コレ」と腑に落ちるネタになりきれていない。
それで、とりあえずEmile Noelの史料を読み始めるが、(機構としての)ECはこの人が作ったんじゃないかという気がしてくる。それと、Noelの史料カタログは、ネットで公開されているのだが、Pdfファイルで載せているのは旧バージョンで、新バージョンはWebから直接入ってくページとなっている。これまで旧バージョンのPdfを一度ダウンロードした後ずっとそれで史料を探していたので、新しいカタログを見て愕然。
それにしても、しばらくEUIアーカイブから遠ざかっていたが、特に個人文書の充実がすごいな。個人文書から探っていけば、1980年代の研究もそんなに難しくなくなってきている。今日の閲覧室利用者は自分も含めて二人だけだが、もう一人はAS文書の中のエディンバラ欧州理事会(ってことは1990年代じゃないか)の文書を閲覧中の様子。

それにしても、現アーカイブにはアパートから歩いて行ける。これは幸せだ。もう少しで移るのらしいが。。

2010年10月18日月曜日

10月18日

9:15-10:45:English Writing 時制の文法問題、ディクテーション、わざとクロノロジーをバラバラにした文章をもう一度組み立てなおす練習。ディクテーションは難しい。

13:00-15:00:統合史セミナー。本日は脱植民地化がテーマ。統合史と脱植民地化はどのようにつながっているのか、脱植民地化は何故起きたのか、を二大論点にして議論がスタート。出席者は自分を含めて4人だが、HECの院生が親戚か友達の結婚式のため欠席とかで3人のみ。
以下セミナーの議論の記録。まず最初に、報告者が簡単な内容報告と論点(上記の前者)を出したのだが、なぜ統合史セミナーで脱植民地化の文献を取り上げたのかという問いがRomeroから出されて、それに自分がヨーロッパ国家の力の衰退により帝国の維持とヨーロッパ統合の両立が不可能になったためヨーロッパ統合に取りかかろうとした西欧諸国家は脱植民地化することとなった、ということをしゃべった(実際の英語はもっと単純な内容でしかしゃべっていない)。
するとRomeroがその理解はあまり単純すぎるということで、統合史と脱植民地化のリンケージは以下の三点と指摘する。
(1)ヨーロッパの衰退(という点でこの二つは同じ潮流)
(2)ヨーロッパ自身の変化(社会、人々の価値意識、外交的手法)
(3)国際システムの変化:戦間期から冷戦へ
①についてはまあいいとして、Romeroが強調していたのは(3)だった。植民地が形成されていた英仏が帝国だった時代は、国際システム自体が英仏を中心とするものとして機能していた。戦間期にはそのシステムはすでに衰えを見せてはいたが、冷戦になるともっと劇的な変化が起きる。それは米ソ(特にアメリカ)による人々の自己決定と民主主義の価値をめぐる対立だったので、第三世界の人々の自己決定を即す脱植民地化は冷戦という国際的文脈においては非常に好ましいものだった、という説明。
(2)については、ヨーロッパ統合というのはナチ自体もそうで、1930年代のNaziの政策はEuropean Projectだった。アメリカに対する対抗、ヨーロッパ自身の経済的・技術的・政治的結集しかし、Naziが失敗した理由の一つは、Naziがそれまでヨーロッパ域外の国家に対して用いられていた植民地主義的ロジック(Racialなもの、強者が弱者を征服し支配するというもの)をヨーロッパ域内に持ち込んだことで、これはヨーロッパの人々には受け入れ難いものだった。
また、第二次大戦をはさんだ変化として、外交上の振る舞いとして、征服、支配、コントロールと言った行動から規制、合意(妥協)、交渉、という風に変化があった(なぜそのようにな変化が起きたのかはともかく)。
サブ教員のAurerieからは、脱植民地を促進した要素として、経済発展を受けて、「成長」というものを人々が非常に重視するようになった、という指摘。

議論(というかRomeroからの説明)はもうちょっとニュアンスに富んだもので、どうも日本語にするとそのニュアンスが飛んでしまう。これは、ニュアンスに富んだ日本語を英語にしようとするとものすごい単純化されたものになってしまうのと似ている。

今回は、発言はできたが、議論に対してあまり貢献できなかった。なかなか難しい。

セミナー出席後はオフィスに戻って某Yさん企画原稿。
ところで、隣のオフィスにデスクがあるカナダ人の女性のFellowのアパートにすごい数の虫が発生して大問題になったそうだ。直接本人から聞いた訳ではないのだが、恐ろしい。。。

先週の記録

木曜日
こちらの研究所のMentorになっている先生(と言ってもあんまり年は変わらないようなのだが…)のセミナーへ。月曜よりやはり出席者が多く、文字通りのオブザーバーとして参加可能、と思ったが、一度、日本の状況について5分ほどしゃべることに。先生がやさしく、議論の途中で話を振ってくれたのでしゃべることができたが、英語がひどく、だんだん先生の顔が曇っていった。

金曜日~日曜日
家族のもとに帰郷。Easyjetを初体験。確かに、ヨーロッパ内で荷物が少ない場合の移動は楽だ。値段は、格安航空会社とは言っているがそんなに格安という感じはしない。大体日本の国内移動の料金とあまり変わらないのでは。飲み物・食べ物が有料、席が自由席(早いもの順)という点もあんまり気にならない。問題は、無料荷物が手荷物含めて一個までなので、機内持ち込み用の荷物以外にスーツケース等を持っていく場合は20ユーロくらいの(たぶん旅程によって値段が違う)チャージが掛ることと、チェックインや荷物預入の時あまり時間がないのですごく込むがネックか。
日曜日の11時半に自宅に戻る。部屋に入ると、やはり臭いが気になる。どうしたものか。

2010年10月13日水曜日

最近は

つぶやく人ばっかりだなー

今日の予定
催促がついに届いた某企画テキストのため図書館で作業。図書館の中にある外交文書を集めている部屋が大変快適なことを知る。四方を外交文書で満たされているってなんて幸せなんだろう。
16:00からは研究所の初回セミナー。

2010年10月12日火曜日

本日の予定(10月12日)

・木曜日のセミナー予習(ペーパー二本):たぶん、月曜日のよりかは出席者は多いだろうと希望。
・史料読解。100ページくらいは進みたい。

それと、9月に送った二個の段ボール箱のうちの一個がようやく今日届いた。ネットで追跡できるのだが、ずっとRhone-Alpeの郵便局で留め置かれていて、ついには先週の木曜くらいには「送付停止」とまで表示されたのだが、今日になって、ビニールテープでぐるぐる巻きになって送付。予想はしていたが段ボールが破けてしまい中身が飛び出して修理していたのだろう(と言ってもそれ自体に時間はかからないので放置されていたに違いない)。あと、なぜか入れてもいない10cm四方の正方形の木材が入っていた。謎。
でも、正直70ユーロ近く払っておきながらもう郵送してくれない(し、たぶん返送もしないだろう)と思っていたので、フランスの郵便局もサービスが良くなったように思う。

*午後の追記
史料の読解。前にプリントアウトしていた60ページ分は終わるも、200ページ分の画像処理に一時間かかり、さらにプリントアウトがうまくいかずまだ終わらない。

2010年10月11日月曜日

本日の予定(10月11日)

土曜日は図書館でYさんの某企画の原稿。なかなか進まない。
日曜日は10時に大家さんと家の契約の話をした後ややダラダラ過ごし、2時くらいから5時くらいまで目の前の公園のベンチで来週のセミナー用のアサインメントを読む。以外に集中して読めたのと、論文自体が非常に面白かったので大変為になった。
夜は某企画原稿。やっと半分まで進む。
で、本日月曜日の予定
9:00-11:00:English Writing←と思って来たら先生がインフルらしく休みだった。もう一人の先生にメールを送ったのだが、と言われたのだけれど届いていない。
13::00-15:00:統合史セミナー
15:00からはEU法セミナーでVan Gent En LoosとCostaVs Enelについてのゲスト講演が統合史セミナーの隣の教室であるので聞いてみようかと思う。

*午後の追記
セミナー終了。出席者4名、うちVisiting Student1名、SPSの2nd year Researcherが一名、HECの1st year researcher(本来出席すべき対象)は一名のみ。その次には「政治と暴力」というセミナーがあったようだが(出てない)、こっちはほとんどの学生が出るようで、セミナーが終わった後大量の学生が扉の前で待っていた。
セミナーの内容はTony Judt, Postwar のLost illusionとSheehanのWhere Have All the Soldiers Gone?: The Transformation of Modern Europe のWhy Eurpe will not become a Superpower? の章がアサインメントで、テーマはFrom Warfare to Welfareというもの。議論はどちらかと言えばSheehanを対象として進んだ。Sheehanの議論の中心は、ヨーロッパ統合によって西欧国家は軍事的な性格を弱めCivilian Stateになっており、これがEUの今後を左右するのではないか、というもの。冷戦後の米欧間の衝突やユーゴ紛争に伴うヨーロッパの独自の安全保障能力の確保の必要性という方向性によってEUは安全保障上の領域の統合を目指すが、ナショナルレベルでのCivilian Stateの性格付けにより、EUはSuper-StateにはなってもSuper-Powerにはならないであろう、と述べている。
とりあえずセミナーで出された論点をリスト化すると
・国家Stateは本当にVilolentでなくなったのか。
・統合によって加盟国がWelfareを選んだ要因は国際的なものか国内的なものか(冷戦の文脈が大事か戦後国内経済の復興の文脈が大事か←このあたりはMilwardの議論を前提)
・Welfareとは言っても、エスピン=アンデルセンの三つのモデルから見れば、EUが達成したWelfareとはどのようなものだったのか。
・冷戦中においてなぜ西欧諸国は軍事的な性格を放棄しCivilian Stateへと変貌したのか。
・ユーゴ紛争(ボスニアからコソボまで)がEUに与えたインパクト
・70年代の統合への意味:ここはRomeroが述べたのだが、なぜ70年代の議論が出てきたのかよくわからなかったし、この時期に国家権力のLegitimacyが浸食したことに注意せよ、と言ったのだが、その文脈もよくわからず。

他にもいくつかあったのだが、とりあえずフォローできたのは以上。セミナーの進め方としてかなりフリートークと言うか、何をどう議論として進めてよいのか全く分からずかなり戸惑うのと、論点が次々と出され、それについて考えているうちに、あっという間に別の論点に変わっており(しかも、どうして論点が変わったのかも理解できない)、結局何一つ(四人しかいないのに)発言できず。
こういうときは、まず話す内容はあまり考えずに口火を切ってしゃべりながら話すことを考えるしかないのは分かっているのだが、私の英語力がそれに追いつかない。猛省の第一回セミナーだった。

その後に出席したEU法セミナーのゲストレクチャーは、一応ゲストの先生がしゃべるのだが、最近の具体的な判例の内容を紹介し、院生が質問・コメントするという完全な正式のセミナーの一環であり、事前になにも準備してなかったのでまったく付いていけず。てっきり、EU法における初期の二大判例の現代的意義を話すのだろうか、と勝手に予想していたが全く違っていた。内容としては、最近(2007-2010)フランスの判例を基に、NationalなConstitutional IdentityをEU法とどう併置させるか、というものだった、と理解したがもちろん怪しい。Legal SovereintyとかConstitutional Pluralismとか初めて聞く用語も満載だった。統合史セミナーの疲れがひどく、集中力もなく2時間ほとんど無駄にする。

2010年10月8日金曜日

本日のTo Do

・昨日プリントアウトした史料読解
・来週のセミナーのアサインメント読解

史料のページは9月に集めたものだけで5000ページくらいあり、それは見なければならない史料の10分の一もないことを考えると先は長い。

*午後の追記
(1)昨日接続に成功したネットワークプリンタへの印刷がうまくいかなくなりしばらく格闘。どうやら、再起動したり接続を外したりすると、その都度ネットワークへのログインが必要だったようだ。
(2)9月に受けたイタリア語のIntensivコースのテストが帰ってきた。100点中86点だった。語学はつらいな。学生の気持ちがよくわかります。しかし、例のヴィザの件で全15回中5回しか出れなかったのにこの点数とは。。まあ、試験自体が本当に全くイタリア語を知らない人が知るべき最低限の知識を問うようなものだったので。
la tua valutazione globaleが「ottima」と記載されていたのですが、このOttimaの意味が分からず、Ottimaで電子辞書を引いてしまい言葉が出てこなくて戸惑う。20秒ほどしてから、Ottimoで引きなおすと意味が出てきた。まあ、自分のイタリア語能力はこれくらいなもの。

2010年10月7日木曜日

本日の予定(10月7日)

ブログを付けるからには毎日つけんといかんなー。

すでに完了したこと
・自分のパソコンから大学のネットワークプリンタへの接続。この一週間うまくつなげなかったのをようやく完了。
午後の課題
・9月に収集した手持ちの史料のうち、有用なものをプリントアウトして読む。60年代中盤にENAからCommissionにStageしに来た人の内部レポートを読んでいる。10ページ程度なのに、分からないことが多すぎて一日で読み終われない。ちなみにこの人は今はフランスのオペラに関する文化政策で本を書いている。

本日の解決
・こっちに来てからずっと頭を悩ませていたアパート(トイレ)の悪臭について、朝9時に業者が来た。と言っても、作業は、バキュームカーらしき車から伸びている巨大なホースを地下?にある排水口らしき場所に突っ込んで何かを吸い取っているものだった。その後Roberto(自分は大家の家の屋根裏部屋の居候だが、大家さんの使用人ぽいフィリピン人。ものすごい親切)が来て、地下の排水をためているところへの排水管が短すぎて排水の水面上にあり、そこから悪臭が登って行ったのではないか、とのこと。排水管を長くして排水の中に入れる工事を2・3日後にすることで解決するだろう、と。
そうなることを祈るのみ。

2010年10月5日火曜日

プレゼン終わる

First Year Researcher's PresentationでFellowも自分の研究計画をしゃべるということで、自分の名前はなぜかなかったのだが、セッションに入れてもらってさっきしゃべった。大学院生にしろ、他のFellowにしろ、研究のバックグラウンドや博論のかいつまんだ内容を結構きっちり盛り込んで発表していたので、自分のプレゼンの準備の貧弱さに冷や汗が出たが、とにかく10分弱しゃべった。話し出す前はかなり緊張するものの、話し出すと割と調子が出てくるのは、講義の時と変わらない。
興味深かったのが、博士過程一年目の人の博論計画のプレゼンとFellowのプレゼンのレベルの違いである。博士課程の人はかなり大きな話の中で自分の関心がどこにあるのかを話すことに終始したが(なので何を言いたいのかがほとんど分からない)、Fellowの人は(僕以外)実証に関する内容もさることながら、問題の文脈と先行研究と研究の進め方が理路整然としていて、門外漢なのに理解できる。当たり前すぎるが、こうもはっきりと見せられると、自分にとっても勉強になる。
こちらの大学院生とて悩むところや欠点は日本のそれとあんまり変わらないように思う。ただ、前提で持っている知識が全然違うので、分野が違うと全く理解できないことと、悩みながらも形にするとそれが突然光りだしたりするので、なぜ研究が突如進展するのかを考えてみたいところだ。
いずれにせよ、疲れた。。。

明日からのTo Do
・来週のセミナー予習
・こちらの論文計画のためのアーカイブ調査
・先行研究論文読破
・締め切りを再三破っている某企画原稿(35%くらいしか進んでいない)

2010年10月2日土曜日

リスタート

記録にするとたぶん長文になってしまうが、件の問題はかろうじて解決され、9月の3週目よりまたフィエゾレの丘に戻ることができた。帰還早々より一日五時間の語学とレジストレーションのリスタートをやっているうちにあっという間に一週間が過ぎ、語学研修が終わった水曜日からは、ここでの研究をどのように(具体的な論文計画として)進めていくのかについて、論文や手持ちの史料等をいろいろ見ているうちに、これまたあっというまに過ぎてしまった。
今日は土曜日。空は素晴らしく晴れ渡り、Badiaから見えるフィレンツェの街は幻想的なまでに美しい。今日は以下の論文を読んで過ごした。
Knudsen, Ann-Christina and Rasmussen, Morten (2008), “A European Political System in the Making 1958-1970: The Relevance of Emerging Committee Structures”, JEIH, Vol.14, No.1, pp. 51-65.
Wolfram Kaiser & Antonio Varsori (eds.), European Union History. Themes and Debates, Palgrave, London, から、Ludlow、Varsori、Kaiserの章。
あと、JEPPのコピー、Cold War Historyのバックナンバーチェックをしていたらそれなりの時間になっていた。
来週は、手持ちの論文が持っている研究的文脈と史料の再確認と先行研究とのつきあわせ、CACとMAEで収集した史料の読解、それに、アーカイブにも行きたい。それにしても、HECではFirst Year's Researcher Presentationの枠組みでFellowも報告が割り当てられているのだが、なぜか自分の名前はない。結局こちらの先生に確認するのも忘れてしまい、そのままになってしまったが。。。万が一プレゼンするようにといきなり振られても大丈夫なようにFellowへのApplication時のプロポーザルに手を付けては見たのだが。何せ報告時間は10分。手を付けるテーマの概要とその意義をしゃべったらあっという間に10分が過ぎてしまうのは目に見えている。

さ来週からは本格的にセミナーも始まるので、自分の研究の組み立て方に気を付けながら、実証的な部分に手を付けていきたい。

2010年9月6日月曜日

バビロンへの帰還

アパートを決めホテルを出た1日の朝のレジストレーション以降、事態は思わぬ方向に転んでしまった。Visaの取得の必要について、自分の要求がどうも説明不足だったことと自分の担当者の知識不足が合わさって、レジストレーション自体がストップ。にも拘わらず、とりあえず、1日夜のウェルカムパーティーと、自体が好転することを望んで、その時のためにも英語とイタリア語のコースに出席する。日本人以外の若手研究者達が、自分をColleagueとして受け入れてくれるという、これまで全くなかった経験だった。それにひきかえ、自分のオーガナイズ能力の無さはなんというべきか。
いろんなやり取りを経て、かなり絶望的な状況の中金曜日に帰国。正常な判断能力を完全に喪失して空港から自宅まで4時間も時間を取ることとなる。
そして勝負の週明けの今日。Definitiveな答えは得られなかったが(基本的に話が複雑すぎて担当者が誰も分かっていないし、よくあるたらい回しを経験)、予想されていた状況そのもの(or lesser)。おそらく、あのフィエゾレの丘の上に帰るためには、家族が帰国するか、妻が一時帰国して新しくビザ取り直し→滞在許可取り直し、しかない。いずれにせよ、すぐに帰ることはできない選択肢である(前者は引っ越しの手配が必要だし、後者は一カ月から二カ月くらいかかるのは目に見えている)。

いったい自分は何のためにここに来ているのか。しかし、自分を呪う暇があったら論文の一本くらい読むのが本当の研究者というもんであろう。そういう意味で、僕は研究者失格である。

2010年9月1日水曜日

部屋を決める

昨夜のスカイプでもうちょっと探してみたら、という話だったので改めてデータベースを調べたが、近場で昨日の物件以上の条件のものは一つか二つしかなかった。データベースの表示は実際にAvailableとは限らないこと、今日の午前中は語学コース登録のためのテストがありはずせなく、動けるとしたら午後以降になること、たぶん別の人があの物件を見れば気に入る人がでてもおかしくなく、返事をのばしていると結局取られてしまう可能性がありそれは避けたいこと、今いるホテルにはあと一日しか居れないこと、などをいろいろ考えると、やっぱりあの物件に決めた方がいいだろうと、朝起きて改めて思い、9時過ぎにハウジングサービスにつくと、昨日のおねいさんに話してあれを借りることを話す。そこで彼女が電話してみたのだが、どうも大家さんは電話に出ない。こっちも語学コース説明会があるので、コンタクトを取って今日中に荷物だけ移動したいこと、今夜はホテルに泊まること(すでにお金を払っているのでもったいないしなによりすぐにはネットにつながらない)を伝えてもらうことにする。
語学コースの説明会に行くとすでに始まっていた。周りをみるとたぶん博士課程の人が中心のためか非常に若い印象。というか、ひょっとすると自分が一番年寄りかも知れない(見た目の頼りなさは博士課程級だと思うが)。語学コースは自分が想像していた以上に本格的で、こんなのを取っていては自分の研究がその期間中進まないことは間違いがない。とはいえ、この国にすむというのにその国の言葉ができずに英語で済ますというのは屈辱以外の何物でもないし、この機会に英語の力を上げないと(というかどんなに上げても)たぶんこの先一生英語に苦手意識を持ち続けるだろう。
そう自分に言い聞かせて、9月の間、イタリア語と英語のインテンシブコースを取ることに。
しかし英語の登録のためにはテストを受けなければならず、そこで待っていてと支持されて部屋の隅っこで待っていると、おじさんに呼ばれて、氏名や所属先を聞かれるといきなり「これまでの研究内容を話してくれ」とのこと。まじですか。日本語ですら明晰でないくらいごちゃごちゃしているのに。でもなんとか話し始めるが、案の定、途中で言葉がしばしば出てこなくなる。でも、これがセミナーとかだと赤面ものだが、英語のレベル分けのためのインタビューなのだから、こういう表現ができないと分かってもらえるのもよいことと腹をくくる。その後筆記テスト。選択問題が60問くらい?その後、新聞記事を読んで自由にショートエッセイ(200字から250字)を書け、というもの。
テストを受けるなんて、しかしたぶん十年ぶりくらいではないだろうか。終わった後ひどく疲れる。そうか、こんな苦労を私は人に強いていたのか。これからはちょっと優しい人間になろう、とはあまりおもわなかったが、とりあえずハウジングサービスに戻って例のおねいさんに聞いてみると、無事コンタクトが取れ、部屋を借りる了解を得たとのこと。これでようやく安心でき、ゆっくりお昼でも食べようかと食堂に行くと、想定内というべきか、Iさん御夫婦がだれかとおしゃべりされている。近寄ってごあいさつ。その後Iさんたちとお昼を食べて、Cocide fiscaleを取りに行き(本当にあっという間に取れてびっくりだが、掛りのおばさんがいい加減そうで助かった。すぐ後に取りに来たアメリカ人らしき学生は、きびしそうなお兄さんが掛りで、イタリア語ができないと思われる彼に通訳のように別の窓口の人が来ていろいろ話を聞かれていた)。その後、もう一度、荷物を置きに、昨日の家へ。家に着くと、今度は大家のおばあさんの娘(か息子)と結婚した人の母親という人が家に来ていた。フラン語がペラペラだったので、たぶん通訳として来てもらっていたのだろう。で、この人が大家さんに輪をかけて感じがよい気さくな人で、知り合いに日本人がいるから電話するから、と言っていきなり電話をかけて、ほら、と言って携帯を渡してもらう。で、大家さんとこのアンナさんという方と20年来の知り合いという日本人の方を話をすることになったのだが、開口一番、「いいところを見つけられましたね」とのこと。たしかに。頼りになる方を紹介してもらって本当に助かった。
で、ホテルに戻って食事をして家族とスカイプ。なるほど、これは便利なツールだわ。時差がないから尚さら便利。
で、明日はレジストレーションその他。研究そのものではないが、これをすっとばすわけにはいかないので心していきたい。

部屋決め

昨日は部屋決めのため朝から夕方までEUIのハウジング・サービスで電話、アポ取り、下見へ直行、大学帰還改めてアポ取り、再度下見へ、というのを三度繰り返す。三回、というのは少なく感じるかも知れないが、どの場所へもバス+徒歩でしかアクセスできず。たぶん全部合わせると4時間くらいは歩き回っただろうか。ただ一つ言えるのは、アポ取りはハウジングサービスの人が代行してくれるので大変楽かつスムーズに事が進む。こんなの、普通では考えらず、ここの組織の力の凄さを改めに身にしみると同時に、本当にありがたく思う。
最初の部屋は、Le Cureという地区(の奥まったところ)でこれまで行ったことがなかったが、行ってみると、なんというのか、実に侘しい地区で、出てきた大家さんはフランス語が堪能なのはいいのだけど、どうも合わないというか、最初に某仏国に留学した時にホームステイした時にすごく大変な思いをしたマダムを彷彿とさせる人で、どうも乗り気になれない(条件としては、電話+ネット込み25平米で500(光熱水道費除くでそんなに悪くない)。それと、Badiaには徒歩となるのだが、ものすごい坂でこれを毎日通うのはちょっとへこたれそう。二回目は、反対に、ベッキオ橋の向こうの坂をこれまた10分以上上ったところ。部屋自体は悪くない。しかし、この坂を毎日上り下りするのかと思うと、これまたちょっと体力に自信が持てない。三回目は、あまりに効率の悪さと二度も戻ってきてはイマイチという文句を垂れるジャポネーゼ(って自分では言ったつもりがないのにどうしてちゃんと認識されていたのだろうか)に呆れたのか、面倒を見ててくれたおねいさんがデータベースを一軒一軒あたっては条件に合いそうな物件をリストにして、それに自分が順番を付けて、一番目からまとめてアポ取りするやり方に帰る。10個物件をリスト化して全部電話してくれたが、留守だったりすでに借りられたりしていて、アポが取れたのは2件だけ。この時点ですでに16時で雨も強く降り始める。くじけず最初のアパートに行くが、それらしき名前のベルを押しても返事がない。3回くらい押して初めて返事らしきものがあったので、へたくそなイタリア語で自己紹介をしたがブツリと切られる。おいおいと思いつつも、少し間を開けて何度もベルを鳴らすが返答なし。諦めて次の最後の物件へ。バスに乗って移動してみると、外観は一軒家に近い感じでベルを鳴らすとガチャっと扉があく。開けてみると赤絨毯がひいてある重みのある内装で、木の階段の上の二階(こちらの一階)からすごいお婆ちゃんが手招きしている。話してみると、どうもイタリア語しか話せないみたいだ。フランス語は聞けば理解できなくはないが話せない様子。しかしとにかく部屋を見せてもらうと、これがびっくりするくらい広い。決して新しくはなくまたしばらく(たぶん一年以上)人が住んでいなかった感じだが、十分すぎるくらいの広さ。書斎、寝室、台所(食卓)がそれぞれ独立していて、そのどれもが広いのである。45平米と聞いていたが、どうみても50以上はある。狭いのはトイレ兼シャワーくらい。でも独り身なのでまあいいだろう。で、このおばあさんがとっても感じがよい。80歳はゆうにこしてる雰囲気だが、大変話しやすい(と言っても彼女のしゃべるイタリア語はほとんど分からないし、途中から地上階に住んでいるというアジア系の女性が入ってきて(お手伝いさん?)、英語ができる彼女を介して会話する感じに。まあこっちもほとんどイタリア語ができないので私とイタリア語で会話するというのは諦めたみたいだ)。明日返事をするということでお別れをする。家をでると雨はやんでいる。大体6時を少し回ったくらい。
夜はホテルで初めてのスカイプに挑戦。家に残してきたLogitecのカール・ツァイス製Webカメラは至極性能がよく、同じ画素数の某エ○レコムのウェブカムよりはるかに映りがよい。初めて日本製よりいいヨーロッパ製品にめぐり合う。

2010年8月29日日曜日

フィレンツェに移動

とうとうというべきか、フィレンツェに移動しました。以下移動の記録。
まず、パリからフィレンツェへ
我が家からは家から近くのPC乗り場からバスに乗ってPorte Maillotまで行き、そこからAir France les Carsに乗ってロワッシーへ。PCに乗るときに家族のみんなが見送りに。バス停に着いたらすぐにバスが来たので慌てて乗り込む。息子二人が走り出したバスを走って追いかけてくるので(しかも早い)、パパは思わず感無量。それにしても、上の息子とかけっこで負けるのも時間の問題だなあ。というか、現時点でフルで走ろうとすると筋肉を痛めるかアキレス腱が切れそうになる。
で、Porte Maillotで降りたのだがAir Franceのバス停がどこにあるのか分からず、Transilienで事前に調べたそれらしき通りに行ってもバス停はなく、仕方なく、最初のPCのバス停に戻る。あたりをよく見るとAir Franceの表示が。しかし、それがPalais de Congresの建物の方にあるのは分かったのだけど、その先がよくわからない。PCのバス停の反対方向に行こうとすると、向こうの方からAeroportの表示が出たAir Franceのバスが!重さ33キロのスーツケースと大型リュックと仕事用バックを抱えて慌てて走ったのだが、バスの先にバス停はなく、建物の中に入って確認すると、さっき来たPCのバス停の道のさらに先にあることが分かる。小走りで(スーツケースが重いので全速力で走れない)戻ると、バスが止まっていて乗客を入れている。いちいち客がチケットを運転手から買うので、なんとか間に合った。汗びっしょり。
空港にはLes Carsに乗ってから30分もしないでつく。家を出てからも1時間しないで到着。ただ、ここからターミナル2G に移動も面倒なのだが、前に2Gを使った時、ターミナル2Eから乗ると早いことがわかっていたので、2Eに行くとすぐにナヴェットが来た。教訓:CDGの2Gに行く場合は2Eから乗るのが便利

しかし、チェックインで一悶着。荷物(スーツケース)が規定の23キロをはるかにオーバーするので(大体33キロ)、予めオンラインチェックイン時に超過荷物用クーポンを購入していた。しかし、いざ荷物を預けようとすると、どうも自分が購入した「手荷物をもう一つ持ち込める」というクーポンは、一つの荷物が23キロを超えて持ち込めるということにはならない、と言われる(受付の人が本部らしきところに問い合わせて判明)。23キロオーバーの荷物の超過料金は100ユーロなのだが、自分が支払った手荷物がもう一つ持ち込めるという超過料金は55ユーロだった(オンラインチェックイン時に支払い手続きをすると20%引き)。どちらにしたって飛行機の中に入れば荷物の重さは一緒だと思うんだけど、とにかく違うタイプの超過料金だし払い戻しもできないし(第一100ユーロは高いし)、えー、と思っていたら、何か別の袋かカバンにスーツケースの荷物を入れてこのスーツケースの荷物を23キロにまで減らしたうえで、そのカバンをもう一つの荷物として持ち込むしかないと、と言われる。めんどいが、似たような話は前もあったのでいったん隅に移動してスーツケースから本と重そうなものを出して事なきを得た。ところで、なんでそんなに荷物が重かったのかと言えば、取り急ぎ必要な書籍を10冊ほど(どれも分厚い)と某○マートで買った1,5リットルの醤油のせい。
あとは快適に過ごす。
で、ホテルに到着して、来週の研究会のレジュメを作成しつつ、飛行機の中に上着を忘れたことを思い出す。うーん、留学時代から数えて10年くらい愛用していZARAのパーカーが。。どうしたもんかな(次乗った時に問い合わせるしかないんだけど)。

月末締切の原稿と来週の研究会レジュメがあるので、時間がないので夕食はホテルのレストランで食す。割とおいしい。しかし、ネットの電波が弱すぎ。つながったりつながらなかったり。明日は9時からのハウジングハンティングに間に合わせるために7時起き。明日以降は何かと時間が取られるので、今日中にどこまで進められるか。がんばろう。

2010年8月25日水曜日

と思ったら

某研究会へのレジュメが残っているリマインドメールが来て、慌てて作成に入る。やはりラスムッセンあたりが基準線になるか。しかし、彼は某サッカー選手と同姓同名なのでネットで検索してもなかなか情報が出てこない。

生存確認

多方面への生存確認の意味を込めて、ブログを始めることにしました。
ただまあ、一回分の更新量はそんなに多くならないのではないか、と。備忘録にとどめておきます。

諸般の事情から8月が終わるまではこの手の自己開示はやらないでおこうと思っていたのですが、9月から生活も激変するので、まずは作るのだけでも意味があるのではないか、と。今日はアーカイブに行きましたが、9月からの準備もあるのでたぶんまた研究はストップ。

備忘録ついでだが、今日見たアーカイブのカタログに、フランス内務省からVersementで、域内司法協力(警察・移民・難民)関係のファイルがかなり大量にあることを知った。Treviグループの史料も相当ある。Derogationが必要みたいだが…。
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