2010年11月10日水曜日

セミナー終了

こちらの研究所のセミナーが終了。タイトル(発表順)は以下の通りでした。
(自分):From Community to Polity? History of Comitology and the Development of Political Systems within European Community, 1960-1986
Philip Bajon, Votes and Vetoes: The Legacy of the Luxembourg Compromise 1966-1986
Aurellie Elsa Gfeller, The European Parliament in Historical Perspective
Philipの発表は、ルクセンブルグの妥協によって形成された、彼が呼ぶところのVeto Culture(ECの意思決定に関し、本来QMVで議決を取ることができるのに議決を避けるために決定をしない)が、SEAの採択までに、一体どのような理由で衰退していったのか、ということを研究していく、というもの。政府間的な交渉だけでなく、メディアやEPにおける政党勢力の言説を追いながら検討していくという。
Aurellieのは、EPの直接選挙以降に最初に議長に選ばれたSimone Veilを取り上げ、EPがヨーロッパ統合に対してどのようなインパクトを与えたのか、ということを検討するもの。プレゼンを聞いていると非常によく練られていたように感じたのだが、こうして日本語にすると何かが足りないなあ。

自分の発表に対して、Adrienne Heritier(!)が「大変面白い研究計画で言いたいことはたくさんあるのだが」と前置きしたうえで、「コミトロジーが拡大したのは何の役割rolesがあるのか」という質問をした(自分が聞き取った発言を直訳するとそういう日本語になる。英語での質問文は非常に短かった)。正直意味が分からず戸惑う。ちなみに、Heritier自身、コミトロジーとEU政治過程で論文を書いているので(ただ読んでいない)、自分で解釈し直して、あなたが聞きたいことは、コミトロジー委員会の数の量的拡大はその性格の質的変化を意味するわけではないということなのか、と聞き返した。
すると、彼女は、言いたいことが全く分からないと返答。司会のKiranがもう一度質問を繰り返すのがいいでしょう、とHeritierに促してくれた。それでもう一度質問しなおしてくれたのだが、どうも彼女が聞きたかったのは、「一般論としてコミトロジーが拡大したのは何が原因と考えられているのか」というかなり単純な質問だったようである(Heritier本人は発表者からのコメントを聞いたら途中で退席してしまったので他に言いたいことが何なのかは不明)。
さらに、Romeroから、君が取り組む変化というのは一体どういうアナロジーが考えられるのか、という質問。
というわけで、その質問にああでもないこうでもないと返答。非常に聞き苦しい、プリミティブな英語で恥ずかしい限りだが。。。
その後、コミトロジー委員会に昔務めていたという例のシニア・フェローより、非常に有益なコメントをいただく。

全体的に、自分の取り組むべき議論の射程とこれから詰めていかければならない課題がよく見えた。終わった後、Heritierからの質問を全然理解していなかったゆえに頓珍漢な返答をして彼女に全然通じなかったことについて、自分の隣に座っていたアメリカ人のFellowと話したら、「いや私はあなたの言いたかったことを理解した。こういうことだろ。○○」と言ってくれた。それはその通りだったので、言葉が通じなかったからと言ってむやみに落ち込み必要はないのかも、と思った次第。

それと、Heritierはフランス系ドイツ人だとばっかり思っていたけど、実はスイス人なのだとか。それにしても、彼女がセミナーが始まる直前に部屋に入った時には緊張が走った。彼女のような研究者からコメントをもらえるとは。。自分への質問は極めて単純だったが、PhilipとAurellieへの質問は非常にシャープでかつ辛辣だった。この二人と比べると、自分の研究は仮説がない状態に近い本当に手を付けたばかりの研究計画だったからであろうか。いずれにせよ、今日は出発点に過ぎず、まだまだ論文完成までの道のりは長い。

*追記
セミナーが始まる前、研究室が入っているVillaが同じの委員会から派遣されているEU Fellowという肩書の人(ややシニアっぽい。スペイン人だが英仏どちらも非常に流暢で、かつとっても気さくに話してくれる)の人から、Comitologyについてその後の研究はどう?と聞かれて、コミトロジーの発展とその意味に関する自分なりの現在の仮説を少し話してみた。すると彼は自分の仮説をとても興味を持って聞いてくれた。そしてその仮説の検証は、セミナーが閉める際に司会のKiranが、今から君が取り組まなければならないのはこういう点じゃないのか、というアドバイスとぴったりはまっていた。ただ、自分の考えているその論点を、どういう史料から読み取っていいのかがまったく見えないことが問題であり課題。

ところで、どうしてそういうことを書くのかというと、昔留学から帰国して、自分が博士論文の構想について迷っていたとき、指導教官のT先生の部屋を何らかの理由で訪れていたとき、不意にT先生が、博論の全体的な構想の話を振ってきた。その時まで、ド・ゴール外交の展開と独仏関係をその政権時期全体までカバーすることは、かなり漠然としか考えていなかったが、DEA論文で扱った内容やその時自分が考えていることをつらつらとしゃべっているときに、「○○という軸を通すのであれば、69年の辞任の時期まで含めないとだめですね、でもそれはちょっと大変だとおもうので…」ということをT先生にしゃべったのだ。しかし、「それは大変(無理かも知れない、という風にしゃべったかも)」と自分で話しておきながら、それを話しているのと同時に、でもこれはそうせざるを得ないしそうすることで拡散する話が一つの物語にまとまるのではないか、ということを思いついた。

歴史は常にごちゃごちゃしていて、内容としては矛盾していて、一本の話の道筋を見通すことは難しい。史料に基づくとなおさらである。それでも、ある瞬間に、その道筋が突然開けることがある。
今の研究は、その道筋が見えている状態ではないが、それでも、歴史研究をやめることができないのは、あの道筋が見えた瞬間の感覚を覚えているからだろう。その感覚を忘れたときは、歴史研究は店じまいするときなのかも知れない。

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