2010年12月29日水曜日

パリに戻る

21日にパリにもどり、家族と一週間を過ごす。基本的にテレビを付けないし、天気も家族の多くの体調もイマイチなので、特に外出もせず、世の中の趨勢からはだいぶん取り残された時間の流れのなかで過ごしているが、これはこれで非常に贅沢なのではないかと思う。

以下、備忘録的にした事の記録
・子供のクリスマスプレゼントの手配:うちの子供(8歳と4歳)はまだサンタの存在を信じているため、親が目の前でプレゼントを買うことができない。日本にいた時は、子供がいない時間を見計らってAmazonで購入ということもできたが、こっちでは難しい。しかも、日本と違って、親子が常に同時に動くので、親が子供に黙ってプレゼントを買うと言うのが結構難しいのだ。それに、子供がサンタに願うプレゼントも直前までずいぶん揺れ動く。最後は、市内の某デパートで購入。そのデパートのシールがついた包装でツリーの下に置いたのだが、その部分には全く気付かず。
それにしても、子供がサンタの存在を信じなくなったら、それはそれでつまらなくなるんだろうなあ。

・突然消えた家の台所の照明の復旧。←日本では考えにくいが、突然台所と玄関だけの照明がつかなくなる。まだ自分がフィレンツェに居た時になったので、この件で奥さんはかなりの消耗を強いられる。ヒューズが飛んだのが原因ではと知り合いに教えてもらったが、一体どれがヒューズが分からないから。自分が帰宅して次の日の朝に大家に電話したが、どうにも説明されるフランス語がよくわからない。アパート内ではなくエレベーター横にある電機集合盤のヒューズが問題では、と言われ、それを抜くとアパート全体の電気が落ちるばかりか、抜いたヒューズを持ってブリコラージュのお店に行っても、これは店で売っているものではなくEDFに問い合わせろ、との返答。
この時点で、かなり先行き不安になる。念のためと思った仲介不動産の日本人担当者にメールで問い合わせたら、電話があり、部屋のパーツごとに分かれたヒューズが絶対にアパートの部屋の中にあるはず、と言われ、どうもそれらしいものを抜こうとするが、固くて動かない。電話を切ってかなり力を入れてようやく抜ける。なるほど、集合盤のより小さなヒューズが入っていた。そこで、そのヒューズを持って、もう一度ブリコラージュのお店へ。このサイズなら、三つで4ユーロ程度。
しかし、ヒューズは10個くらいあり、どれだどれに対応しているのか分からない。よく見ると、かつてはシールが張っていたが、それを剥がした跡がある。それくらい、付けとけよ!まったく、ここの大家は自分のうちの物件に不案内すぎる。
仕方がないので、家の電気をすべて付けて、一つづつヒューズを落としていき、どれがどれに対応しているのかを確認していく。その上でたぶんここか、という場所が3つくらいあったので、それぞれに電球をつけ直して確認していく。
結局30分くらいで作業は終了したが、電気、水道というインフラがやられると住居は激しく住みにくくなるというのをフランスでは実感している。妻は、フランスは先進国ではなかったの?と呆れているが、電気と水道の住宅へのインフラはヨーロッパでは日本より完璧ではないのは確かだとおもう。もちろん、日本の状況が改善されたのはここ20年程度の話だとは思うが、ここまですぐに壊れやすくはないと思う。
こういう、インフラにとどまらず、フランスには結構テキトーなレベルで物事をとどめておいて、人々がいろいろ苦労しながらメンテをする、という側面と、妙な物事(制度)の先進性が並立しているのが不思議だが、先進的な制度をつくっときながら、それを半端なレベルでの充実にとどめておくのが、フランスが近年衰退とか言われる原因の片棒を担いでいるのではないかと思うのと、それを支えているのは、フランスに顕著な物事に対する無責任の心性ではないか、と思わざるを得ない。

・シャワーの付け替え。4月に入居して、これが三度目のシャワーの付け替え。壊れるのは決まって、シャワーヘッドとシャワーホースの接合部分で、ここから水が漏れるために、シャワーヘッドから十分な水が出てこなくなる、というもの。シャワーホースには2年とか5年とかの保障が付いているが、これは一体何の数字なのだろうか。

2010年12月20日月曜日

フィレンツェ足止め

昨日、夜8時に便にピサから飛ぶ便に変更した訳だが、昨日はパリがひどい天候となり、昼までの便はパリは全便が欠航になった。しかし、夜便についてはOn Timeの表示が出続け、天気予報だと夜には雪がやむような感じだったので、期待してPisaに向かった。ただし、昨日もバスはひどい混みようで、スーツケースを諦めて、本当の最低限の荷物をリュックに詰め直して身を軽くして移動。
ピサ空港には午後6時半くらいにつくと、その時点では確かにまだOnTimeの表示。しかし、しばらくすると、出発が23時に変更になる。おいおい、これでキャンセルになったら本当に空港に止まりだな、と思ってしばらくまっていると、7時半ころ、ついにキャンセルとなる。

その場で慌ててネットにつないで(USBキーが使えずクレジットカード払い)航空会社のサイトから取り直し。しかし、この時点で最短で帰れるのは21日の便のみ。その後、また電車に揺られて家に帰る。SMN駅についてバス停に移動すると、ちょうど自分が乗るバスが止まっていたのがラッキーだった。

そして今日、旅客状況をチェックしなおすと、相変わらずパリはすごい天気らしく、パリ便は早々にキャンセルになっていた。パリの家にもいろいろトラブルが起こっているので、あすは何としても飛んでもらわないと困る。

2010年12月18日土曜日

雪のフィレンツェ

日本でもニュースになっているが、フィレンツェでは昨日の17日の昼頃から雪が降り始め、最初は風流があるなあ、とぐらいにしか思っていなかったが、夕方以降も止むことはなく、どうもフィレンツェの交通はマヒ状態に。帰りのバスは5時の段階で既になく、坂を歩きながら下っていたら、坂の途中でバスが乗り捨てられていた。
空港も閉鎖と伝えられ、昨日のWSもやや早めに切り上げれらたのだが、WSの合間の会話はもっぱら帰省のときの飛行機がきちんとと飛ぶか、というものだった。金曜の夜、フェロー仲間で最後のApertivoをCentroでやろう、と言っていたのだが、そもそもバスも止まっており、これは当然無理に。

で、本当は今日の土曜日は自分もパリに戻る予定だったのだが、朝起きて出発するピサ空港の情報を見ると、どうも便が止まっている様子。予約していた便は夜の最終便に近いものだったのだが、夜になれば空くのだろうか。天気自体は今日(18日)は快晴で温かく、昨日降った雪は一部融けて、3月末から4月初頭の札幌のような様子である。
部屋の掃除をしながら、ピサ空港、航空会社、ピサの天気、パリの空港の状況(パリから飛行機が飛ばないとピサからの飛行機は当然無くなる)の四つの状況を何分かお気にチェックするのだが、朝の飛行機はすべてお昼以降に時間が変更。それが昼過ぎにはついにキャンセル表示もでてくる。とはいえ、便は夜なので、まだ時間があり、一回街の中心に行くことに。

パリはものすごい寒いというのでセーターの追加購入と、あと子供が風邪で結構咳をするそうなので、その予防のための何かエッセンシャルオイルがないか、ということで、駅の様子を見るのも兼ねて、街に行こうとすると、運よくバスが来て乗ったが、これがすごいノロノロ運転である。
普段の倍近い時間をかけて駅についてみると、長距離列車は軒並みの遅れ。窓口はすごい列。ピサ行きの普通電車も40分遅れの表示。
これは、ピサ空港に行くのも大変だな、と思いつつ(普段はバスという手もある訳だが、市内の移動であれだけの時間を使うのだったら、電車で一時間かかる距離までのバスは半日かかるのが目に見えている)、まずは駅前のサンタマリアノベッラ薬局でハーブウォーターを購入。エッセンシャルオイルみたいなのを探したが、どうもよくわからなかった。
その後、セーターを物色しに、RinascenteとCoinをはしごするが、Rinascenteは高すぎでCoinも微妙。一応Zaraで買ったセーターもあるので、今回は買わないことに。
途中、雪をかぶったドゥオーモに遭遇。大変きれい。



バスは運よくすぐ来て家に帰ったのが1時半くらい。ここでもう一度空港の様子を確認すると、朝の便は軒並みキャンセルかつ、出発はすべて18時以降に変更である。自分が乗る予定の便には何も表示がないのだが、これはかなり危険な兆候である。もちろん、今ピサに雪は振っていないので、キャンセルになっているのは除雪が出来ていないか前日の混乱で機材がとどかない、とかの理由だろう。
と、ここで、ピサ空港はそもそも閉鎖されている、という表示に気づく。航空会社のページをたどって、ピサ空港が降雪のため18時まで閉まっている、との情報を得る。しかし、18時以降便が飛ぶのかと言えば、それは不明。

問題は、空港に行くのに大変な労力と時間がかかるということである。なにしろ、いったん実は空港に行こうと思って最寄りのバス停に向かったのだが、20分近く待ってやってきたバスには満員の乗客。スーツケースを抱える自分が乗り込む隙間がない状態で、乗るのを諦める。
この時点で、自分が直面する状況のオプションは次の通り
(1)空港に出向いて便に乗れる
 →言うまでもなくこれが最善。
(2)空港に出向いたが便がキャンセルになる
 →時間が遅いので、家に帰ってくるのが難しい。一日に二本しかパリ便がないので、空港に寝泊まりしてかなりの時間と労力を使うことに。
(3)空港に出向かず、便がキャンセルになるのを待ち便が実際にキャンセルになる
 →キャンセルになれば無料で便の変更が(空席がある限り)可能:これは次善の策
 しかし、このオプションはギャンブルである。なぜなら次の可能性があるからだ。
(4)空港に出向かず便がキャンセルになるのを待つが、空港が正常に戻り便が出てしまう
 →座席の変更をしていない自分は、乗り遅れた乗客扱いで、飛行機の便を一から取り直すことになる。これは最悪の状況。キャンセル表示が出るまでは生きた心地がしない。
(5)空港に出向かず、今の時点で(つまり便がキャンセルになるかどうかがまだ不明な状況にも関わらず)便を変更する。変更手数料+チケットの買い直しになるので、それなりの値段になるが、もし便が出なかった場合を考えると、いろんな心労をしなくてもいい代わりにお金を払う、というもの。

一番取りえる策は(3)に間違いがない。逐一サイトをチェックしてキャンセル表示が出た瞬間に航空会社のサイトから座席変更をすればOK。とはいえ、ピサ空港の方々ががんばって空港が再開したらもうおしまいである。それに、ピサ空港のサイトには14時初のベルリン行きは早々にキャンセル表示になったのに、航空会社のサイトはずっとScheduled表示が続いていた。つまり、航空会社のサイトの更新がOn Timeとは限らない。
ということを考えると、(5)がダメージがいろんな意味で少ないかなという結論になった。
ちなみに、このシミュレーションは、バス停でバスに乗れなかった後、掛った時間は10秒くらいだろうか。なにより、まずもって駅に行くことすら大変な状況である。タクシーを呼んでもすぐに来てくれる状況ではないし、バスもこの通りでは、大きい荷物を抱えている自分には困難な状況である。空港に行けないなら、それを前提とした最適行動を考えないといけない。それが(5)だった。

家族に今日は帰れそうにないことを連絡した後、家に戻り、ネットにつないで無事に変更を完了した後は、大学に行って変更した印刷する。ラッキーなことに、バス停に行ったらちょうどバスが来たのだ。大学の図書館は空いていたが、とってもがらんとしていた。そりゃそうなだろうなあ。というか、この人たちはどうやってここまでたどり着いたのか。
しかし、帰りは、バス停に着く瞬間に目の前をバスが通り乗れず、30分以上待つはめに。

そして、家に帰ってネットをつないで状況を確認したところ、自分が乗る予定の便はキャンセルになっていた。今日、ピサ空港は完全に閉鎖状況だった。明日、業務が通常に戻るのを祈るのみである。

統合史ワークショップ

今日は統合史のワークショップが丸一日あった。それについてかなり長く書いたのだが、PCの調子が悪く、保存されないまま消えてしまった…

自分としては、身になる部分と、身にならない部分の両方が感じられたこと、あと、少人数での議論だったわけだが、こういうのを積み重ねて研究が進むんだな、と大きく実感した。

2010年12月16日木曜日

フランスとイタリアの郵便局の行列の比較考察

先ほど日本向けの郵便を出さなければならなかったので、研究所の最寄りの郵便局に行ってきた。初めてではないだが、フランスのとの違いが非常に興味深かった。
まず共通点として、どっちも結構待たなければならない。理由はおんなじで、まずもって窓口で働いている人の数が少ない。そして多くのお客は郵便ではなく貯金関係で来ている。日本にも郵貯があるが、ヨーロッパの場合、手数料などの関係で多くの人が郵便局の口座を利用している。フランスだと、口座を作るのも維持もほとんどタダじゃなかったろうか。タダではなくても、一般の銀行よりも安いのは間違いない。カードを持つと便利だがその分手数料がかかるので、お金に余裕のない人は、引き下ろしも預け入れも窓口に並んで行う。だから、日本よりも郵便局に来る人は多い。
フランスは、昔は郵便も貯金もおんなじ窓口だったから、一回行くと30分はかかるのを覚悟したものだったが、最近このあたりは改革されて、この二つは完全に窓口が分けられた。

さて、興味深い違いなのだが、同じく順番を待っていることには変わりないが、フランスの場合、列を作ってひたすら待つ。ところが、イタリアの(特に研究所の最寄りのところの)場合、列は作らない。みんなバラバラで好きなところで待っている。その代わり、扉を開けて中に入ってきたときに、必ず「最後に待っている人は誰?」と聞くのである。自分の前の人が誰かを確認すれば、その人が終わったら次に窓口に行けばよい。これはこれで、合理的なように思う。なぜなら、まず先に中に入って、宛先とか封筒の口を閉じることとか、そういうことをしながら順番を待っていることができるからである。
あと、このシステムは、必ず誰かが誰かと話をすることを要求されるので、おしゃべりなイタリア人にはぴったりである。たぶん知り合いでもないのに、客同士よくしゃべる。フランスでも初対面同士であっても列で並んでいるときに、何かの拍子でしゃべりだすことはあるが、そこまでではない。普段なかなかイタリア語でしゃべる機会がない自分にも、よいイタリア語の訓練にもなる。実際、待っていると、日本語で書いた宛先を見て、おじさんが「これ読めるの?」と聞いていた(実際にはもっとしゃべっているのだが、理解したのはその程度)。
それと、自分は書留にしたかったから窓口に並んでいたわけだが、先に貯金の窓口が空いたので、周りの人が「次あんただよ」と言ってくれた。でも、貯金の窓口では書留の用紙がもらえないので、「いや郵便の方に用事がある」と言ったら、別に並んでいたおばさんが、「彼は書留で並んでいるからあっちが空かないとダメなのよ」という旨のことを周りの人たちにしゃべり、周りのおじ(い)さん、おば(あ)さんは、ああなるほどー、と納得していた。
という風にきちんと状況を把握する能力(Non-Verbal Communication)もイタリア人ははるかに上である。基本的にフランス人はNon-Verbal Communication能力がなさすぎると思うのだが、いつかフランス人にこのことを聞いてみたいと思う。

*追記
もちろん、言うまでもないことだが、上の話は比較でも何でもなく、単なる印象論にすぎない。大体比較となる郵便局の基準が違いすぎる。でも、やっぱり、違いはあるんじゃないかな―、という気はするんです。

2010年12月12日日曜日

クリスマス前のフィレンツェ

相変わらず家族用のクリスマス・プレゼントを求めて日曜日はCentroへ。
新しく購入したiPod Touchのカメラで町中を取ってみた。


















ドゥオーモの前に飾られているクリスマスツリー。かなり大きい。
これが、日が落ちると


















こんな感じにライトアップ。かなりきれい。ちなみに写真自体は先日撮影したもの。


















これはPiazza ss. Annunziataから見たクーポラ。個人的に、フィレンツェの風景の中で、ここがベストショットだと思う。この写真だと良さが伝わらないが…
この通り(Via dei Servi)を適当に見て回っていたら、この通りにあるBartoliniという(某シューマンセンターの所長教授と同じ名前の)お店が非常に可愛いアイテムを飾っているのでついふらふらと入ってしまう。が、大変かわいらしいだけでなく、非常に便利なキッチングッズを売っているお店だった。
http://www.bartolinifirenze.it/

その後、麦わら市場の観光客向けの売り場でなにかいいものがないかを探しに行った。フィレンツェはカシミアによる服が特産なので、カシミアのショールやマフラーがたくさん売っているのだが、よく見ると、全部Pashmere100%と書いてある。カシミアではなくパシミアってなんだ?と思いつつ、大体全部10ユーロ前後でいくらなんでも安すぎないか(ただし肌触りはすごく良い)で、結局買うのはやめる。大体、デザインがバーバリーのパクリか、色鮮やか過ぎる原色しかない。帰宅してからPashmereを調べてみたら、どうも、インド産はカシミア、ネパール産をパシミアという違いしかないことを知る。そうか、ネパール産なのか…。ほんとかな…。
夕方近くの共和国広場あたりの人だかり↓

東京なみの人ごみでびっくり。普段から中心街は日曜日でも店を空けるところが多いが、クリスマス前でさらに大変なことに。

ところで、i Pod Touchの新型にはこうしてカメラが付いた訳だが、史料収集には使えるレベルではないことが残念。シャッタースピードや本体に入る容量なんかを考えると、もうちょっと高画質に作ってくれたら、と思うのです。

今週の記録

ふと気が付いたら一週間が過ぎていた。
フィレンツェはクリスマス前の非常に華やかな雰囲気満載で、歩いているだけで楽しい。今住んでいるのは、中心街からバスで10分強の少し離れた住宅街だが、通りにはクリスマス用の電飾も飾られいる。

◎月曜日
・久しぶりに英語の語学コースに出席。当初は英語論文執筆のための実践的なコースと思っていたが、最近は本当の英語の細かいところを詰めていくような内容に。今日は、Ponctuationがテーマで、コンマ、ピリオド、コロン、セミコロンの使い分けについて。セミコロンを使いこなせるようになったら一人前なわけだが、分かっていても難しい。

・午後からは統合史のセミナー。70年代におけるECと南北問題がテーマで、
Thorsten B. Olesen, The EC and The New International Economic Order: A United or Divided Third Force?, Conference on the History of European Integration. From Crisis to New Dynamics: the European Community 1973-83, 11-12 Feb 2010.
Guiliano Garavini, The Colonies Straiks Back: The Impact of the Third World on Western Europe, 1968-1975, Contemporary European History, 16/3, 2007.
がマテリアルだった。
発表はRomeroが最後みんなあたったので自分がやろう、ということでしゃべったのだが、最初に大きな問題には言及して、議論するまでもなく終わってしまったような。しかし、OlesenにしろGaravaniにしろ、南北問題がECに対して大きな影響を与えたのは確かであるが、問題はそれに対してECがどのように対応したのかがどうもまだイマイチ詰め切れていない印象があることである。質問したら、確かに、主要国家の対応とECとしての対応がどのようなものだったのかはまだ正確に解明されていないとのこと。懸命にUnifyしようとしていた側面もある一方で、分裂していた側面もある。この内容上の分裂とUnifyメカニズムとしてのEPCとの関連もまだ詰め切れていない。あるアジェンダがなぜEPCで取り上げられてなぜあるアジェンダはオミットされるか、等(これはAurellieがある程度補足したが)。

メモ的に気になった点を挙げると、Aurellieに言わせると、73年のヨーロッパ・アイデンティティ宣言が出されたことに対してオイルショックが何らかの要因になっているという証拠はない、とのこと。

マテリアルについては、Olesenのペーパーは、EUIのサイトにアップされていたものが実はコピーが途中で切れていたことがわかりちょっと消化不良。Garaviniについては、よく読むと一次史料に基づく実証がほとんどなく、結局何が新しいのか分からないことが議論として出された。

今季取っていた統合史のセミナーは、Romeroと最近の研究動向の傾向を反映して、70年代と対外的側面が主として取り上げられた。印象に残ったのは以下の点。
(1)70年代における対外的自立傾向は自明で、それが他の文脈の広範なダイナミズムとどのようにつながっているのかが、研究されている。
(2)リエゾン主流の80-90年代と異なり、フランスと○○、西独と○○、というような研究は非常に少なくなってきている。存在するのは、新規参入国の場合(デンマーク、アイルランド等)。BAC、CMとキーとなる国家の史料を突き合わせることがほとんど。ただし、マルチラテラルではあるのだが、多くはEC+二カ国で頑張っている人は三カ国で、四カ国以上の史料に当たる人は稀。
(3)対外的ダイナミズムと対内的ダイナミズムとのかかわりは重要。このあたりは、自分の感覚は間違っていなかったことを再確認。
(4)これをこんなところで書いても仕方がないが、2006年の比較政治学会のコミトロジー論文や、2007年の国際政治学会の論文は、発表した後、すぐさま英語で書き直してどこかに投稿なり別のこちらの学会に発表すべきだった。もちろん、どこまで反応があるかどうかわからないが、それでも、改めてその後発表された研究論文などを読み直すと、自分が書いたことはそんなに間違ってはいないように思う。この二つのテーマはさらにフォローアップして論文にまとめる予定ではあるが、はて。

◎火曜日
実はあまり記憶がないのだが、某企画校正がメインか。日本から注文した書籍を受け取る。某企画の校正は、提出原稿が史料調査の途中で出したものなので、かなり苦労している。

◎水曜日
アーカイブへ。夕方は研究所のセミナー。EUIにあるFlorence School of Regulationという研究グループに所属しているフェローの発表だったのだが、全くと言っていいほど理解できず。基本は経済学で、ある所与の環境がおかれたマーケットにおいてその環境がどのように変わると、そこに置かれている企業はどのような行動を取るともっとも合理的か、というものだった、と思う。

◎木曜日
朝は、こちらの研究所で自分が選ばれている枠内のフェローのセレクション会議があったそうで、その責任者?の教授が、今過ごしているフェローの現状を確認したいということで、カフェで少しその教授とお話しした。でも実はその教授はなんと前EUI学長のとっても偉い人だったのだが、大変気さくな人だった。EUI学長はEU官僚と政治家が多いのだが、学者は彼一人だけではないだろうか。
ところで、彼をしゃべっていると、知り合いのフェロー(女性)がコーヒーを飲みに来て、前EUI学長が去った後彼女と少ししゃべったのだが、最初は前EUI学長とセレクションのことについて僕が話し、その後フェローとして各地を転々とする苦労について彼女が話した後、途中で彼女がいったい何をしゃべっているのかが全く分からなくなった。とてもうれしそうに何かをしゃべっているのだが、本当に何について話しているのかが分からなかった。彼女はアメリカ人で、アメリカンな流暢な英語は聞き取りにくいというのもあるかも知れない(自分には流暢なドイツ人・デンマーク人の英語が一番聞き取りやすい)。分からない、というのも言えず、適当にお茶を濁して別れたのだが、最近英語ばかりの環境で、英語にはかなり慣れたと思ったにも関わらず、ちょっとショック。

お昼は、食堂でばったり会った、R大からこられているIさんとご同席。

午後からは、最後のInternational Historyのセミナーへ。出席者の大半を占める博士一年目の人たちは、今Seminar Paperの締め切り直前で、出席者はいつもの半分くらい、しかも、ほとんど誰もマテリアルを読んでこない、という状況。

テーマはベルリンの壁崩壊1989で、Bozoの英訳本をめぐるH-DiploのラウンドテーブルとSarotteの単行本のIntroと結論部分。
しかし、議論はもっぱら、直近の歴史を記述するための方法論、情報化時代、特にWikileaksのような事件が起こるような現在における歴史記述のための方法論がもっぱらだった。Garton AshのGuardian記事がやり玉にあがる。

ところで、International Historyセミナーでは、長らく「アジア的視点」を代表して話に参加していて、これはもう嫌でたまらなく、なんとかそんな視点からでないところから議論に割り込んでいけないか、と常々思っていたが、ようやく最後になって、普通に議論に割り込んでいけたし、自分の発言を受けて議論が続いたし、自分の発言に周りのResearcherもなるほどと頷いてくれた。と言っても、彼らは自分より10歳は若い世代なんだが。。

それにしても、語学とこのセミナーに出席したお陰か、EUIに行けば必ずだれか知り合いとすれ違うようになる。まあ、EUI自体が狭いからだろうが。。

◎金曜日
アーカイブが10時半から空くので、午前中は家で校正作業。お昼を学食に食べに行って、午後はアーカイブ。アーカイブは5時に締まるので、その後は家族へのクリスマス・プレゼントを求めて町中へ。
帰宅してからは、日本の大学の共同研究の作業と、某企画校正。

2010年12月3日金曜日

一週間の記録

日曜日にパリから戻ってきた後の記録。

◎月曜日
13時からのセミナーで発表が当たっていたのだが、準備が終わらず9時からの語学は自主休講。
今回のセッションのシラバス上のテーマは東西関係だったが、正確にはヨーロッパ統合の対外的側面と対内的側面の交錯と言った方がよさそう。文献は、
・Kai Hebel & Tobias Lenz, West European Foreign Policy during the Cold War. The Twisted Path Towards Liberal Realpolitik, Draft paper prepared for the Sixth History of European Integration Research Society (HEIRS) Colloquium, 15-16 April 2010, University of Reading, UK
・Sara Tavani, CFSP Origins and European Detente: a Common European Stance on the Polish Crisis of 1980-81, Draft paper prepared for the Sixth History of European Integration Research Society (HEIRS) Colloquium, 15-16 April 2010, University of Reading, UK
の二本。HebelとLenzはOxfordの博士課程の院生のようで、Tavaniはフィレンツェ大学のPh.Dを取得しているポスドク。特にTavaniは今一番ホットな80年代の時代を扱っている。出典が明らかではないが、アメリカの一次史料も使用。
内容:Hebel & Lenz:ヨーロッパ統合(EU)のPolitical Identityが対外的な事件による共同体外部からの刺激によって60年代から70年代にかけて形成される過程を論じる。60年代は、フランコのスペインによるEECへのAssociation申請および68年のギリシャ軍事クーデターに対するEPにおける議論を取り上げ、独裁・権威主義体制に対しヨーロッパ統合が「民主主義Democracy」「自由」「法の支配」を自らの規範としていった。69年のハーグ会談においても、ブラントは自由と民主主義の価値をECが保持していく重要性を訴えている。そしてこの流れはCSCE交渉における人権条項の挿入によって確実なものとなり、EUは自らの政治的アイデンティティとして「民主主義」「自由」「人権の尊重」を確立することとなった、というもの。
Tavani:81年のポーランド危機(連帯の誕生から戒厳令に至る政治的波乱。とくに、ポーランドへのソ連の軍事介入を西側は恐れる)に際するECの対応を論じて、ヨーロッパ・デタントとECの対内的結束のリンケージを論じたもの。ポーランド危機の際、EC諸国はデタントを維持したいという目的から東側へのソフトな対応を望んだが、アメリカは対ソ強硬姿勢を取り、それをEC諸国へも押しつけようとした。ここにECとアメリカとの間に溝が生まれ、ECはアメリカへの対抗のためにSingle Voiceでアメリカと交渉する必要に迫られる。そこで活用されたのがEPCであること、またこれ以外にも、この時点でECはソ連・東欧とアメリカとは独自の通商・エネルギー関係を結んでおり、そのような関係を維持したいヨーロッパの利益とアメリカの利益は相反するものになっていた。このような米欧間の利益の不一致により、EC諸国の対ポーランド危機に対する政策は収斂していき、このような対外政策の収斂は、マーストリヒトで登場するCFSPの一つの起源となるものだった、というもの。

評価:Hebel & Lenzの論稿は、先行研究をまとめたもの(60年代はDaniel Thomasで70年代はYamamoto!)でオリジナル性はあまり感じなかった。それに加えて、EUのPolitical IdentityがDemocracyでありHuman Rightであるという議論は二重の意味で留保が必要である。第一に、DemocracyであれHuman Rightであれ、これは普遍的な原理であるのでこれを政治的なアイデンティティとする意味は一体何か、ということに注意しなければならないこと、第二に、この原則に関する法的権限に関してはCouncil of Europeの存在が無視できず、CoEとの関係を明らかにする必要があるということである。この二つの点は論点として提示した。
他方でTavaniの論稿は、とても興味深かった。デタントと対内的な政策の収斂のリンケージが非常に説得的かつ実証的に論じられ、自分の研究にとっても参考になるものだった。余談になるが、近年統合史の有力な若手研究者はイタリア出身が非常に多い。旧来の有力国フランスからはWarlouzetぐらいか。イタリアからはMigami、Romano、Gravini、のほかいっぱいいる。

セミナーの議論としては、Political Identityってそもそも何?ということから始まり、わりと活発に、時間が過ぎるのが早いくらいに充実して終われた。11月のセミナー発表を経験してか、大学院セミナーの発表にはあまり緊張感を持たなくて望めたのがよかった。自分でも、英語のセミナーに徐々に慣れてきているのを、また議論についても80%はフォローできていることを感じる。とはいっても、それだけ介入できているか、と言えばそうでもないのだが。80%で満足せず、もっと議論に活発に入っていけるようになりたい。

◎火曜日
・某科研の共同研究の出版用原稿の締め切りだったので、一日それにかかりきり。原稿自体は昨年の今くらいに出したのだが出版社の変更によっていろいろと先延ばしになっていた。今更修正もない、と言いたいところだが、コミトロジーの現状を最後の一章を割いて概略的に論じている部分が、リスボン条約の調印によってアウトオブデートになってしまい、リスボン条約におけるコミトロジー改革についてまとめる必要が出てしまった。
で、いざ調べてみると、自分がいかにリスボン条約について知らなかったかというのがよくわかった。最近はこんなんばっかりだ。
2009年末に発効したリスボン条約のコミトロジー改革についてまとまった論文もある訳もなく、と思ったら実はあって、それはなんと同じVillaに研究室を持つあのシニアフェローさんだった。最初はなんだかよくわからなかった改革の概要が、彼の論文(長さ的にはコラムだが)を読むとよくわかった。これはすごい。


◎水曜日
・大詰めを迎えている学内某共同研究の出版用原稿について、自分の論稿が予想以上に重要な位置づけになりそうなので、草稿のややシニカルなスタンスを一掃して、見取り図を描くべく修正する。結果、「はじめに」と「おわりに」のほとんどを書きなおし。その他、こまごまとした点も書き直し。これに一日仕事になる(でも一日で終わらせる)。
・家に帰ったあと、草稿の締め切りは本年の3月末で、入稿締め切りが夏休み末だった、某共著企画の原稿に取り掛かる。これはいまだに仕上げられず(本当は一か月前くらいに書き上げたのだが)、このままではイカンということで、どうしても気になる点を修正して、編者+編集者の方に深夜送付。

◎木曜日
・セミナー予習をしていなかったので、その予習を午前中にして、15時から出席。
テーマはアメリカナイゼーション
Volker Berghahn, "Historiographical Review. The debate on 'Americanization' among economic and cultural historians", Cold War History, 10(1), 2010, 107-130.
議論としては、(1)論稿において文化伝播の比喩として、高速道路モデルとターンテーブルモデルというのが出てくるが、この二つのモデルは妥当か、(2)環大西洋史、(3)冷戦史における文化、という三つのテーマで占められる。アメリカナイゼーションは、第二大戦後の西欧の社会文化変容を捉える一つのキーワードであるわけだが、それ自体は西欧だけでなく日本をはじめとする世界のあちこちで起きている現象である。特に、それが経済史・文化史においてどのような役割を果たすか、という論稿なのだが、論稿の射程もまたこのセミナーにおける議論も、結局西欧とアメリカという関係に限定してたものとなった。唯一の非ヨーロッパ人の参加者として話が振られるかと思ったが、それはなかった。もう、こっちが口火を切らないとダメなんだな。
個人的な感想としては、論稿に出てくるDeuring-Manteufelによる冷戦期のWesterniszation(冷戦的ブロックの西側内部でのイデオロギー化)はともかく、イスラムやアジアに対するWesternizationとAmericanizationの違いをどう考えるか、といった点が気になったが、どうもこのような問題は、また別問題みたいだ。基本的にTransatlanticな枠組みとそれ以外の枠組みは分けて考えるのが正しいよう(そして後者こそがGlobal History)。しかし、やはり日本人としてそれはあまり納得できない。しかし、それがこちらの学会でのすみ分けになっている以上、なにか実証的な架橋を示す論文でも示しながら反論しない限り、ただそのようなことを指摘しても興ざめになるだけなので、難しい。
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