ツイッターを利用し始めるとブログの更新が減るというのは本当だった。震災の際、家族友人の安否確認にツイッターが非常に有効だった、という話を聞いて、それまでツイッターはちょっと、と思っていたが思い切ってアカウントを作って時々呟き始めた。すると、タダでさえブログに書くことはあまりないのに(EUIには最近戻れないのでEUIがらみのことも書けない)、ツイッターで言いたいことが大体いえるので、ブログに書くことも無くなってしまう。
ツイッターの方は身元を名乗っているし、そっちのプロフィールにはこのブログのURLを入れているのもあって、ツイッター経由でこのブログへのアクセスも増えた。ちなみに、ツイッターのアカウントは、この一見謎な投稿者名がヒントになっている。
ところで、基本的にずっと原発がらみが非常に気になるのだが、原子力発電について急激な反原発の動きが出てきているという。放射能の恐怖に子供を抱える母親がそう思うのは理解できる。しかいよく分からないのは、これまでさんざん安全だと言い続けていたのにこのざまは何だ、という反発である。ネット経由の情報しか基本的に手に入らないが、どうもそういう感情が感じられる。ようするに、騙された、ということだ。
しかし、どうもこういう議論には違和感があった。どうしてだろう、とずっと思っていたが、ふと思い出した。自分はまだ冷戦期を生きていた経験があり、小学生だった1970年代後半から80年代前半の新冷戦時代、世界は米ソ間の全面核戦争の幻影におびえていた。
自分は大学で若い学生に教えていて、そういう幻影が今から30年前位にあったと言っても、ピンとこない人が多いことも分かる。しかし、やはり、冷戦期において、核戦争と放射能の恐怖というのは常に肌感覚としてあった。中性子爆弾によって建物を破壊せず人間だけを死亡させる戦争のSF的映像とかをテレビで見て、放射能が人を破壊する兵器となる、という感覚は幼いころに植え付けられた。
しかし、冷戦が終わり、そのような核戦争の幻影に我々が怯えることはなくなった。と同時に、核戦争の勃発によってまき散らされる放射能の恐怖も、我々は忘れはじめた。時代の変遷ゆえに我々は自ら忘れてしまったのか、それとも忘れるように仕向けられたのかは分からない。たぶん、仕向けられたかもしれないが、我々は自ら進んで忘れていったのではないかと思う。
冷戦は終わり、それは一つの時代の幕引きを意味していた。しかし、それによって終わらなかったものもあった。私たちは、冷戦によって無くなったと思っていたものの突如の復活を見ているかのようである。その意味で、まだ20世紀は終わっていない。
(この文章は未完です)
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