最後に、書評会を組織していただいた諸先生方、評者として参加される先生方に深くお礼申しあげます。
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このたび刊行された『複数のヨーロッパ』(以下、本書)について、論文を著した一人として、しかし「複数のヨーロッパ」というコンセプトに関わる企画にはタッチしてなかったヨーロッパ統合史を専攻する人間として、何か今後の研究に資する役立つべきものについて考えたい。
本書の狙いについては編者の二人によるまえがきにあるように、これまでの統合史の単線的理解を時空間的に拡張することにある。それは統合史を超えて広くヨーロッパ史そのものの語り方にまで議論の射程が及ぶとても重要な論点である。評者は、その重要性について決して否定するものではないし、すぐ後で書くように、決して自分の書いた論稿がそのような趣旨に沿っていなかったことを悔しく思い、出来ればそのような方向性に沿った実証論文を将来執筆してみたいと思う(ただし思っているだけで具体的計画はない)。
本書における純粋な意味でのこの企画の趣旨に沿った論稿は第二章から第四章までの、宮下、板橋、黒田論文であり、この三つの論稿が合わさって提示されていることにこそ、本書の意義があると考えられる。評者が記した第五章は、確かに邦語論文ではこれまでなかったテーマかもしれないが、同テーマでのヨーロッパ各国における研究蓄積を考えるとそれほどオリジナリティがあるとは思えない。第五章の拙論文の執筆動機として、ヨーロッパにおける共通農業政策の成立をめぐる歴史研究の絶望的なまでの分厚さとその分厚さがほとんど日本に紹介(理解)されていない現状を鑑みて、基本的な学術的オリジナリティを放棄して、横を縦にするつもりで執筆したことは正直に告白しなければならない(そのために、拙論文には先行研究批判はなく、先行研究のまとめであることをそれとなく記してある)。
ただし、横を縦にして読者が面白く読めるかといえばそれはまた別問題である。また、横の文献がMilward・Griffithsの論稿を除けば仏・独・オランダ語文献であることも、日本における理解を困難にしている遠因であろう(語学的な問題は原始的な問題だが、ヨーロッパ人においても程度の差はあれ同じ問題はあるので、やはり無視できる問題ではないと思う)。また、農業統合の歴史から何を読みとるのか、何を興味深く感じるかについても、各国の読者で態度は異なる。そのため実証的なオリジナリティは放棄しつつも、日本の読者にとって興味深いと思われる点に焦点を絞る記述を心がけることにした(具体的には、統合の出発点としてのシューマン宣言の一種の脱神話化や、農業統合の議論の中に、EECにおいて実現する統合手法の萌芽が既に見受けられること、等。こういうことは、例えば前者のような話は英語で専門的に書こうとすればある意味当たり前の話になっているので、書いても意味のないことになるが、よくも悪くも日本語ではまだ意味のあることと思われる)。
さて、筆者が本書の書評として何か言うべきことがあるとするならば、以下の二つである。第一には、ヨーロッパという地域の地域性とグローバル性の相克、言い換えるならば、ヨーロッパ統合史と一方でナショナルな政治史との接合、他方でグローバルな歴史との接続をどのように達成すべきか(もしくは達成すべきではないのか)という問題である。
本書における統合史の開放が空間的に達成されることは、統合史がどのようにグローバルな国際関係史(などというものがあると仮定したうえでの話だが)とどのように接合されるのだろうか。これは、実際に第一章のレビューの中で取り上げられており、取り分け鈴木論文のテーマと関わりあう。この点を見れば、統合史に多くのまだフロンティアが残されていることは疑いがなかろう。例えば植民地の議論にしても、イギリス加盟後のECが、アフリカとコモンウェルスという二重の歴史的(負の)遺産に対峙しようとしたのか、共同体の中東政策はどのように変遷したのか(そしてそれは中東のグローバルな位置づけとどのように連動しているのか)【なお、このテーマはAurelie Gfellerが部分的に着手している】、ヘルシンキ宣言後のECが東欧の反政府運動をどのように考え、関係を結んだのか(あるいは結ばなかったのか)【このテーマはVarsori弟子系統の人が部分的に着手の様子】等、興味深いトピックは多い。本書に参加された方々は、おそらくこのような領域のフロンティアを切り拓いていくであろうし、これから大学院に進むような後進の方々も、この領域に参入することが一番期待されよう。
さて、ナショナルな政治史と統合史との接続という問題はどうであろうか。実はこの問いをめぐる状況は日欧で捻じれていると評者は感じる。日本での政治学におけるヨーロッパ研究の出発点はナショナルな政治史研究であり、ある種の衰退という言説は存在していても、にもかかわらず日本では正統な研究というポジションを有している。そのため、ある意味、ナショナルな政治史の素養のある人間が統合史に研究領域を<拡張>する、というイメージを持ちがちである。しかしヨーロッパにおいては、統合史はナショナルな政治史研究とは独立した国際関係史のポジションを既に有しており(統合史研究者の多くが既に存在していた国際関係史研究から出てきていることは既に遠藤編統合史通史篇(下記参照)で指摘されているとおり)、その意味で統合史研究とナショナルな政治史研究はある意味断絶している。他方で、ヨーロッパにおけるナショナルな政治史研究は古典的な政治制度・政治社会史から新しい政治史と呼ばれる研究潮流に進みつつある(古典的な政治史研究がもはや成立しにくくなっている状況は昨年度の日本政治学会における網谷ペーパーに詳しい。なおこの「新しい政治史」研究は日本の学界マップに当てはめれば社会史・文化史的研究に近いように感じる)。その一方で、本書第一章に紹介があるように、ケルブレのような「ヨーロッパ社会史」研究は、ヨーロッパにおけるナショナルとヨーロピアンな次元の交錯を示唆しており、言うまでもない「ヨーロッパ化」という政治学的概念の登場と合わせて、ナショナルな政治社会空間はせまくなっている。
評者には、このような研究動向は、ヨーロッパ統合史とナショナルな政治史との融合の可能性(とその限界)を逆に示唆しているように思われる。ナショナルな政治空間の狭窄化にも関わらず強固に残る国の骨格もまたある。60年代から進行する大衆社会化とそのヨーロッパ的共通性と80年代中盤から本格化するヨーロッパ統合との進展は、どのようにシンクロしていくのか。ナショナルな政治言説におけるヨーロッパ統合の力学はどのように浸透していくのか。古典的な外交史がヨーロッパ統合史という名前で新しい国際関係史研究として復活したように、古典的な政治史がヨーロッパ統合による国内政治構造への浸透と限界という観点から新しい政治史として復活する可能性はないのだろうか。このような観点は、ヨーロッパ統合の今後を問うものではなく、ヨーロッパが20世紀に何を達成したのかを問うものである。統合史のフロンティアは、統合史だけのフロンティアではないかもしれないからだ。
第二には、統合という新規な現象をどのように分析すべきであるか、というアプローチ上の問題である。これは第一章の「アプローチ上の開放」に相当する論点であるが、第一章とは少し異なる形で述べてみたい。
当たり前であるが、ヨーロッパ統合は実現してから未だ50年から60年程度の短い歴史しかない。既に多くの人が指摘しているが、統合はその原初から社会科学者・ジャーナリストが観察してきた。事実関係からみれば、多くの出来事は、ジャーナリズムを通じて、また統合に関するものならば、例えばAgence EuropeやEurope Bulletin Quotidienを通じて日々報道されてきた。
では同時代的な観察と歴史研究はどう違うのだろうか。それにはいくつもの回答が寄せられようが(一口に歴史研究といっても中世史や近世史と現代史では大きく異なるのでここでは現代史という前提にたつ)、一つの考えとして、歴史研究にはその議論の広がりを既に知っており、そこから逆算して、当時の議論を検討することができる。これは、現在の視点から過去を扱うことではなく、むしろ逆である。当時の観点から見れば、結局成り立たなかったものも、現実的な可能性を帯びたものの一つだった。統合史においては構想を扱う議論が多い。その理由は、構想がたとえ今日の目から見れば非現実的であってもそれがその当時においてどれくらいの現実的重みを持っていたかは一義的に判断できるものではない。
歴史研究(もしくは歴史的アプローチ)とは変化を扱うものではないし、起源(のみ)を扱うものでもない。歴史とは、ある時代において問題となるその問題を取り巻くコンテクストの要素を確定する作業であると、私見では思う。同時代的観察と歴史研究との違いは、そのコンテクストをどこにとるか、という点にある。すぐれた同時代的観察とは、その観察そのものの中に歴史的な視座があり、観察対象がどのような歴史的コンテクストに位置づけられるかを意識的・無意識的に行っているものである。第一章で触れているアプローチ上の開放とは、このコンテクストをどうとるかという問題について、複数のコンテクストの競合や融合を図ることにあるのではないかと感じている。
統合史研究を進める中で感じるときに史料を読みながら疑問に思う点は、「Relance」という存在である。Relanceの時、制度と達成物が劇的に変化する。正確に言えば、それまでは合意できなかったことが合意されたので劇的に状況が変わるのである。評者は、それがRelance=再発進という用語ではうまく捉えられないと感じる。むろん、Relanceとは同時代的に使われた用語であり、そこには多分に理想主義的統合論がある。ここで言いたいのは、何故劇的な合意が生まれるのかは、実は史料から見てもよくわからない点が多い、ということである。おそらく多くの場合、それには冷戦的な状況の変化は、モネやその他政治的リーダーシップの活躍を議論することになろう。他方で、RelanceなきRelanceもある。60年代や70年代後半から80年代前半がそれである。思うに、評者が感じる最後の、そして最高に難攻不落なフロンティアは、愚直なまでに正面から挑む問題-すなわち、なぜ、どうやって統合は誕生し、そしてどのようなロジックに基づいて進展(あるいは時には退化)していったのか、にあるのではないだろうか。
最後に、本書は様々な意味において、遠藤乾編『ヨーロッパ統合史』(名大出版会:いわゆる統合史通史篇)の学術的基盤を受けて執筆されたものである。だから、ヨーロッパ統合の歴史についてよく知らない人が本書をいきなり読んでもややちんぷんかんぷんである可能性はある(特に第一章:第一章はある学問分野の研究動向の展開を実際の研究文献を示しながら記した論稿なので、歴史研究そのもの関心のない人が読むと辛くなるが、この章がいかに労作であるであるかはなかなかその筋の人が読まないと分からないかもしれない)。その意味で、本書を読んでよくわからない点があったら、上記通史篇を一読するだけでも大いに効果はあるのではなかろうか。
「あとがき」にもあるように、ここ近年のヨーロッパ統合史にかぎらずヨーロッパ国際関係史の日本における研究状況は大変活発化している。それが「ピーク」であるかどうかは分からない。これが「ピーク」にならないように、私自身も微力は尽くしたいが、私だけでは到底心もとないので、是非本書を手に取った人の多くがヨーロッパの国際関係史・統合史に魅力を抱いてくれて、そしてヨーロッパのマルチな世界に参入されることを願って筆を擱きたい。