明日からまた少しアーカイブ訪問でこちらを空けるので、さ来週の発表の準備を進める。
本当は、17時からKenneth Pomeranzが講演に来るので登録もしておいたのだが、準備が間に合わず泣く泣く諦める。
アーカイブのセミナー(内部の見学付き)もあって、Philipに行くかどうか尋ねたが、曰く「アーカイブを使ったことがない人向けの内容だし、第一しばらくしたら移転するから見学も意味なし」と断言され、そうかな、と思い行かず。その代わり発表の最低限の準備は終わる(大体60%)。あとは、関連文献をチェックして内容理解の上澄みと、言葉足らずな言い回しをもう少しなめらかにすることか。
2010年11月18日木曜日
2010年11月16日火曜日
11月15日
朝は9時から英語の授業。メランコリー概念をめぐる歴史論文の3パラグラフの文章に出てくる15個の動詞を消して、カッコの中に入る適切な動詞を考えよう(ただし選択式)、というもの。ペアになったイタリア人の院生とあーでもないこーでもない、と話し合う。最後にオリジナルの文章と突き合わせたが、15個中合っていたのは3分の一だった…。
13時からはいつものように統合史セミナー
今日の文献は、
Charlotte Bretherton & John Vogler, The European Union as Global Actor, Routledge, のうち第二章"The EU as an economic power and trade actor"とConclusion
Guiliano Garavini, "Foreign Policy beyond the Nation-State: Conceptualizing the External Dimension", in Kaiser & Varsori (eds.), History of the European Union, Palgrave.
で、EUの対外的側面について。
Bretheron&Voglerの文献は、主として90年代以降EUの対外経済・貿易関係のまとめ。GATT交渉やEUの対日、対米貿易についての特徴について書かれていて、文章は長いのだが、一言で言ってやや退屈。Conclusionでは政治学らしい用語が満ち溢れているのだが、正直何が言いたいのかよくわからない。
これに対してGaraviniのは、統合史における対外的側面に関する研究史のまとめなのだが、ここ最近の統合史の傾向を反映してか、60年代後半から70年代中盤にかけての統合史の対外的側面の研究がヨーロッパのアイデンティティの確立と結びつきながら展開していることを指摘している。そして最後に今後の展望が明確に書いてあり、政府だけにとどまらない政治的・経済的・社会的アクターへの注目を行うべきだと言う。特に世論、労組、シンクタンクが与えた影響などの分析の必要性を指摘する。また、68年以降の新しい社会運動がヨーロッパ統合にどのような影響を与えたのかを分析する必要がある、という。とても明確で分かりやすい。
論点は、そもそもEUの対外政策って何?、という随分ベーシックなところからスタート。たぶん、出席者がそれぞれいろんな意味で基礎的な知識が欠けている、と特に討論の進行役Aurellieが考えているからだろう。しかし議論は、対外経済関係の細かい話には一切行かず、EUが対外的や役割を果たす際のその独自性に注意するべし、という話にすぐに移行した(このあたりはRomeroが強引に路線転換)。このあたりは、第一回目のSheehanの議論とも関係するが、EUは軍事的なパワーにはならないが世界政治上の経済的・政治的なアクターではある。
SheehanはそのようなEUの非軍事的パワーのあり方にやや否定的な態度だったが、Romeroは、EUの対外的役割はCivilian Power論からも分かるように、規範的な存在として役割を発揮していることにあり、それがEUの独自性につながっていることに注目するべきだ、と言う。そして、そのようなアメリカ(や冷戦時におけるソ連)と言った軍事的存在は異なる規範的存在に自らのアイデンティティを置いたのであり、それが確立したのは確かに80年代から90年代にかけてなのだが、歴史的にさかのぼると、一つの起源は73年のヨーロッパ・アイデンティティ宣言にある、と。
と言う解説を受けて、議論は完全にヨーロッパ・アイデンティティをめぐって。出席者のうち、二人もがヨーロッパ・アイデンティティで博論を書こうとしているので仕方がないと言えばそうだが、EUの対外的側面やEUの対外政策に関する議論はどこかにいってしまった。
ところで、73年のヨーロッパ・アイデンティティ宣言については、自分も論文で取り上げたので、それが対外的側面のものとして登場したことは知っていたが(正確には、日本では対内的な側面しか取り上げられてこなかったので、それとは違う側面があることを紹介したかったのだが)、やはり話はもう少し複雑で、対外的側面(つまり世界政治におけるEUのアクターとしての独自性の獲得と発揮という側面)としてのアイデンティティ(自分はNation-Stateでもないし、米ソのような力を追及している訳でもない)と、対内的な側面はどちらもあって、うまくつながれないままにどさっと歴史の中に放り出されているような状態なのだ。
この論点は、もうすこし複雑で出席者の問題関心の傾向からして、まだまだ議論は続くだろう。
さらに、自分たち(EIHP)の統合史通史本のEU-NATO-CEレジームの議論に対して、EU-NATOがつながっているのは分かったが、EU-CEのつながりはどうなの?、という疑問を解消するもっと実証的な論点にもつながっていくような気がする。
さ来週は自分が発表者なので、自分の関心からこの論点についてしゃべってみたいとは思う。どこまで受け止めてもらえるかは定かではないが。
13時からはいつものように統合史セミナー
今日の文献は、
Charlotte Bretherton & John Vogler, The European Union as Global Actor, Routledge, のうち第二章"The EU as an economic power and trade actor"とConclusion
Guiliano Garavini, "Foreign Policy beyond the Nation-State: Conceptualizing the External Dimension", in Kaiser & Varsori (eds.), History of the European Union, Palgrave.
で、EUの対外的側面について。
Bretheron&Voglerの文献は、主として90年代以降EUの対外経済・貿易関係のまとめ。GATT交渉やEUの対日、対米貿易についての特徴について書かれていて、文章は長いのだが、一言で言ってやや退屈。Conclusionでは政治学らしい用語が満ち溢れているのだが、正直何が言いたいのかよくわからない。
これに対してGaraviniのは、統合史における対外的側面に関する研究史のまとめなのだが、ここ最近の統合史の傾向を反映してか、60年代後半から70年代中盤にかけての統合史の対外的側面の研究がヨーロッパのアイデンティティの確立と結びつきながら展開していることを指摘している。そして最後に今後の展望が明確に書いてあり、政府だけにとどまらない政治的・経済的・社会的アクターへの注目を行うべきだと言う。特に世論、労組、シンクタンクが与えた影響などの分析の必要性を指摘する。また、68年以降の新しい社会運動がヨーロッパ統合にどのような影響を与えたのかを分析する必要がある、という。とても明確で分かりやすい。
論点は、そもそもEUの対外政策って何?、という随分ベーシックなところからスタート。たぶん、出席者がそれぞれいろんな意味で基礎的な知識が欠けている、と特に討論の進行役Aurellieが考えているからだろう。しかし議論は、対外経済関係の細かい話には一切行かず、EUが対外的や役割を果たす際のその独自性に注意するべし、という話にすぐに移行した(このあたりはRomeroが強引に路線転換)。このあたりは、第一回目のSheehanの議論とも関係するが、EUは軍事的なパワーにはならないが世界政治上の経済的・政治的なアクターではある。
SheehanはそのようなEUの非軍事的パワーのあり方にやや否定的な態度だったが、Romeroは、EUの対外的役割はCivilian Power論からも分かるように、規範的な存在として役割を発揮していることにあり、それがEUの独自性につながっていることに注目するべきだ、と言う。そして、そのようなアメリカ(や冷戦時におけるソ連)と言った軍事的存在は異なる規範的存在に自らのアイデンティティを置いたのであり、それが確立したのは確かに80年代から90年代にかけてなのだが、歴史的にさかのぼると、一つの起源は73年のヨーロッパ・アイデンティティ宣言にある、と。
と言う解説を受けて、議論は完全にヨーロッパ・アイデンティティをめぐって。出席者のうち、二人もがヨーロッパ・アイデンティティで博論を書こうとしているので仕方がないと言えばそうだが、EUの対外的側面やEUの対外政策に関する議論はどこかにいってしまった。
ところで、73年のヨーロッパ・アイデンティティ宣言については、自分も論文で取り上げたので、それが対外的側面のものとして登場したことは知っていたが(正確には、日本では対内的な側面しか取り上げられてこなかったので、それとは違う側面があることを紹介したかったのだが)、やはり話はもう少し複雑で、対外的側面(つまり世界政治におけるEUのアクターとしての独自性の獲得と発揮という側面)としてのアイデンティティ(自分はNation-Stateでもないし、米ソのような力を追及している訳でもない)と、対内的な側面はどちらもあって、うまくつながれないままにどさっと歴史の中に放り出されているような状態なのだ。
この論点は、もうすこし複雑で出席者の問題関心の傾向からして、まだまだ議論は続くだろう。
さらに、自分たち(EIHP)の統合史通史本のEU-NATO-CEレジームの議論に対して、EU-NATOがつながっているのは分かったが、EU-CEのつながりはどうなの?、という疑問を解消するもっと実証的な論点にもつながっていくような気がする。
さ来週は自分が発表者なので、自分の関心からこの論点についてしゃべってみたいとは思う。どこまで受け止めてもらえるかは定かではないが。
2010年11月13日土曜日
11月12日
今日は午前に委員会副委員長のMaroš Šefcovicの講演を聞きに行く。
ペンを忘れ、持っていた鉛筆も隣に座ったAurellieに貸してしまい(「いや僕もこれしか持っていないんだよねー」とか言って断れない自分はヘタレ)、メモは取れなかったが、聞いていて大変面白かった。
なので、今となってはうろ覚えなのだが、ポイントは二つあって一つは、共同体機構と加盟国の利益はゼロサムゲームではないこと。これは確か。いろんな例を挙げて説明していた。
もうひとつは、よく覚えていないのだが、リスボン条約によって欧州議会への権限が増し、これが全体的な意思決定メカニズムを複雑にしている、時にはマヒさせているというもの、だったように思う。何の提案だったかは覚えていないが、Councilで決定されたものが議会でひっくり返され、そんなことはこれまでほぼあり得なかったことが起こった、ということを紹介していた。
本筋からは外れるのだが、この人はチェコスロバキア(分離後はスロバキア)出身の外交官で、ベルリンの壁が崩れる前はモスクワの国際関係大学で勉強し、壁崩壊後は、スタンフォードのフーバー研究所に留学に行ったそうだ。そのとき、モスクワで一緒だった旧東欧圏の外交官の卵達は、アメリカの基金でごっそり(旧ソ連のロシア人を含め)スタンフォードに移って突如英語と英語圏の勉強を始めた、と語っていた。
旧東欧圏のエリートがモスクワとアメリカ西海岸を経て、現在ブリュッセルの中枢にいるのである。冷戦の終わりと東方拡大の意味はこういうところにも表れているのだろうか。質疑応答ではPeter MaierやPepper Culpepperなどの錚々たる面子が質問していたが(Maierの質問は理解できたがCulpepperの英語は流暢過ぎて聞き取れない)、それを軽くいなしていたのも印象的。
ペンを忘れ、持っていた鉛筆も隣に座ったAurellieに貸してしまい(「いや僕もこれしか持っていないんだよねー」とか言って断れない自分はヘタレ)、メモは取れなかったが、聞いていて大変面白かった。
なので、今となってはうろ覚えなのだが、ポイントは二つあって一つは、共同体機構と加盟国の利益はゼロサムゲームではないこと。これは確か。いろんな例を挙げて説明していた。
もうひとつは、よく覚えていないのだが、リスボン条約によって欧州議会への権限が増し、これが全体的な意思決定メカニズムを複雑にしている、時にはマヒさせているというもの、だったように思う。何の提案だったかは覚えていないが、Councilで決定されたものが議会でひっくり返され、そんなことはこれまでほぼあり得なかったことが起こった、ということを紹介していた。
本筋からは外れるのだが、この人はチェコスロバキア(分離後はスロバキア)出身の外交官で、ベルリンの壁が崩れる前はモスクワの国際関係大学で勉強し、壁崩壊後は、スタンフォードのフーバー研究所に留学に行ったそうだ。そのとき、モスクワで一緒だった旧東欧圏の外交官の卵達は、アメリカの基金でごっそり(旧ソ連のロシア人を含め)スタンフォードに移って突如英語と英語圏の勉強を始めた、と語っていた。
旧東欧圏のエリートがモスクワとアメリカ西海岸を経て、現在ブリュッセルの中枢にいるのである。冷戦の終わりと東方拡大の意味はこういうところにも表れているのだろうか。質疑応答ではPeter MaierやPepper Culpepperなどの錚々たる面子が質問していたが(Maierの質問は理解できたがCulpepperの英語は流暢過ぎて聞き取れない)、それを軽くいなしていたのも印象的。
2010年11月12日金曜日
11月11日
今日はMentorのセミナーだったが、昨日のセミナー発表のため文献を全く読んでおらず、指定されていた分量のほとんど読み切れないまま出席。どうも疲れがたまっていて欠席しようかと思ったが、それではこちらにいる意味がないので、がんばってセミナー室に向かう。
今日のテーマは国際連盟で、Wilsonian Momentについて評価をめぐって議論は進んだ。
最初は、課題文献において第一大戦終了後第三世界(エジプト・中国・インド・Korea)の指導者の多くがマルクスレーニン主義的なAnticolonialstになったのはなぜか、というテーゼをめぐって。
その後もイマイチ論点があんまり興味深い感じがせず、発言も一度だけ。国際連盟が機能的に見れば、知識人にせよ経済問題にせよネットワークを形成し知識の伝達が果たされていった点を最新の研究はTransnational Historyの側面から研究していているが、これは旧来のCosomopolitalismとどう違うのか、という問題が出てきて、その文脈において、アジア諸国から見ればそれまで西洋的知識にはある程度の文明的標準という性格が付きまとっていたが、国際連盟が作られ知識伝達の制度化が行われたことで、従来の文明標準という性格付けが薄れたのではないか、そうならば、制度化という点においてCosmopolitanismと国際連盟におけるTransnationalismは違う、ということをしゃべった。正直、この考えがどこまで妥当なのかは自信がないのだが。。。というか、たぶんこれが日本のセミナーだったら、こういう仮説はどうか、という風に提案できるのだけど、アジアを絡ませるとアジア代表みたいになってしまう。正直これは結構問題である。
しかし、セミナーが終わった後、図書館に向かう道でたまたま一緒になったこれまで話したことのない出席者の院生(ドイツ人)が話しかけてくれた。戦間期を研究しているということで、僕の発言は非常に興味深かったそうだ。日本人はおろかアジア人もほとんどいない環境なので(日本人は四人だけで中国人がちらほらいる程度)、一応アジアの歴史はこうなっています、ということを(も)時には話さざるを得ないのだが、やはり19世紀や戦間期あたりはかなり自信がない。やはり日本政治外交史と東アジア国際関係史の教科書は持ってくるべきだったなあ、と反省。
ところで、ドイツ人院生とはその後バールでお茶を飲みながら世間話をしたが、なぜかおごってくれてドイツ語でお礼を言ったら、えっ?しゃべれるの?と聞かれ、必死にドイツ語勉強歴をドイツ語でしゃべってみた。ひとしきりしゃべったら会話は英語に戻った。やや微妙な感じだが、こちらで知り合ったドイツ人とちょっとドイツ語で話すと確かに驚かれるのだが会話はすぐ英語に戻る(こちらがドイツ語で会話を続けられる程度ではないと向こうも分かるから)。これが、フランス人相手のフランス語だと会話はどこまでもフランス語で続くし、向こうも英語に戻す気はさらさらない。
第三国で独仏双方を見てみると、正直なぜ独仏友好が成立したのか不思議なくらい気質は違うなあ。「理性的な結婚」という説明が実感として伝わってくる。
今日のテーマは国際連盟で、Wilsonian Momentについて評価をめぐって議論は進んだ。
最初は、課題文献において第一大戦終了後第三世界(エジプト・中国・インド・Korea)の指導者の多くがマルクスレーニン主義的なAnticolonialstになったのはなぜか、というテーゼをめぐって。
その後もイマイチ論点があんまり興味深い感じがせず、発言も一度だけ。国際連盟が機能的に見れば、知識人にせよ経済問題にせよネットワークを形成し知識の伝達が果たされていった点を最新の研究はTransnational Historyの側面から研究していているが、これは旧来のCosomopolitalismとどう違うのか、という問題が出てきて、その文脈において、アジア諸国から見ればそれまで西洋的知識にはある程度の文明的標準という性格が付きまとっていたが、国際連盟が作られ知識伝達の制度化が行われたことで、従来の文明標準という性格付けが薄れたのではないか、そうならば、制度化という点においてCosmopolitanismと国際連盟におけるTransnationalismは違う、ということをしゃべった。正直、この考えがどこまで妥当なのかは自信がないのだが。。。というか、たぶんこれが日本のセミナーだったら、こういう仮説はどうか、という風に提案できるのだけど、アジアを絡ませるとアジア代表みたいになってしまう。正直これは結構問題である。
しかし、セミナーが終わった後、図書館に向かう道でたまたま一緒になったこれまで話したことのない出席者の院生(ドイツ人)が話しかけてくれた。戦間期を研究しているということで、僕の発言は非常に興味深かったそうだ。日本人はおろかアジア人もほとんどいない環境なので(日本人は四人だけで中国人がちらほらいる程度)、一応アジアの歴史はこうなっています、ということを(も)時には話さざるを得ないのだが、やはり19世紀や戦間期あたりはかなり自信がない。やはり日本政治外交史と東アジア国際関係史の教科書は持ってくるべきだったなあ、と反省。
ところで、ドイツ人院生とはその後バールでお茶を飲みながら世間話をしたが、なぜかおごってくれてドイツ語でお礼を言ったら、えっ?しゃべれるの?と聞かれ、必死にドイツ語勉強歴をドイツ語でしゃべってみた。ひとしきりしゃべったら会話は英語に戻った。やや微妙な感じだが、こちらで知り合ったドイツ人とちょっとドイツ語で話すと確かに驚かれるのだが会話はすぐ英語に戻る(こちらがドイツ語で会話を続けられる程度ではないと向こうも分かるから)。これが、フランス人相手のフランス語だと会話はどこまでもフランス語で続くし、向こうも英語に戻す気はさらさらない。
第三国で独仏双方を見てみると、正直なぜ独仏友好が成立したのか不思議なくらい気質は違うなあ。「理性的な結婚」という説明が実感として伝わってくる。
2010年11月10日水曜日
セミナー終了
こちらの研究所のセミナーが終了。タイトル(発表順)は以下の通りでした。
(自分):From Community to Polity? History of Comitology and the Development of Political Systems within European Community, 1960-1986
Philip Bajon, Votes and Vetoes: The Legacy of the Luxembourg Compromise 1966-1986
Aurellie Elsa Gfeller, The European Parliament in Historical Perspective
Philipの発表は、ルクセンブルグの妥協によって形成された、彼が呼ぶところのVeto Culture(ECの意思決定に関し、本来QMVで議決を取ることができるのに議決を避けるために決定をしない)が、SEAの採択までに、一体どのような理由で衰退していったのか、ということを研究していく、というもの。政府間的な交渉だけでなく、メディアやEPにおける政党勢力の言説を追いながら検討していくという。
Aurellieのは、EPの直接選挙以降に最初に議長に選ばれたSimone Veilを取り上げ、EPがヨーロッパ統合に対してどのようなインパクトを与えたのか、ということを検討するもの。プレゼンを聞いていると非常によく練られていたように感じたのだが、こうして日本語にすると何かが足りないなあ。
自分の発表に対して、Adrienne Heritier(!)が「大変面白い研究計画で言いたいことはたくさんあるのだが」と前置きしたうえで、「コミトロジーが拡大したのは何の役割rolesがあるのか」という質問をした(自分が聞き取った発言を直訳するとそういう日本語になる。英語での質問文は非常に短かった)。正直意味が分からず戸惑う。ちなみに、Heritier自身、コミトロジーとEU政治過程で論文を書いているので(ただ読んでいない)、自分で解釈し直して、あなたが聞きたいことは、コミトロジー委員会の数の量的拡大はその性格の質的変化を意味するわけではないということなのか、と聞き返した。
すると、彼女は、言いたいことが全く分からないと返答。司会のKiranがもう一度質問を繰り返すのがいいでしょう、とHeritierに促してくれた。それでもう一度質問しなおしてくれたのだが、どうも彼女が聞きたかったのは、「一般論としてコミトロジーが拡大したのは何が原因と考えられているのか」というかなり単純な質問だったようである(Heritier本人は発表者からのコメントを聞いたら途中で退席してしまったので他に言いたいことが何なのかは不明)。
さらに、Romeroから、君が取り組む変化というのは一体どういうアナロジーが考えられるのか、という質問。
というわけで、その質問にああでもないこうでもないと返答。非常に聞き苦しい、プリミティブな英語で恥ずかしい限りだが。。。
その後、コミトロジー委員会に昔務めていたという例のシニア・フェローより、非常に有益なコメントをいただく。
全体的に、自分の取り組むべき議論の射程とこれから詰めていかければならない課題がよく見えた。終わった後、Heritierからの質問を全然理解していなかったゆえに頓珍漢な返答をして彼女に全然通じなかったことについて、自分の隣に座っていたアメリカ人のFellowと話したら、「いや私はあなたの言いたかったことを理解した。こういうことだろ。○○」と言ってくれた。それはその通りだったので、言葉が通じなかったからと言ってむやみに落ち込み必要はないのかも、と思った次第。
それと、Heritierはフランス系ドイツ人だとばっかり思っていたけど、実はスイス人なのだとか。それにしても、彼女がセミナーが始まる直前に部屋に入った時には緊張が走った。彼女のような研究者からコメントをもらえるとは。。自分への質問は極めて単純だったが、PhilipとAurellieへの質問は非常にシャープでかつ辛辣だった。この二人と比べると、自分の研究は仮説がない状態に近い本当に手を付けたばかりの研究計画だったからであろうか。いずれにせよ、今日は出発点に過ぎず、まだまだ論文完成までの道のりは長い。
*追記
セミナーが始まる前、研究室が入っているVillaが同じの委員会から派遣されているEU Fellowという肩書の人(ややシニアっぽい。スペイン人だが英仏どちらも非常に流暢で、かつとっても気さくに話してくれる)の人から、Comitologyについてその後の研究はどう?と聞かれて、コミトロジーの発展とその意味に関する自分なりの現在の仮説を少し話してみた。すると彼は自分の仮説をとても興味を持って聞いてくれた。そしてその仮説の検証は、セミナーが閉める際に司会のKiranが、今から君が取り組まなければならないのはこういう点じゃないのか、というアドバイスとぴったりはまっていた。ただ、自分の考えているその論点を、どういう史料から読み取っていいのかがまったく見えないことが問題であり課題。
ところで、どうしてそういうことを書くのかというと、昔留学から帰国して、自分が博士論文の構想について迷っていたとき、指導教官のT先生の部屋を何らかの理由で訪れていたとき、不意にT先生が、博論の全体的な構想の話を振ってきた。その時まで、ド・ゴール外交の展開と独仏関係をその政権時期全体までカバーすることは、かなり漠然としか考えていなかったが、DEA論文で扱った内容やその時自分が考えていることをつらつらとしゃべっているときに、「○○という軸を通すのであれば、69年の辞任の時期まで含めないとだめですね、でもそれはちょっと大変だとおもうので…」ということをT先生にしゃべったのだ。しかし、「それは大変(無理かも知れない、という風にしゃべったかも)」と自分で話しておきながら、それを話しているのと同時に、でもこれはそうせざるを得ないしそうすることで拡散する話が一つの物語にまとまるのではないか、ということを思いついた。
歴史は常にごちゃごちゃしていて、内容としては矛盾していて、一本の話の道筋を見通すことは難しい。史料に基づくとなおさらである。それでも、ある瞬間に、その道筋が突然開けることがある。
今の研究は、その道筋が見えている状態ではないが、それでも、歴史研究をやめることができないのは、あの道筋が見えた瞬間の感覚を覚えているからだろう。その感覚を忘れたときは、歴史研究は店じまいするときなのかも知れない。
(自分):From Community to Polity? History of Comitology and the Development of Political Systems within European Community, 1960-1986
Philip Bajon, Votes and Vetoes: The Legacy of the Luxembourg Compromise 1966-1986
Aurellie Elsa Gfeller, The European Parliament in Historical Perspective
Philipの発表は、ルクセンブルグの妥協によって形成された、彼が呼ぶところのVeto Culture(ECの意思決定に関し、本来QMVで議決を取ることができるのに議決を避けるために決定をしない)が、SEAの採択までに、一体どのような理由で衰退していったのか、ということを研究していく、というもの。政府間的な交渉だけでなく、メディアやEPにおける政党勢力の言説を追いながら検討していくという。
Aurellieのは、EPの直接選挙以降に最初に議長に選ばれたSimone Veilを取り上げ、EPがヨーロッパ統合に対してどのようなインパクトを与えたのか、ということを検討するもの。プレゼンを聞いていると非常によく練られていたように感じたのだが、こうして日本語にすると何かが足りないなあ。
自分の発表に対して、Adrienne Heritier(!)が「大変面白い研究計画で言いたいことはたくさんあるのだが」と前置きしたうえで、「コミトロジーが拡大したのは何の役割rolesがあるのか」という質問をした(自分が聞き取った発言を直訳するとそういう日本語になる。英語での質問文は非常に短かった)。正直意味が分からず戸惑う。ちなみに、Heritier自身、コミトロジーとEU政治過程で論文を書いているので(ただ読んでいない)、自分で解釈し直して、あなたが聞きたいことは、コミトロジー委員会の数の量的拡大はその性格の質的変化を意味するわけではないということなのか、と聞き返した。
すると、彼女は、言いたいことが全く分からないと返答。司会のKiranがもう一度質問を繰り返すのがいいでしょう、とHeritierに促してくれた。それでもう一度質問しなおしてくれたのだが、どうも彼女が聞きたかったのは、「一般論としてコミトロジーが拡大したのは何が原因と考えられているのか」というかなり単純な質問だったようである(Heritier本人は発表者からのコメントを聞いたら途中で退席してしまったので他に言いたいことが何なのかは不明)。
さらに、Romeroから、君が取り組む変化というのは一体どういうアナロジーが考えられるのか、という質問。
というわけで、その質問にああでもないこうでもないと返答。非常に聞き苦しい、プリミティブな英語で恥ずかしい限りだが。。。
その後、コミトロジー委員会に昔務めていたという例のシニア・フェローより、非常に有益なコメントをいただく。
全体的に、自分の取り組むべき議論の射程とこれから詰めていかければならない課題がよく見えた。終わった後、Heritierからの質問を全然理解していなかったゆえに頓珍漢な返答をして彼女に全然通じなかったことについて、自分の隣に座っていたアメリカ人のFellowと話したら、「いや私はあなたの言いたかったことを理解した。こういうことだろ。○○」と言ってくれた。それはその通りだったので、言葉が通じなかったからと言ってむやみに落ち込み必要はないのかも、と思った次第。
それと、Heritierはフランス系ドイツ人だとばっかり思っていたけど、実はスイス人なのだとか。それにしても、彼女がセミナーが始まる直前に部屋に入った時には緊張が走った。彼女のような研究者からコメントをもらえるとは。。自分への質問は極めて単純だったが、PhilipとAurellieへの質問は非常にシャープでかつ辛辣だった。この二人と比べると、自分の研究は仮説がない状態に近い本当に手を付けたばかりの研究計画だったからであろうか。いずれにせよ、今日は出発点に過ぎず、まだまだ論文完成までの道のりは長い。
*追記
セミナーが始まる前、研究室が入っているVillaが同じの委員会から派遣されているEU Fellowという肩書の人(ややシニアっぽい。スペイン人だが英仏どちらも非常に流暢で、かつとっても気さくに話してくれる)の人から、Comitologyについてその後の研究はどう?と聞かれて、コミトロジーの発展とその意味に関する自分なりの現在の仮説を少し話してみた。すると彼は自分の仮説をとても興味を持って聞いてくれた。そしてその仮説の検証は、セミナーが閉める際に司会のKiranが、今から君が取り組まなければならないのはこういう点じゃないのか、というアドバイスとぴったりはまっていた。ただ、自分の考えているその論点を、どういう史料から読み取っていいのかがまったく見えないことが問題であり課題。
ところで、どうしてそういうことを書くのかというと、昔留学から帰国して、自分が博士論文の構想について迷っていたとき、指導教官のT先生の部屋を何らかの理由で訪れていたとき、不意にT先生が、博論の全体的な構想の話を振ってきた。その時まで、ド・ゴール外交の展開と独仏関係をその政権時期全体までカバーすることは、かなり漠然としか考えていなかったが、DEA論文で扱った内容やその時自分が考えていることをつらつらとしゃべっているときに、「○○という軸を通すのであれば、69年の辞任の時期まで含めないとだめですね、でもそれはちょっと大変だとおもうので…」ということをT先生にしゃべったのだ。しかし、「それは大変(無理かも知れない、という風にしゃべったかも)」と自分で話しておきながら、それを話しているのと同時に、でもこれはそうせざるを得ないしそうすることで拡散する話が一つの物語にまとまるのではないか、ということを思いついた。
歴史は常にごちゃごちゃしていて、内容としては矛盾していて、一本の話の道筋を見通すことは難しい。史料に基づくとなおさらである。それでも、ある瞬間に、その道筋が突然開けることがある。
今の研究は、その道筋が見えている状態ではないが、それでも、歴史研究をやめることができないのは、あの道筋が見えた瞬間の感覚を覚えているからだろう。その感覚を忘れたときは、歴史研究は店じまいするときなのかも知れない。
2010年11月9日火曜日
とりあえず
明日の発表用の原稿とスライドが完成。研究報告ではなく、研究計画報告はたぶん初めてかも知れない。科研等で、こういう研究する予定です、見込まれる成果は○○です、というのは書き慣れていたつもりだが、あすはすぐさまフィードバックがあるので、いい加減なことは書けない(科研のがいい加減という訳ではないのだが)。また、他の人も言っているのだが、研究自体は進めていくうちに予期せぬ知見を発見し、当初の研究計画が(良い意味で)狂うことがある。そういう将来的な未知項目を織り込むことは基本的に不可能なので、根本的にあいまいな計画にならざるを得ない。
ということで、問題は発表ではなく、発表後の質疑応答の方だ。
当座の発表までにパソコンが持ちそうで安心。しかし、本当に壊れたらどうしよう。。。
ということで、問題は発表ではなく、発表後の質疑応答の方だ。
当座の発表までにパソコンが持ちそうで安心。しかし、本当に壊れたらどうしよう。。。
オリンピックでの敵はオリンピックで取る
オリンピックの時、前回出場したにも関わらず成績があまり振るわなかった選手がよく「オリンピックでの失敗はオリンピックの時にか晴らせない」というようなことを言っている。
自分はまったく運動下手だがその気持ちはよくわかる。
研究者の場合、研究で犯した失敗は研究でしか挽回できない。研究がうまくいかないストレスは、研究を進めることでしか晴らせないからだ。
思うに、スポーツの世界と研究の世界は、一見対極にあるようでその実よく似ているところがある。研究の世界は、一見するとコネと人脈と水面下の根回しが横行する世界のように考えている人もいるかも知れないが、最終的には研究成果という名の実力がモノを言うし、結局実力がない人は消えていってしまう。また、ある時期までに成果を出せなければアリーナの中から排除されてしまうのも、スポーツにおいて試合や大会で結果を出せない人がそのうち消えてしまうのと同じだ。
あと、とりわけこちらの研究者(院生を含め)を見ていて思うのだが、太っている人がほとんどいない。基本的に不摂生しないことと、ランニング、サッカー、自転車等の運動を定期的にする人が多いように感じる。つまりは、自己管理ができるかどうか、という点で、やっぱり研究とスポーツには不思議な共通点が多い。
自分はまったく運動下手だがその気持ちはよくわかる。
研究者の場合、研究で犯した失敗は研究でしか挽回できない。研究がうまくいかないストレスは、研究を進めることでしか晴らせないからだ。
思うに、スポーツの世界と研究の世界は、一見対極にあるようでその実よく似ているところがある。研究の世界は、一見するとコネと人脈と水面下の根回しが横行する世界のように考えている人もいるかも知れないが、最終的には研究成果という名の実力がモノを言うし、結局実力がない人は消えていってしまう。また、ある時期までに成果を出せなければアリーナの中から排除されてしまうのも、スポーツにおいて試合や大会で結果を出せない人がそのうち消えてしまうのと同じだ。
あと、とりわけこちらの研究者(院生を含め)を見ていて思うのだが、太っている人がほとんどいない。基本的に不摂生しないことと、ランニング、サッカー、自転車等の運動を定期的にする人が多いように感じる。つまりは、自己管理ができるかどうか、という点で、やっぱり研究とスポーツには不思議な共通点が多い。
2010年11月8日月曜日
パソコンの調子が…
おかしい。昨日、スリープ状態から復帰させた途端に、ピーという音が鳴りはじめ(かなり大きい)、止まらない。動作は通常通り動くようだったので、バックアップを取ってなかった当座重要なドキュメントファイルをUSBに移して電源を落とす(それがいいのかどうかわからないが)。
本日、セミナーが終わって電源を入れたところ、どうも音はならないようだ。しかし、このPC、正直動作が不安定なのところがあるので、いつHDDがクラッシュしても不思議ない気が…。
さらに悪いことに、仏和・和仏、仏英・英仏、仏仏、和伊・伊和、英和・和英、英辞朗、独和・和独のアプリが入っているi-pod Touchが行方不明に。金曜日に食事に行く時に机の上に置いてからの記憶がない。今日、家にも研究室にもどこにもないことが分かり、同室のPhilipやこのVillaのセクレタリアの人に聞いたがどうも心当たりがないという。清掃の時に落し物として拾われていないかを担当部署にメールで問い合わせる。
本日、セミナーが終わって電源を入れたところ、どうも音はならないようだ。しかし、このPC、正直動作が不安定なのところがあるので、いつHDDがクラッシュしても不思議ない気が…。
さらに悪いことに、仏和・和仏、仏英・英仏、仏仏、和伊・伊和、英和・和英、英辞朗、独和・和独のアプリが入っているi-pod Touchが行方不明に。金曜日に食事に行く時に机の上に置いてからの記憶がない。今日、家にも研究室にもどこにもないことが分かり、同室のPhilipやこのVillaのセクレタリアの人に聞いたがどうも心当たりがないという。清掃の時に落し物として拾われていないかを担当部署にメールで問い合わせる。
2010年11月5日金曜日
11月5日
お昼に、来週のセミナー打ち合わせのためのワーキングランチ。結論から言えば、ほとんど一から書き直し。こちらの研究テーマとしてコミトロジーの歴史研究を挙げたのはいいが、歴史研究をする意義をもっと押し出す必要があるというコメントに加え、Aurellieが言うにはKnudsenが数年前からこのテーマで研究しているとのこと。
2010年11月4日木曜日
11月4日
昨日は家に帰ってからもセミナー発表用原稿にうんうん唸るが時間も量も限られているので(そもそも発表は、こういう研究をします、という研究計画の発表であって成果ではない)、最低限の文章を活字化していく。
というのも、木曜日までに草稿を三人の発表者+Mentorに送って金曜日のランチでその内容を話し合う、という計画だからだ。なので、今日がタイムリミット。
最初は英語で考えてそれを英語で書いていっていたが、やはり自分の付け焼刃の英語力では数日後に読み返すと幼稚園児のような文章なので、ある程度日本語で書くべき内容を文章化して、その日本語を英語に直しつつ英語であれば必要な論理構成に変えていく、という方向に転換。英語の文章は何回か書いているが、結局のこのようなやり方でしかうまくいかない。これってどうなんだろう。
夜中の3時前くらいになってようやく一通りの文章が完成して就寝。起床は9時。やはり6時間寝ないと頭が働かない(すいません)。研究室に行って昨日書いた文章を読みなおしてこまごまと修正していく。12時半にいつものように同じVillaの面子がランチに行くがまだ完成しないので先に行ってもらうが13時前に送付完了。
昼食後、15時からのセミナー準備をしてMentorのセミナー(International History)へ。今日のテーマは各国のInternational Historyの研究状況について。せっかく日本からの出席者がいるのだからと自分も今日は発表を割り当てられていた。かなりラフながらも、日本の国際関係史研究を東アジア国際関係史の系譜と日本政治外交史の系譜に分けながらスケッチしたペーパーは、結局9ページになってしまった。正直10日のセミナーよりもかなり熱心に書けたし、書いていて楽しかった。実際、出席者も割と興味深く読んでくれたようだ。イタリアのケースについて本当は院生が発表する予定だったのだが、テキストの指定を間違ってしてしまい、急きょ教員のRomeroが自分が昔書いた論稿をサマライズしたのだが、イタリアの状況は日本の状況と似ていて面白いとコメント(ということはIさんに聞いて知っていたのだがRomeroが言うと実感がわく)。相変わらず英語は時々我ながら意味不明になるのだが、ペーパーを書いたお陰か、原稿を見ないまま5分くらい発表する。一応なんとか上達はしているのだと自分をほめておきたい。
セミナーの論点は、最初は国際関係史研究と各国のNational Identityとの関係について、後半はCultural Turnの国際関係史研究の影響についてだった。前者はともかく、後者はよくわからず。ただ、前者を議論している際ちょっと介入できてしかもそれを踏まえたうえで議論が続いたので、ようやく最初の関門を突破した気になる。重要なのはこれを続けることだ。
セミナー終了後は図書館に戻り、昼食前に送ったセミナー用原稿を読み直す。すごくプリミティブな文法間違いを大量に発見、で現在に至る。
というのも、木曜日までに草稿を三人の発表者+Mentorに送って金曜日のランチでその内容を話し合う、という計画だからだ。なので、今日がタイムリミット。
最初は英語で考えてそれを英語で書いていっていたが、やはり自分の付け焼刃の英語力では数日後に読み返すと幼稚園児のような文章なので、ある程度日本語で書くべき内容を文章化して、その日本語を英語に直しつつ英語であれば必要な論理構成に変えていく、という方向に転換。英語の文章は何回か書いているが、結局のこのようなやり方でしかうまくいかない。これってどうなんだろう。
夜中の3時前くらいになってようやく一通りの文章が完成して就寝。起床は9時。やはり6時間寝ないと頭が働かない(すいません)。研究室に行って昨日書いた文章を読みなおしてこまごまと修正していく。12時半にいつものように同じVillaの面子がランチに行くがまだ完成しないので先に行ってもらうが13時前に送付完了。
昼食後、15時からのセミナー準備をしてMentorのセミナー(International History)へ。今日のテーマは各国のInternational Historyの研究状況について。せっかく日本からの出席者がいるのだからと自分も今日は発表を割り当てられていた。かなりラフながらも、日本の国際関係史研究を東アジア国際関係史の系譜と日本政治外交史の系譜に分けながらスケッチしたペーパーは、結局9ページになってしまった。正直10日のセミナーよりもかなり熱心に書けたし、書いていて楽しかった。実際、出席者も割と興味深く読んでくれたようだ。イタリアのケースについて本当は院生が発表する予定だったのだが、テキストの指定を間違ってしてしまい、急きょ教員のRomeroが自分が昔書いた論稿をサマライズしたのだが、イタリアの状況は日本の状況と似ていて面白いとコメント(ということはIさんに聞いて知っていたのだがRomeroが言うと実感がわく)。相変わらず英語は時々我ながら意味不明になるのだが、ペーパーを書いたお陰か、原稿を見ないまま5分くらい発表する。一応なんとか上達はしているのだと自分をほめておきたい。
セミナーの論点は、最初は国際関係史研究と各国のNational Identityとの関係について、後半はCultural Turnの国際関係史研究の影響についてだった。前者はともかく、後者はよくわからず。ただ、前者を議論している際ちょっと介入できてしかもそれを踏まえたうえで議論が続いたので、ようやく最初の関門を突破した気になる。重要なのはこれを続けることだ。
セミナー終了後は図書館に戻り、昼食前に送ったセミナー用原稿を読み直す。すごくプリミティブな文法間違いを大量に発見、で現在に至る。
2010年11月2日火曜日
11月2日
週末から火曜朝までのパリ出張の間に11月。Easyjetを使っての帰還だが、4回乗って4回とも着陸時に拍手が出た。ヨーロッパ線の短い距離だっちゅうのに。なぜ?
あと、Easyjetのすごいのは、後ろの扉も使って客を出し入れすること(LCCはどこもそうなのか?)。基本デッキを使わないのでそれが可能なのだな。余熱たっぷりでクールダウン中のエンジンの横を通り過ぎるのはなかなか迫力がある。一人の移動で荷物が一個にまとまる場合は、Easyjetは本当に楽だ。一日数本の長距離列車の自由席に乗るような感覚。
イタリア帰還後はそのまま研究室に行き、まずは木曜日のセミナー原稿を送付。その後来週のセミナー発表用原稿に手を付けるが、どうも進まない。時間だけが無駄に過ぎてそのまま帰宅。家に帰っても集中力が切れた状態が続く。
あと、Easyjetのすごいのは、後ろの扉も使って客を出し入れすること(LCCはどこもそうなのか?)。基本デッキを使わないのでそれが可能なのだな。余熱たっぷりでクールダウン中のエンジンの横を通り過ぎるのはなかなか迫力がある。一人の移動で荷物が一個にまとまる場合は、Easyjetは本当に楽だ。一日数本の長距離列車の自由席に乗るような感覚。
イタリア帰還後はそのまま研究室に行き、まずは木曜日のセミナー原稿を送付。その後来週のセミナー発表用原稿に手を付けるが、どうも進まない。時間だけが無駄に過ぎてそのまま帰宅。家に帰っても集中力が切れた状態が続く。
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