2010年10月25日月曜日

本日のセミナー

本日の統合史セミナーの記録
マテリアルは、
Piers Ludlow, "Widening, Deepening and Opening Out: Towards a Fourth Decade of European Integration History", in Wilfried Loth (ed.), Expercing Europe, Nomos.
Wilfried Loth, "Explaining European Integration. The contributions  from Historian", Journal of European Integration History, vol.14, n.1, 2008.
Mark Gilbert, "Narrating the Process: Questioning the Progressive Story of European Integration", JCMS, Vol.46, N.3, 2008.
ヨーロッパ統合史のヒストリオグラフィーについてであった。
内容としては、前二者は研究史をまとめたうえで、統合史の次の課題として以下を提示する。最初の四件がLudlow、最後がLoth。
(1)How Institutions work? : 組織の中の詳しい動きを捉えること
(2)Enlargement:拡大を契機として、共同体のNatureがどのように変わったか、変わらなかったを捉えること
(3)統合史をヨーロッパ史・20世紀史に組み込むこと。これはどちらかと言えばシニアな研究者がすべき。
(4)統合による国内社会、経済、文化へのインパクト及び変容を捉えること
(5)民主的正統性と政策決定上の効率性との関係について
これに対してGilbertは、統合を常にProgressとして規範的善と捉える傾向が常にあることを指摘して、そこからの脱却を説くわけだが、出席した学生からは、Gilbertへのシンパシーは大きかった。ちなみにLothはConservativeで説得的ではない、という反応(と言ってもサンプルは三名だけなのだが)。
やはりというべきか、議論はLudlowの議論をどう批判的に捉えるか、という線にそってすすんだ。Romeroから出されたのは、Ludlowの議論は大変Usufulだが、統合の現状を追認したうえでの研究アジェンダの提示であることに注意すべきだ、というもの。
Lothの議論は統合の起源に関するもので、起源を論じることは戦後秩序がいかに生じたのか、ドイツ問題をどう乗り越えるべきだったのか、という問いの設定がある。Gilbertも、EUというのはどういう意味でモデルとなりえるのか、という議論の問いかけがある。それに対して、Ludlowのには、そういう問いかけがない、という。Romero氏は、What is the studies of European Integration History for? という問いがLuddlowにはないのだ、と。
それを踏まえたうえで、にもかかわらずと言うべきか、これから最も困難で最もチャレンジングな研究は(4)=というであるというのが、RomeroとAurelieの共通した見解だった。これはちょっと自分には意外だった。ヨーロッパ統合がそれぞれの国家の国内社会、文化、商慣習、空間認識、もしくは人々の心情・世論にどのようなインパクトを与え、それをどうのように変容させたのかを史料で跡付けることは大変難しい、というのである。
たぶん、このような研究は、国内史の延長線上として可能かもしれないが、実際にナショナルな史学をしている人がこのような関心から実証研究に乗り出す可能性は非常に低いし、史料的な問題からも、史料で跡付けるのはいろんな困難がある。世論調査(ユーロバロメーター)は1970年代からだから、それ以前のことはデータがないし、そもそもユーロバロメーターでは測れないような問題が出てくるのではないか、とも。なぜ困難なのか、という点については、議論が追えない個所もあったが、とにかく、この問題がフロンティアなのだ、という認識はある意味歴史学的なアプローチから見たことと、かつヨーロッパ人の視点から見ているからなのかも知れない。というのも、Romero氏は、自分がEuropeanだ、という認識をそもそも持つようになるのは大変複合的な過程を経てそう感じているのであり、その過程がなぜ生まれていったのかをきちんとさぐるべきだ、とも言っていたからである(但しこのBeing Europeanという論点は、上述のImpact論点の前に独立したものとして提示されたが、自分には連関しているようにしか思えなかった)。

それにしても、自分が参加しようとしてもイマイチ議論にならない(質問にしかならない)。自分が参加した企画でも某Edさんの論稿がまさにそうなのだが、こういうものにはコメントがしずらい。たぶん、研究は実証研究でしか進まず、その傾向はより史料と現状の二者に左右されるからであって、この二者への傾向をどのように考えるかを差し置いては、あまり大それたことは言えないからである。

それと、もうひとつの問題は、ヨーロッパ統合それ自体が持つ(もしくは持たないように気を付けても帯びざるを得ない)Model性、もしくは規範的な含意をどう考えるか、というものだった。この点について、日本でEUを研究するのはやはり規範的な意味があるのか、と話が振られたので、基本的にはそうだが、できるだけ「中立的に」やっているつもりだ、と答えたら、「中立的」ってなんだ(そんなことは可能か)、という返答が返ってきて答えに詰まる(情けない)。よく考えてみれば、その「中立」はどうすれば可能なのか(歴史研究であっても同様なわけで)、ということを議論しているのに、そうやっていると答えても答えにならない。消化不良感がつのるが、英語でモノを考えながら議論をするのは自分にはまだまだ修行が足りない。
しかし、英語ですらそうなのに、これをフランス語でするのは恐ろしいくらいにエネルギーを掛けないと無理だなあ。いや、正確にいえば、最初にフランスに留学してから、それを可能とすべく研究を続けてきたわけだけど、たぶん、この拙い英語の方が、自分のフランス語よりレベルは上だろう。ようやく日常会話には困らない程度にはなってきたが、それでも議論をきちんと理解して反論するような芸当までには至らない。
ところで、パリでフランス人と何か(オフィシャルなものを含め)しゃべっていて「今のところが分からない」とか言うと途端に不機嫌というかすごくぞんざいな扱いを受けるが、ここの英語のいいところは、「よくわからない」と言っても許されるところだ。ただし、しゃべる時にはきちんと話せないとやっぱり相手にされなくなる点は同じ。つくづく、知性と言語運用能力は「ある程度」比例すると思う。

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