考えてみれば、CARANの利用方法についてまず書かないと、先に書いたフォンテーヌブローの利用方法を書いても意味がないので、CARANの利用方法について書いてみます。と言っても、今フィレンツェというのもあるし、ここ最近はCARANに行っていないので、細かい利用方法は忘れていますが…。(2月1日にもろもろ修正)
アーカイブ名称 Archives nationales LE CARAN - Centre d'accueil et de recherche des Archives nationales
住所 11, rue des Quatre Fils, 75003 Paris
*パリの地図を買うと、マレ地区のある3区に大きくArchives nationalesとあるが、これはCARANとSoubise館(歴史博物館)を会わせた全体であること、Soubise館とCARANとは入口が違い、ここの地図にあるように、上記住所のようにrue des Quatre Filsの入口から入ること。
開室時間:9時~16時45分(新しい史料の閲覧は16時20分ごろを過ぎると出来なくなります)。
月曜~土曜
■そもそもCARANとは何なのか?
私はピュアなフランス史研究者ではないので理解に至らないところがあると思いますが、自分の理解では、仏国立文書館の「パリ館」に保存されている史料を閲覧するための場所(組織と施設)をCARANと言います。
■登録
CARANの史料を閲覧するためには登録する必要があります(しかも有料)。今はオンラインでの仮登録もできます。仮登録すれば、史料の注文を予約しておくことができ、短期訪問の際時間を節約できます(逆に言うと登録しないと史料を予約も閲覧もできない)。
仮登録していても、現地に行ったら本登録してカードを発行してもらわないといけません(カードがないと閲覧室に入れない)。閲覧室は、CARANの建物に入ったら奥にある、ガラスの仕切りの向こうの部屋です。
登録に必要なのは身分証明書(パスポート)のみ。事前に書類等を用意する必要はありません。
■目録室から閲覧室へ
CARANの建物は、地上階が受付・登録室・自販機(リラックスコーナー)・ロッカー・トイレ、一階が目録室、二階が閲覧室(Salle de lecture)、三階がマイクロ閲覧室です。
登録が済んだら、閲覧室で史料番号を調べます。史料番号をリストアップしたら、二階の閲覧室に行き、文書を注文します。
・閲覧室には、ボールペンを持ち込んではいけません。メモをとる場合は鉛筆で。ボールペンを持ち込もうとすると必ず注意されます。
・なんですが、閲覧室の席は指定制です。席の札をもらうためには、入って右側の受付窓口(Gichet)に行って、席をください、というと席の札(Plaque)をもらえます。
・席には通常の文書を閲覧する普通の席と、公開が見合わされている文書を閲覧する人の席とに分かれています。通常の席ではデジカメOKで、特に断りなくデジカメをとって構いません。これに対して、公開見合わせ文書閲覧の席は、赤の印がついており、ここではデジカメは不可です。
・席をもらったら、入口正面奥の注文用PCが並んでいる小部屋のPCから注文します。このPCの操作がまた分かりにくいです。まずカードリーダーに閲覧者カードを差し込みますが、すぐに出てきます。この出てきたカードを抜いては行けません。出てきたままの状態にしたままでPCを操作します。
最初はマウスを使いますが、文書番号を打ち込む画面になると、文書番号(その書き方も作法があり、その作法に則らないと注文を受け付けません)を書いて以降はコマンド操作よろしく、マウス操作ではなくキーボード操作でしか先に進めなくなります。このあたりの操作の分かりにくさは実に戸惑います。
■注文数
一回に注文できる数は3つまでのはずで、最大6個の文書を手元に確保できるはずです(記憶があいまいですいません)。
注文してから出てくるまで、大体2時間くらい。ころ合いを見計らってGichetに確認しに行きます。GichetにはPCで注文していた文書を管理するバーコード付きの紙(これをCARAN用語でTALONと言う)があり、閲覧者カードを見せると掛りの人は(たぶんぞんざいに)自分が注文した分のTALONを渡してくれます。その中から読みたい文書のTALONを渡すと、その文書を持ってきてくれます。
■取り置きと終了
文書の閲覧が終わり、もうこのCartonは見ないのであれば、GichetにC'est finiとか言って渡せばOK。まだ終わっていないけど、次のCartonを見たいのなら、Gichetの横に置いてあるProlonger用の棚において、これは延長します、とか言って次に読みたい史料のTALONを渡す。
■APシリーズとDérogation
フランスも史料の公開は基本的に30年ルールですが、現代史研究ではしばしば使われる個人文書シリーズ(AP)の公開は、基本的に60年です。ただし、目録を見ると、このCartonは何年ルールか、というのがリストで載っています。載っていなければ、それがLibrement communicable(特別な閲覧申請が不要で自由に閲覧可能:以下便宜的にLCと記載)かどうかは、都度都度アーキビストに確認する必要があります。
第四共和政のメジャーな政治家のAP文書の中には、少なくとも10年前は60年ルールだったのに、今はLCになっているものもあります(たとえばビドー文書の一部)。
では、60年ルールで自由に閲覧できない場合はどうしたらいいのでしょうか。
この時活躍するのが、DérogationとAutorisationという申請手続きです。この二つは違うものらしいのですが、実際違いはよく分かりません(すいません)。しかし、自由に閲覧できない文書にアクセスするために行う手続き、という意味では共通しています。自分の理解では、Dérogationはまだ公開年月日に達していない文書のアクセスを申請する手続き、Autorisationは基本的に公開が制限されている文書へのアクセスを申請する手続きだと理解しています(どうなんでしょう)。
Dérogationは様式をもらって、そこに書き込んで提出します。博士課程の方であれば、フランス語での指導教官もしくは自分が所属する大学で指導的地位にいる人(学科長、学部長、学長等)の推薦書が必須です。自分の指導教官はフランスを専門としていないのでフランス語での推薦書は無理です、と言う人は、文面は自分で作成してサインだけでももらいましょう。
Dérogationを申請すると、大体2-3カ月で返事が返ってきます。国防機密に関するものでなければ、申請が撥ねられることはまずないと思います。
(追記2011年3月1日:先日CARANに行った際にAP文書のAutorisationを申請することになったのでDérogationとAutorisationの違いを聞いてみたところ、Dérogationはまだ開いていない文書を個別例外的に閲覧できることを意味し、Autorisationは開示はされているが閲覧に許可がいる文書に対するその許可を与えることを意味する、とのことでした。)
60年ルールの文書は、大統領府文書もそうです(こっちは50年というのだったかも)。
DerogationにせよAutorisationにせよ、この手続きによって閲覧するときの注意として、あらゆる種類の複写が許可されないことです。要するに、コピーも取れないしデジカメも不可、ということです。
上記に、CARANの閲覧室の席には二種類あると書きましたが、AP文書は、たとえLCであっても一律に公開見合わせ文書用の席が割り当てられます。ですからLCなAP文書や、TALONに複写は絶対だめ、と書いてない文書であれば、公開見合わせ文書用の席であってもデジカメが取れます。
この時は、閲覧室のアーキビストのところまで行って、用紙に許可をもらえばデジカメ可になります。
コピーも取れずデジカメも不可の場合、ひたすら読みながらノートに取る(もしくはひたすらタイプ)しかありません。個人的体験ですと、500ページくらいの書類が入ったCarton一つ読む(タイプする)のに大体3-4日かかります。デジカメOKだと、大体30分で終了です。閣議史料がオンラインで公開されているイギリス(TNA)とは雲泥の差でしょう。現代史、特にイギリスを対象にした国際関係史・外交史研究が進む訳です。
■その他
・CARANはマレ地区の真ん中にありますが、昼食を素早くとるのに適したお店はあまり近くにありません。パン屋もすこし離れているので、CARANに来る途中で買ってくる方が時間を有効活用できます。
2011年1月30日日曜日
2011年1月29日土曜日
フィレンツェ帰還
というわけで、水曜にはフィレンツェに帰還しました。部屋に戻ると、悪臭がまた復活していて、久々の匂いに気分が本当に悪くなる。乱用はよくないと思いつつ、パリでゲットしたユーカリのエッセンシャルオイルを濡らしたタオルに部屋のあちこちにかけて、匂いをとる(でも、あんまり変わらない)。
(ところで、今日大家のお婆ちゃんに一月分を払おうとして部屋を訪れたら、もっとひどい下水の悪臭が漂っていて、どうしてこんな匂いがしてどうしていいのか分からない、とのこと。もうこの家そのものの問題なのか…。ありがたいことに1月は全然いなかったから家賃は半分でいい、と言ってまけてくれた)
ちなみにパリの身の回りの薬局には、ユーカリのエッセンシャルオイルが咳の症状を抑えるものとして、(すべてではないけど)置いてある。非常にすっきりとした匂いなので、悪臭対策にと思って薬局で購入。50mlで大体6ユーロくらい。
木・金は、午前はアーカイブ作業、午後は図書館で文献読みに。EUIのワーキング・ペーパーの執筆も本格的にしていかないといけないし、自分で書かねば、と思っているテーマの文献も集めたい。
というわけで、50年代はまずHerbert Blankenhorn, Verständnis und Verständigungの1953年部分を読み直す。あと、Anjo Harryvan, In Parsuit of Influence. The Netherland's European Policy during the Formative Years of the European Unon, 1952-73, Peter Langの関連個所を読み進める。
夜は、日本からアーカイブ調査に来たH君と一緒にトラットリアへ。肉が食べたいと思ってTagliata(焼いた牛肉をスライスしたもの、美味)を注文したら量が多くて胃にもたれた。。ロンドンの時から胃腸の調子が良くないです。
(ところで、今日大家のお婆ちゃんに一月分を払おうとして部屋を訪れたら、もっとひどい下水の悪臭が漂っていて、どうしてこんな匂いがしてどうしていいのか分からない、とのこと。もうこの家そのものの問題なのか…。ありがたいことに1月は全然いなかったから家賃は半分でいい、と言ってまけてくれた)
ちなみにパリの身の回りの薬局には、ユーカリのエッセンシャルオイルが咳の症状を抑えるものとして、(すべてではないけど)置いてある。非常にすっきりとした匂いなので、悪臭対策にと思って薬局で購入。50mlで大体6ユーロくらい。
木・金は、午前はアーカイブ作業、午後は図書館で文献読みに。EUIのワーキング・ペーパーの執筆も本格的にしていかないといけないし、自分で書かねば、と思っているテーマの文献も集めたい。
というわけで、50年代はまずHerbert Blankenhorn, Verständnis und Verständigungの1953年部分を読み直す。あと、Anjo Harryvan, In Parsuit of Influence. The Netherland's European Policy during the Formative Years of the European Unon, 1952-73, Peter Langの関連個所を読み進める。
夜は、日本からアーカイブ調査に来たH君と一緒にトラットリアへ。肉が食べたいと思ってTagliata(焼いた牛肉をスライスしたもの、美味)を注文したら量が多くて胃にもたれた。。ロンドンの時から胃腸の調子が良くないです。
2011年1月20日木曜日
ロンドンへ
今日から3日間だけだが、ロンドン郊外のThe National Archives(TNA)で史料調査。大陸ヨーロッパの移動に慣れているが、イギリスはこれで二回目だけど、街中で堂々と英語を使うというのは、自分にとっては不思議な感覚。
それと、大陸ヨーロッパでもそうなのだが、国境を超えると陸続きなのに微妙に風景が異なるようになるのは、いつ体験しても自分の感覚を揺さぶられる。今回はフランスからイギリスへの移動だが、ユーロスターなので、なんとなく陸続きっぽい感覚があった。
イギリスは大陸ヨーロッパのどこの国よりも都市インフラがしっかりしていて、何気ない都市の近代性が日本に近い(正確にいえば、日本がイギリスやアメリカの近代性をそのまま日本に植え付けているのだろうけど)と思う。たとえば、駅にくっ付いているいくつもの商業施設が集まったアーケードはフランスをはじめどこにでもあるけれど、全体的に醸し出す雰囲気はイギリスのが日本に一番近いと思う。客がお金を出すのだから客はサービスを受けて当然だし出来るだけ客にお金を使ってもらうように努力しよう、という感覚がイギリスからは感じられるが、フランス・イタリアからはあまり感じられない。
ところで肝心のTNAでの調査は、コミトロジー史に関するものだが、手探りでやっているので、どういう史料を読めばいいのかまだつかめない。今日探した史料は、一瞬ドンピシャかと思ったけど、どうも読み進めると違うような感じなのだが、まったく関係ない訳でもなさそうなので、これはこの先も苦労しそう。同時並行的に日本語で執筆予定の、ややベタな外交史的テーマでは、簡単に史料が見つかるのに。まあ、コミトロジー史は自分が慣れ親しんだ外交史でも国際政治史でもない手法なので、Methodology的にはチャレンジングだということにしておこうと思う。
*旅のメモ的には、ユーロスターのダイニングカーではオイスターカード(ロンドンの公共交通機関を利用できるSuicaみたいなカード)が売っていた。地下鉄の窓口に並ぶのも面倒なので買いに行くと、対応した女性の店員さんがなんと日本語がしゃべれる人(たぶんフランス人と日本人のハーフ)だった。そして夜、オンラインで見つけたホテルにチェックインしたら、受付のおじさんも片言の日本語を話し始めた。奥さんが日本人だとか。ところでこのホテルは、通常価格は一泊7万はする随分高級ホテルみたいなのだが(ネット割引で実際の値段は4分の1強)、窓が壊れていて隙間風がとても寒い…。
*追記
それにしても実感したのが、英仏間の駅の清潔度の違いで、地下鉄駅の清潔度の違いは写真ではたぶん再現不可能(それになにより、においが違う)。かつ、パリの北駅(Gare de Nord)を圧倒するSt Pancrass駅のきれいさである。
それと、大陸ヨーロッパでもそうなのだが、国境を超えると陸続きなのに微妙に風景が異なるようになるのは、いつ体験しても自分の感覚を揺さぶられる。今回はフランスからイギリスへの移動だが、ユーロスターなので、なんとなく陸続きっぽい感覚があった。
イギリスは大陸ヨーロッパのどこの国よりも都市インフラがしっかりしていて、何気ない都市の近代性が日本に近い(正確にいえば、日本がイギリスやアメリカの近代性をそのまま日本に植え付けているのだろうけど)と思う。たとえば、駅にくっ付いているいくつもの商業施設が集まったアーケードはフランスをはじめどこにでもあるけれど、全体的に醸し出す雰囲気はイギリスのが日本に一番近いと思う。客がお金を出すのだから客はサービスを受けて当然だし出来るだけ客にお金を使ってもらうように努力しよう、という感覚がイギリスからは感じられるが、フランス・イタリアからはあまり感じられない。
ところで肝心のTNAでの調査は、コミトロジー史に関するものだが、手探りでやっているので、どういう史料を読めばいいのかまだつかめない。今日探した史料は、一瞬ドンピシャかと思ったけど、どうも読み進めると違うような感じなのだが、まったく関係ない訳でもなさそうなので、これはこの先も苦労しそう。同時並行的に日本語で執筆予定の、ややベタな外交史的テーマでは、簡単に史料が見つかるのに。まあ、コミトロジー史は自分が慣れ親しんだ外交史でも国際政治史でもない手法なので、Methodology的にはチャレンジングだということにしておこうと思う。
若干、奈良の大仏殿のようなTNAの外観
*旅のメモ的には、ユーロスターのダイニングカーではオイスターカード(ロンドンの公共交通機関を利用できるSuicaみたいなカード)が売っていた。地下鉄の窓口に並ぶのも面倒なので買いに行くと、対応した女性の店員さんがなんと日本語がしゃべれる人(たぶんフランス人と日本人のハーフ)だった。そして夜、オンラインで見つけたホテルにチェックインしたら、受付のおじさんも片言の日本語を話し始めた。奥さんが日本人だとか。ところでこのホテルは、通常価格は一泊7万はする随分高級ホテルみたいなのだが(ネット割引で実際の値段は4分の1強)、窓が壊れていて隙間風がとても寒い…。
*追記
それにしても実感したのが、英仏間の駅の清潔度の違いで、地下鉄駅の清潔度の違いは写真ではたぶん再現不可能(それになにより、においが違う)。かつ、パリの北駅(Gare de Nord)を圧倒するSt Pancrass駅のきれいさである。
パリ北駅のユーロスター待合室からの風景
こちらはSt. Pancrass
2011年1月14日金曜日
フランス、国立文書館フォンテーヌブロー分館の利用案内
新年まともに更新ネタがないので、各地アーカイブの利用案内を書きます。
アーカイブ名称 Archives Nationales - Site Fontainebleau
住所 2 rue des Archives - 77 300 Fontainebleau Tel : 01 64 31 73 00
閲覧室の開室時間 8h45-16h45:月曜~金曜
閲覧室までのアクセス、および各種利用条件については以下を参照。
http://www.archivesnationales.culture.gouv.fr/cac/infos-pratiques.html
日本から短期に利用することを念頭に置いて利用方法を書いてみます。
・利用に際して、事前の登録/必要書類は不要で、閲覧室訪問時にパスポートを忘れないことが必要条件です。
・他方で、短期間で最大限の史料を読むためには、PRIAM3という史料データベースで有る程度読みたい史料にあたりをつけるか、パリのマレ地区にあるCARANの二階(日本式)のSalle des Inventairesに行って省庁毎のカタログを見て最低限のVersement番号を把握する必要があります。
・史料請求・閲覧にはこのVersement番号+Article番号の双方が不可欠ですが、Article番号が分かるのはPriam3か、フォンテーヌブローの閲覧室においてあるカタログにしか載っていません。
したがって、とりあえずは、Priam3で把握した史料を最初に閲覧予約しておくのがよいでしょう。その上で、閲覧室にあるカタログをしらみつぶしにあたっていって、必要な資料を見つけていく、という方策になります。
・閲覧の予約は、上記利用条件に載っている電話番号に直接かけるしかありません。私は日本からの国際電話か、他のヨーロッパ諸国を回ってから利用する場合は、その国からの国際電話をかけていました。
閲覧室は、SNCFフォンテーヌブロー駅からかなり遠く、従来はパリ・リヨン駅8時05分の普通列車に乗って間に合う時間のみにシャトルバスがフォンテーヌブロー駅から出ていましたが、今年1月より、パリのPorte d'Orleanから7時45分にシャトルバスが運行されるそうです。
・パリ・リヨン駅からフォンテーヌブロー駅までの普通列車は一時間に二本あり、約40分かかります
・時間に遅れてシャトルバスに乗れなかった場合、列車から降りた側にあるバスターミナル(Gare routier)からBのバスに乗って、Charitéという停留所で降ります。アーカイブは、この停留所から徒歩10分強のところにあります。まず、Chariteで降りたら、降りた側の歩道から反対側の歩道に渡った上で、バスの進行方向の逆を向きます。そのバスの進行方向の逆方向を少しだけ歩くとこんなしまった店があります。
この手前の右に曲がっている道へと入っていきます。するとこんな感じです。
この道をひたすらまっすぐ歩きます。すると、道なりに左に曲がるので、そのまま左にまがります。左に曲がると住宅が並んでいます。住宅の並ぶ道を通っていくと、やや大きな道にでます。その道に出たら、それを右にまがります。すると、こんな感じです。
この道をさらにひたすら歩いていきます。そのうち、右手にアーカイブが見えてきます。バスを降りて、この間、大体10分から15分ですが、初回は先が見えない道路に圧倒されて、一体いつ着くのか、と絶望的な感じになるかも知れません。
■利用手順
入口に入ると守衛さんに挨拶して入館帳に名前を記入ののち、右側のロッカーに荷物を置いて二階の閲覧室に行きます。閲覧室でかかりの人に利用用紙を記入するように言われるので、身分証明書を見せながら記入。これで完了。
■史料請求手順
史料の請求は、Versement番号+Article番号を閲覧申請用紙に書いてかかりの人に申し込み。一回に見れるCartonは10個まで。机に持っていけるCartonは一回につき一個。
・基本的に一つのArticleが一つのCartonに対応しているが、たまに、いくつかのArticlesが一つのCartonに入っている場合もある。
・なお、史料をその場で頼んでも、午前中に行けば午後には出してくれるが、午後以降はその日に出してくれない可能性が強い(というか、まず無理と言われる)。なので、前日の12時までに電話で予約することが望まれる。
・Derogationで申請した史料でない限り、デジカメによる撮影は特に断りなしにOK。なお、紙コピーを望む場合は、コピー機が閲覧室内にある。有料。
■その他注意
・フォンテーヌブローを利用するときに戸惑うのは、史料番号がVersement番号という、各省庁からここに移管された年と番号によって管理されており、Versement番号から史料の性格が全然わからないこと、また詳細な史料カタログがこのフォンテーヌブローの閲覧室にのみあり、自分が見たい史料を探し出すことは独力ではかなり難しいことであると思う。
・パリのCARANには省庁ごとのカタログがあり、それである程度内容が分かったり、史料データベースのPriam3である程度のキーワード検索はできるが、それでも限界がある。
なので、フォンテーヌブローには来ないと分からないことが多いのが、ここのアーカイブの特徴である。
・パリから非常に離れているので、ここに来るのは一日仕事になることが多い。近くには店はおろか人家もない(軍の施設はある)。なので、昼食をリヨン駅で調達することがここを利用するときの絶対条件である。フォンテーヌブロー駅周辺にもそういう店がないからである。
・アーカイブには公衆電話もないし無料Wifiも流れていない。あるのはコーヒーとお菓子の自販機のみ。
・ただし、史料の公開状況と、いったん来てから利用しやすい点は、CARANよりましだと思う。
・なお、バス等で徒歩で行った場合、門が閉まっている可能性がある。その時は、チャイムを押してみること。
アーカイブ名称 Archives Nationales - Site Fontainebleau
住所 2 rue des Archives - 77 300 Fontainebleau Tel : 01 64 31 73 00
閲覧室の開室時間 8h45-16h45:月曜~金曜
閲覧室までのアクセス、および各種利用条件については以下を参照。
http://www.archivesnationales.culture.gouv.fr/cac/infos-pratiques.html
日本から短期に利用することを念頭に置いて利用方法を書いてみます。
・利用に際して、事前の登録/必要書類は不要で、閲覧室訪問時にパスポートを忘れないことが必要条件です。
・他方で、短期間で最大限の史料を読むためには、PRIAM3という史料データベースで有る程度読みたい史料にあたりをつけるか、パリのマレ地区にあるCARANの二階(日本式)のSalle des Inventairesに行って省庁毎のカタログを見て最低限のVersement番号を把握する必要があります。
・史料請求・閲覧にはこのVersement番号+Article番号の双方が不可欠ですが、Article番号が分かるのはPriam3か、フォンテーヌブローの閲覧室においてあるカタログにしか載っていません。
したがって、とりあえずは、Priam3で把握した史料を最初に閲覧予約しておくのがよいでしょう。その上で、閲覧室にあるカタログをしらみつぶしにあたっていって、必要な資料を見つけていく、という方策になります。
・閲覧の予約は、上記利用条件に載っている電話番号に直接かけるしかありません。私は日本からの国際電話か、他のヨーロッパ諸国を回ってから利用する場合は、その国からの国際電話をかけていました。
閲覧室は、SNCFフォンテーヌブロー駅からかなり遠く、従来はパリ・リヨン駅8時05分の普通列車に乗って間に合う時間のみにシャトルバスがフォンテーヌブロー駅から出ていましたが、今年1月より、パリのPorte d'Orleanから7時45分にシャトルバスが運行されるそうです。
・パリ・リヨン駅からフォンテーヌブロー駅までの普通列車は一時間に二本あり、約40分かかります
・時間に遅れてシャトルバスに乗れなかった場合、列車から降りた側にあるバスターミナル(Gare routier)からBのバスに乗って、Charitéという停留所で降ります。アーカイブは、この停留所から徒歩10分強のところにあります。まず、Chariteで降りたら、降りた側の歩道から反対側の歩道に渡った上で、バスの進行方向の逆を向きます。そのバスの進行方向の逆方向を少しだけ歩くとこんなしまった店があります。
この手前の右に曲がっている道へと入っていきます。するとこんな感じです。
この道をひたすらまっすぐ歩きます。すると、道なりに左に曲がるので、そのまま左にまがります。左に曲がると住宅が並んでいます。住宅の並ぶ道を通っていくと、やや大きな道にでます。その道に出たら、それを右にまがります。すると、こんな感じです。
この道をさらにひたすら歩いていきます。そのうち、右手にアーカイブが見えてきます。バスを降りて、この間、大体10分から15分ですが、初回は先が見えない道路に圧倒されて、一体いつ着くのか、と絶望的な感じになるかも知れません。
■利用手順
入口に入ると守衛さんに挨拶して入館帳に名前を記入ののち、右側のロッカーに荷物を置いて二階の閲覧室に行きます。閲覧室でかかりの人に利用用紙を記入するように言われるので、身分証明書を見せながら記入。これで完了。
■史料請求手順
史料の請求は、Versement番号+Article番号を閲覧申請用紙に書いてかかりの人に申し込み。一回に見れるCartonは10個まで。机に持っていけるCartonは一回につき一個。
・基本的に一つのArticleが一つのCartonに対応しているが、たまに、いくつかのArticlesが一つのCartonに入っている場合もある。
・なお、史料をその場で頼んでも、午前中に行けば午後には出してくれるが、午後以降はその日に出してくれない可能性が強い(というか、まず無理と言われる)。なので、前日の12時までに電話で予約することが望まれる。
・Derogationで申請した史料でない限り、デジカメによる撮影は特に断りなしにOK。なお、紙コピーを望む場合は、コピー機が閲覧室内にある。有料。
■その他注意
・フォンテーヌブローを利用するときに戸惑うのは、史料番号がVersement番号という、各省庁からここに移管された年と番号によって管理されており、Versement番号から史料の性格が全然わからないこと、また詳細な史料カタログがこのフォンテーヌブローの閲覧室にのみあり、自分が見たい史料を探し出すことは独力ではかなり難しいことであると思う。
・パリのCARANには省庁ごとのカタログがあり、それである程度内容が分かったり、史料データベースのPriam3である程度のキーワード検索はできるが、それでも限界がある。
なので、フォンテーヌブローには来ないと分からないことが多いのが、ここのアーカイブの特徴である。
・パリから非常に離れているので、ここに来るのは一日仕事になることが多い。近くには店はおろか人家もない(軍の施設はある)。なので、昼食をリヨン駅で調達することがここを利用するときの絶対条件である。フォンテーヌブロー駅周辺にもそういう店がないからである。
・アーカイブには公衆電話もないし無料Wifiも流れていない。あるのはコーヒーとお菓子の自販機のみ。
・ただし、史料の公開状況と、いったん来てから利用しやすい点は、CARANよりましだと思う。
・なお、バス等で徒歩で行った場合、門が閉まっている可能性がある。その時は、チャイムを押してみること。
アーカイブの入口
2011年1月1日土曜日
ボーヴェに行ってきた
本来ならば、昨年のことになりますが、30日の年末に、子供二人と一緒にボーヴェに行ってきました。
ボーヴェはパリの北方約70KMだそうで、地図で見る限りはパリから離れている加減は、フォンテーヌブローと同じくらいでしょうか。ただ、ピカルディーの鬱々とした雪原の中に入っていかなければならいません。
冬休み、暇で寒いので、近くの大聖堂を見に行く、ということでボーヴェにしました。ボーヴェには建築途中に完成を諦めた大聖堂があります。完成していれば世界最大のゴシック形式の大聖堂になったとか。
Transilien(パリ近郊の公共交通を使った移動手段を調べる検索サイト)で見ると、ボーヴェとパリ北駅との間には一時間に一本普通電車が通っているので、お昼前に出発。北駅でサンドイッチを買って、列車の中で食べながら一時間20分ほど移動してボーヴェに着。
これが大聖堂。手前に移っている黒いダウンを来ている子供が長男。写真だと分かりにくいが相当大きい。天井の高さだけで言えば、フランス一だそうで、パリのノートルダムより10メート以上高いのだとか。天井が高いとは知っていたが、もうちょっと前知識をそろえていけばよかった。
ただ、大聖堂の中非常に寒くかつ暗かったので、特に下の子どもはすぐに嫌がって大聖堂の滞在時間は20分程度。そのあと、市街の市役所前広場の子供向けアトラクション(移動メリーゴーランド、ポニー乗馬)+屋台でおやつを食べていたら帰りの列車の時間となり駅に戻る。
帰りの電車はパリまで直通列車だったが、乗客はほどんどいなかった。お陰で、子供は貸し切り状態の列車の中で楽しく過ごせた。家に戻ったのは6時過ぎ。行き帰りの移動時間が4時間、ボーヴェ滞在2時間という一日小旅行でした。
ボーヴェはパリの北方約70KMだそうで、地図で見る限りはパリから離れている加減は、フォンテーヌブローと同じくらいでしょうか。ただ、ピカルディーの鬱々とした雪原の中に入っていかなければならいません。
冬休み、暇で寒いので、近くの大聖堂を見に行く、ということでボーヴェにしました。ボーヴェには建築途中に完成を諦めた大聖堂があります。完成していれば世界最大のゴシック形式の大聖堂になったとか。
Transilien(パリ近郊の公共交通を使った移動手段を調べる検索サイト)で見ると、ボーヴェとパリ北駅との間には一時間に一本普通電車が通っているので、お昼前に出発。北駅でサンドイッチを買って、列車の中で食べながら一時間20分ほど移動してボーヴェに着。
駅前の「ド・ゴール将軍通り」の表札。一応ド・ゴール研究者として。
クリスマスが終わったボーヴェの中心街。フランスの地方都市の町中は、僕はとても好きです。
この噴水を左に曲がると大聖堂が見えてきました。町中に大聖堂がある暮らしは羨ましい。これが大聖堂。手前に移っている黒いダウンを来ている子供が長男。写真だと分かりにくいが相当大きい。天井の高さだけで言えば、フランス一だそうで、パリのノートルダムより10メート以上高いのだとか。天井が高いとは知っていたが、もうちょっと前知識をそろえていけばよかった。
ただ、大聖堂の中非常に寒くかつ暗かったので、特に下の子どもはすぐに嫌がって大聖堂の滞在時間は20分程度。そのあと、市街の市役所前広場の子供向けアトラクション(移動メリーゴーランド、ポニー乗馬)+屋台でおやつを食べていたら帰りの列車の時間となり駅に戻る。
帰りの電車はパリまで直通列車だったが、乗客はほどんどいなかった。お陰で、子供は貸し切り状態の列車の中で楽しく過ごせた。家に戻ったのは6時過ぎ。行き帰りの移動時間が4時間、ボーヴェ滞在2時間という一日小旅行でした。
↑
うまく取れていないが、ピカルディーの雪原。
あけましておめでとうございます
パリでも年が明けました。明けましておめでとうございます。
ヨーロッパでは年越しはそれほど祝わないので、街には新年を迎えようとする日本のあの独特の雰囲気はありません。夕方に食材を求めてスーパーに行きましたが、クリスマス商戦の売れ残りをはけさせることと一応新年祝いのシャンパンの売り込みが目立ちました。
日本の、年越しと新年の独特の雰囲気は僕は非常に好きです。たぶん、アジア特有なのではないかと思います。一方で、ヨーロッパのクリスマスを迎えようとするときの街の浮ついた雰囲気は、それに似たものを感じます。日本のクリスマスは完全に商戦で、文化的なものではないのだな、ということがよくわかりました。
2010年を振り返ると、やはり在外で日本を家族で出て、しかし秋からはフィレンツェで一人で過ごすという、たぶん普通の人間であればやらないことをやった自分は、たぶん常識が欠如していたのでしょう。とはいえ、研究者である以上、問われるのは自分の中で蓄積していく問題や思考、そしてそれを言葉に書き記した論文であります。
2010年の成果は以下の通りでした。
(1)『複数のヨーロッパ』(北海道大学出版会、近刊予定)内「もうひとつの「正史」」:執筆、入稿、初校返し済み(ただし郵送中)
(2)学内共同研究成果論稿「地域統合史の中の国際協調主義」:執筆
(3)某企画『フランスとヨーロッパ』内60年代担当章:執筆、編者送付済
(4)某叢書:入稿(執筆は2009年度中に終了)
書いたものは、全部日本語です。英語は一本もありません。EUIでの国際関係史セミナーで日本の国際関係史研究の状況を英語で書いたA4で8枚のペーパーがありますが、これはレポートなので、成果とは言えないでしょう。
他方で、口頭発表は
(5)2月のシェフィールド大学でのワークショップ(日本のナショナリズム)
(6)11月のEUI、RSCASセミナー
の二本。どちらも英語。(5)の方は、勤務先学部の用事で、日本のナショナリズムについてなんでもいいから発表してきて、という命令を受けて、統合史との比較でややでっち上げ的に発表原稿をまとめてみた。ところが、そのワークショップの全貌は、実は非常にまじめな日本研究のワークショップで、僕以外はまじめな世界各地の日本研究の若手中堅がそろって報告し、最後にはテッサ・モーリス・スズキが講演する、というもの。詳細を見てから冷や汗が出て、政治学は自分が一人だけだったが、主催するシェフィールドの教授はその筋では有名な政治学の方なので、やや政治学的な議論に修正した報告をすることに。実際、報告はわりとポジティブに受け止められ、安心する。
なお、テッサさんおよび報告で同席した吉見俊哉先生とは、ヒースローからマンチェスター空港への乗り換え時に遭遇し、そのままシェフィールドのホテルまで1時間くらいのタクシーに同乗。朝の食事なども同席させてもらった。発言はラディカルだが、人は大変素晴らしい方だった。あと、発表で一番おもしろかったのは、芸大の毛利さんで、まったくの初対面だった訳だが、あとで日本におけるカルスタの第一人者だったことを後で知る。
それにしても、初めてのイギリスは、大変快適でした。TNAに、2時間程度だったが滞在できたのも大きかった。日本を出る時の成田で、二松学舎のMさんとばったりと会ったのが大きかった。実際、使い方はMさんからほとんど教えてもらいました。
* * *
今年(2011年)は、在外研究の総仕上げとなる。長いと思っていた期間はあっという間に過ぎてしまった。EUIのコミトロジー史論文、『複数のヨーロッパ』で取り上げた50年代、2007年の国際政治学会の部会論文で取り上げた70年代、とやりたいテーマは盛りだくさんで、たぶんあと一年ではまとめきれないだろう。
他方で、在外に来てよくわかったのは、日本にいて研究することのメリット・デメリットである。それは、日本人がヨーロッパの学会にInvolveされてないのにヨーロッパに長くいることの意味と直結する。EUIのIさんを見ていて本当に感心するのは、学会へのコミットメント志向の強さで、たぶん、僕は最初からそれを諦めているところがある。それでは話にはならないのだが、それでも、やはり、研究にはそのテーマを研究をする人的なネットワークがあり、それに参加していないのにその研究テーマを研究するのはナンセンスである。残された課題は、そういった点にあるのは確かだろう。
ヨーロッパでは年越しはそれほど祝わないので、街には新年を迎えようとする日本のあの独特の雰囲気はありません。夕方に食材を求めてスーパーに行きましたが、クリスマス商戦の売れ残りをはけさせることと一応新年祝いのシャンパンの売り込みが目立ちました。
日本の、年越しと新年の独特の雰囲気は僕は非常に好きです。たぶん、アジア特有なのではないかと思います。一方で、ヨーロッパのクリスマスを迎えようとするときの街の浮ついた雰囲気は、それに似たものを感じます。日本のクリスマスは完全に商戦で、文化的なものではないのだな、ということがよくわかりました。
2010年を振り返ると、やはり在外で日本を家族で出て、しかし秋からはフィレンツェで一人で過ごすという、たぶん普通の人間であればやらないことをやった自分は、たぶん常識が欠如していたのでしょう。とはいえ、研究者である以上、問われるのは自分の中で蓄積していく問題や思考、そしてそれを言葉に書き記した論文であります。
2010年の成果は以下の通りでした。
(1)『複数のヨーロッパ』(北海道大学出版会、近刊予定)内「もうひとつの「正史」」:執筆、入稿、初校返し済み(ただし郵送中)
(2)学内共同研究成果論稿「地域統合史の中の国際協調主義」:執筆
(3)某企画『フランスとヨーロッパ』内60年代担当章:執筆、編者送付済
(4)某叢書:入稿(執筆は2009年度中に終了)
書いたものは、全部日本語です。英語は一本もありません。EUIでの国際関係史セミナーで日本の国際関係史研究の状況を英語で書いたA4で8枚のペーパーがありますが、これはレポートなので、成果とは言えないでしょう。
他方で、口頭発表は
(5)2月のシェフィールド大学でのワークショップ(日本のナショナリズム)
(6)11月のEUI、RSCASセミナー
の二本。どちらも英語。(5)の方は、勤務先学部の用事で、日本のナショナリズムについてなんでもいいから発表してきて、という命令を受けて、統合史との比較でややでっち上げ的に発表原稿をまとめてみた。ところが、そのワークショップの全貌は、実は非常にまじめな日本研究のワークショップで、僕以外はまじめな世界各地の日本研究の若手中堅がそろって報告し、最後にはテッサ・モーリス・スズキが講演する、というもの。詳細を見てから冷や汗が出て、政治学は自分が一人だけだったが、主催するシェフィールドの教授はその筋では有名な政治学の方なので、やや政治学的な議論に修正した報告をすることに。実際、報告はわりとポジティブに受け止められ、安心する。
なお、テッサさんおよび報告で同席した吉見俊哉先生とは、ヒースローからマンチェスター空港への乗り換え時に遭遇し、そのままシェフィールドのホテルまで1時間くらいのタクシーに同乗。朝の食事なども同席させてもらった。発言はラディカルだが、人は大変素晴らしい方だった。あと、発表で一番おもしろかったのは、芸大の毛利さんで、まったくの初対面だった訳だが、あとで日本におけるカルスタの第一人者だったことを後で知る。
それにしても、初めてのイギリスは、大変快適でした。TNAに、2時間程度だったが滞在できたのも大きかった。日本を出る時の成田で、二松学舎のMさんとばったりと会ったのが大きかった。実際、使い方はMさんからほとんど教えてもらいました。
* * *
今年(2011年)は、在外研究の総仕上げとなる。長いと思っていた期間はあっという間に過ぎてしまった。EUIのコミトロジー史論文、『複数のヨーロッパ』で取り上げた50年代、2007年の国際政治学会の部会論文で取り上げた70年代、とやりたいテーマは盛りだくさんで、たぶんあと一年ではまとめきれないだろう。
他方で、在外に来てよくわかったのは、日本にいて研究することのメリット・デメリットである。それは、日本人がヨーロッパの学会にInvolveされてないのにヨーロッパに長くいることの意味と直結する。EUIのIさんを見ていて本当に感心するのは、学会へのコミットメント志向の強さで、たぶん、僕は最初からそれを諦めているところがある。それでは話にはならないのだが、それでも、やはり、研究にはそのテーマを研究をする人的なネットワークがあり、それに参加していないのにその研究テーマを研究するのはナンセンスである。残された課題は、そういった点にあるのは確かだろう。
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